何だ。何が起きたんだ。
目の前で横たわるそいつを俺はただ突っ立って見下ろす事しか出来なかった。
忍足が駆け寄り呼びかけているいるが、身じろぎすらない。

「跡部!」
「ち、が……」

忍足が非難するように俺を見た。

「跡部、お前を責めてるんやない。誰か人を、」
「おれ、のせ、い……じゃ」
「分かっとる、お前がやったんやない。話は後で聞いたる、せやから今は誰か呼んで、」
「俺、の……」
「話を聞かんかいッ跡部!!」
「違う!! 俺様の所為じゃない!」

殴られた事に腹が立った。中途半端に中断されたゲームに頭にきた。俺を馬鹿にする態度しかとらないコイツの事が、――大嫌いだ。

「――暁ッ!!」

雨音に紛れる様に聞こえた声の方へ頭を向ければ、いつの間に居なくなっていたコイツの片割れが走り寄ってくる所だった。

「暁ッ、おい暁!!」
「アカンッ、倒れた時に頭打っとるかもしれん!」

男の悲痛な叫びが事の重大さを物語っている気がした。
揺さぶらんとする男の手を払いのける忍足に男は反論する様子はない。
土砂降りの中立ちつくす俺と、座りこむ二人、横たわる少年。こんな異質な俺達が見過ごされる筈も無く、クラブスタッフと思しき人影が視界の端に映る。

「大丈夫ですか?!」
「はよ担架持ってきたって!! 後頭打っとるかもしれん、念の為救急車を」
「きゅ、救急車ですか!?」
「何でもええから、はようッ!」
「――いや、救急車は呼ばなくていいです」
「……え?」

先程とは打って変わり、やけに落ち着いた台詞だった。
忍足の制止を無視し、男は少年を横抱きに抱え込んだ。

「自分、何やっとるんッ!」
「大丈夫だから」
「せやけど!」
「うん、分かってるから」

男の横顔は全てを知っている、そんな表情だった。
遠くなる忍足と男の背中を茫然と見送る。聞こえたのはバチバチと何かが跳ねる音。
いつの間にか駆け寄ってきていたスタッフの一人が俺の頭上に傘を当てがっている。今更過ぎる程ずぶ濡れで、この雨の中では意味がない。
このまま此処にいてもしょうがないと悟り、灯りが差し込む出入り口へ足を進める。
カタッと爪先に何かが触れ、見下ろせばテニスラケットだった。腰を屈めそれを手に取る。

「これ……」

赤いグリップ。紛れも無いアイツが使用していた物だ。
良く見ればこのラケット、己が愛用するメーカーのラケットで、しかも日本未発売の代物。ただの餓鬼が持つには高い玩具だ。
ーーただの餓鬼ならな。
鼻を鳴らし、己のラケットと合わせて持ち直す。
ん? 何だ。グリップに何か書かれている。

『from R to ……』

ーーRから……へ。
その先は消えて読めなかった。
だが俺には分かる。toから続く文字はきっとアイツの……。


中に入るとマネージャーが青白い顔で立っていた。駆け寄ってくるなりあれこれ世話を焼かれウンザリする。
俺の心配と言うより己の立場を危惧しての対応だという事は端から分かっているだけに、鬱陶しいことこの上無い。
頭からタオルを被り、忍足達の姿を探す。

「おい、忍足達はどこだ」
「ええ、それが……、忍足様は救急車と仰いましたがお連れ様が必要ないの一点張りでして、今は受付横の救護室で横になっております」

それだけ聞き、救護室へ足を向ける。後ろからついてくるマネージャーを手で払い、必要ないと言いつける。
俺の足音だけが響く通路を先に進んでいると、先の部屋から明かりが洩れ、男が出てきた。
男は俺に気付いた様子でこちらを見たままドアの前で待っている。止りそうになる足を己のプライドで突き動かし、男から数歩の所で立ち止まる。
どこか申し訳なさそうな表情を浮かべている男に驚いた。忍足から何も聞いてないのか。開口一番怒鳴り散らされると思っていた。

「ゴメンね、変な事に巻きこんじゃって」
「……いや……」

俺の所為ではないにしろバツが悪く、顔が直視できない。

「大丈夫、キミの所為じゃないのは分かっているから」

あの台詞だ。男を見る。
男は深く頷き、あろう事か俺の頭に手をのせ撫でている。
親にもされた事も無いこの行為に何故か涙が出そうになった。

「ラケット、持ってきてくれたんだね……、ありがとう」
「ふ、ふん、こんなもん序でだ」
「それでも、ありがとう。それは暁が大切にしている物だからね」

素直に言えない自分が歯痒い。だがこれが俺で、今更変える事は無理に近い。
そっぽを向きつつチラと男を見れば、愛おしそうにアイツのラケットを撫でていた。

「キミの友達なら中にいるから。良かったら一緒に暁を見ててもらってもいい?」
「……アンタは」
「ロッカーから荷物取ってくるね」
「……しょうがねえなあ」

後でねと、手を振り男は背を向けた。
中に入るとベッドに寝かされたアイツとその傍らに腰掛ける忍足が目に入る。
一瞬忍足と目があったが、直ぐに逸らされた。足音を立てずベッドへ歩み寄ると眉間に皺を寄せ、青白い顔で横になっている。

「……なんでや」
「…………」
「なんで、自分は平然としていられんねやッ!!」

忍足の声が響く。胸倉を掴まれ、首にかけていたタオルが滑り落ちる。
真っすぐ忍足の目を見返す。

「……堪忍」
「…………」
「分かっとる……、跡部の所為やないって事くらい分かっとる」
「忍足……」
「……見てみ跡部」

忍足の視線を追った。

「ずっとこうや。ずっと苦しそうな顔してんねん」
「…………」
「手握っても、頬撫でても、……どないして……」

苦しそうに開閉を繰り返す口と深まる眉間の皺を目の当たりにし、布団からはみ出ている華奢な手に己の手を重ねていた。
――冷てえ。
だが、離そうとは思わなかった。
何故だか離してはいけないと、そう思った。

「あ……」

空を彷徨っていた視線を再び落とすと数分前まで浮かべていた表情は消えていた。穏やかな寝顔だ。
無表情か顰めた面しか見ていなかったがこうして見てみると、随分と幼顔だ。男の寝顔はこういうものだろうか。ふと浮かべた。

「はは、何や悔しいわ……」
「あーん?」
「俺が幾ら握っても駄目やったのに……、ホンマずるいわ跡部――」
「……別に、……タイミングだろ」

忍足からヒシヒシと伝わるこれは……。

「……ぃ、……だ」
「あ?」

忍足を見る。でも忍足の様子から、声を上げたのは忍足ではない。だとすれば、考えられるのは。ベッドに視線を落とす。

「……れ、……け……て」
「…………」

止めどなく流れる涙を止める術を俺達はーー知らない。

「誰、か……、助、けて……」

瞬間音を響かせ乱暴に開かれた扉に肩が跳ねた。驚いたままそっちを見れば見知らぬ大人と、その背後に男の姿があった。
見知らぬ男はずかずかと足音を立て、近づいてくる。

「おい、心ッ、これはどういうことだ!」
「ちょ、楓君もう少し声のボリューム落としてッ」
「うるせえ! お前がついていながら何やってんだよ!!」
「……ゴメン」
「チッ」

酷く苛立った様子の男が徐に布団を剥がし、奴を抱えた。
俺も忍足も口を挟む間すらなかった。

「楓君ッ、もっと丁寧に接して!」
「はッ、そんな軟な奴じゃないだろ」
「でもッ」
「オイ、お前等――」

男の視線が俺達に向けられる。
そのあまりの眼光に震えそうになるが太腿に爪を立て、己を律する。細められる男の双眸を睨みつけるように見返せば、男の口端が上がった気がした。

「暁のこと見ていてくれて、――ありがとな」

それだけ口にし、男は踵を返した。
その後を慌てて追う連れの背中を眼で追えば、扉の前で立ち止まり振り返った。

「今日は本当ゴメンね! 有難う!!」

扉が閉まる。
部屋が静寂に包まれる。
この短時間に色々な事があり過ぎて、頭がパンクしそうだ。いや俺の頭はそこらへんの奴とは比べ物にならない程容量は多い、が兎に角頭で考える事に感情が追いつかない。

「なあ、跡部……」
「あん?」
「俺な、……俺、あの子ん事――知っとる気がすんねん」
「……は?」

唐突過ぎる忍足の台詞に変な声が出る。

「……前に会うた子とおなし台詞やねん」

忍足の手にまたあのテニスボールが握られていた。

「俺、あの子探すわ」
「はあ?」
「探して、このボール、……返したる」

冗談だろ、と笑えなかった。それが冗談ではないのは忍足の様子から分かる。
忍足の視線がボールから俺に向けられる。

「跡部は……」
「俺様の知ったことか」
「…………」
「アイツ等に会うなど二度とごめんだ」

忍足はそれ以上何も聞かなかった。

「ほな、俺帰るわ。今日は相手してもろておおきに」

忍足は静かに立ち上がり、部屋を出て行った。
俺は知らない。今日会ったばかりの赤の他人同然の相手がどうなろうが、俺の知ったことか。
アイツが倒れた意味も、泣いた意味も、助けてと悲願した意味も――知りたくも無い。

濡れたままのウェアーが、全てが不快だ。早く家に帰り、この気持ちごと洗い流したい。
立て掛けたラケットを取る。カタンと響いた音に視線を落とせば、赤いグリップの巻かれたラケットが倒れている。

「チッ」

返しそびれた。このままそこに放置してもいいが、あんな事聞いた手前それは気が引ける。
受付にでも預ければ、後で取りに来るだろう。
二本のラケットを抱え、部屋を出る。何歩も歩かない内に受付に差し掛かり、足を止める。
受付嬢が不思議そうに俺を見ている。――早く渡せ。

「何か御用……」
「景吾様?! 何故濡れているのですか!? 早くシャワーを!」
「…………」
「景吾、様? どうされまし」
「――いや、このまま帰る」

飛んできたマネージャーからテニスバックを受け取り、ラケットを中に入れる。
外にはみ出た赤いグリップを押し込み、ファスナーを閉めた。
そう、これはただの気まぐれだ。





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