遅い。約束した時間をとうに越えているのも関わらず約束を交わした人間が現れる気配はない。
先を進む時計を睨みつけながら脚を踏み鳴らす。
――いい度胸してやがる、あの野郎ッ。
エントランスであった事も相俟って、イラつきが増す。何度目かも分からない舌打ちをした直後、入口に姿を現した忍足にまた舌打ちをする。
文句の一言でもと口を開いたが、異様に辺りをキョロキョロ見ている忍足の仕草に眉間に皺が寄る。何やってんだアイツ。
それにラケットを握る反対の手に黄色いボールを握っているのが見え、眉間の皺が更に深くなる。
ボールはこっちで用意すると伝えた筈だが、忍足は何を聞いていたんだ。

「忍足てめえ、遅れて来といてちんたら歩いてんじゃねえぞ、オイ」
「ん、ああ堪忍」

その言葉と動作が全く合っていない。俺の中の何かが切れた。
足早に忍足の元へ歩を進め、忍足の胸倉を掴む。まるでアイツに掴まれた様に。

「――てめえから誘っておきながら遅刻した揚句、てめえは何やってんだ、ああ゛−ん?」

癪に障るが成長期には抗えない。下から睨み上げ、不満をぶちまける。
一瞬趣味の悪い丸眼鏡の奥で目を丸くしたように見えたが一瞬の事、直ぐに元の表情へ戻っていた。

「せやから堪忍やって謝ってるやん。遅れたのはちょっと事情が、なあ」
「ちッ、……んだよその事情とやらは」

降参とばかりに両手を上げ、胡散臭い表情を浮かべる忍足から乱暴に手を除ける。
襟刳りを直す忍足を睨みつけ、事情とやらを聞く。

「ふ、何や跡部、そない気になるん? 俺も出世したやん」
「だ ま れ。俺様との約束を差し置いて、重要な事情とやらがあってたまるか!」
「……どないしたん跡部。なんやいつもと違わへん?」

息が荒い俺とは対照的な忍足の態度に羞恥を覚える。
コイツはいつもそうだ。何事に対しても冷静で、動じない。何を言われても表情を崩さず、誰に対しても同じ態度で接している。
まるでそれは、周りと自分とを分ける壁の様に感じる。その癖、変化に敏感な節も有る忍足が俺は苦手だ。

「チッ、何でもねえよ。……おい、今度遅刻してみろ、俺様は速攻で帰るからな」
「はいはい、おおきに、堪忍な跡部」

若干癇に障ったが、これ以上時間を無駄にするのは賢明ではないと思い留まる。
無言でベンチへ向かい、ラケットを手に取る。

「なあ跡部、ここに俺等と同い年位の男の子――来いひんかった?」

唐突過ぎるその質問に思わず忍足を見る。俺の脳裏に何故かアイツの顔が浮かんだが、違うと頭を振る。

「……忘れ物渡そう思たんやけど、なんや居らへんし……」

テニスボールを握る忍足の手に力が込められた様に見えた。

「生憎そんな奴は来てねえ、というか忘れ物なんざそこら辺の奴にでも渡せやいいだろうが」
「そうやねんけど……。……まあええわ」

煮え切らない忍足のその態度が気にはなったが、これ以上聞いても忍足は何も言わないだろう。
普段からは想像がつかない行動をする忍足に興味が湧くが、テニスをしたいと身体が疼く。俺も大概テニス馬鹿だ。

「忍足、コートに立て」
「は?」
「その為にここに来たんだろうが。……さっさとしろ」

阿保面を晒す忍足に背を向け、コートに入る。
背後で戸惑う気配を感じたが、直ぐに視界の端に忍足を捉えた。
忍足の左手にはもうボールは握られていなかった。

「……どないな風の吹きまわしやねん」
「あーん? てめえが言った事じゃねえか」
「そうやけど……」

ウォーミングアップのラリーを終え、手元のボールを持ち直す。
構えた忍足を確認し、ボールを空高く放つ。


約束の時間より早く着いた所為か、いつもなら出迎えるマネージャーがいなかった。居るのは受けつけをする男と自販機の前でボケっと突っ立ているガキだけ。先に行ってしまおうか考え始めた所でカツンと靴の先に何か当たった。見下ろせば其れは五百円硬貨で、どこからと視線を辿る間もなくそいつが視界に入った。

『すみませ……、いや、すみません、それ自分の、……です」

随分耳に馴染む語言を発したそいつは、まるでそれが咄嗟に出てしまったかのように途中で言いかえた。
拾う事もそこから動く事もしなかった俺に何を思ったのか、そいつは身体を起こした。
まさに日本人と言った風貌は特に印象に残るものは無く、さっきの言葉は自分の聞き間違えなのではと思ったほど。だがどこか忍足を彷彿とさせる雰囲気を纏うそいつに知らず内眉間に皺が寄っていた。
ジッと見ていると目が合ったが、そいつが徐に俺から目を逸らしたのが無性に腹立たしかった。だから足元に転がる五百円玉を踏みつけた。ざまあみろ。
俺の思い通りに行かない事なんか一度だってなかった。大の大人が俺みたいな餓鬼にヘコヘコ頭を下げ機嫌を窺い、馬鹿な女共は俺を見てはきゃあきゃあと耳障りな奇声を上げ、男共は媚を売る。だからそいつが俺から興味をなくした様な、馬鹿にした様な態度が気にくわなかった。
だけどまさか胸倉を掴まれるとは思っていなかった。
そして今まで向けられた事がない様な憎悪が向けられたその時、俺はどうしようもない喪失感に襲われた。

空調が利いていると言っても熱中症を防ぐ為、定期的に水分補給は取る。
窓に面してベンチが置かれ、丁度顔の高さに位置する窓からは屋外コートが一望できる。この暑さだから当然利用者も少なく、数組のペアーしかいなかった。
ボトルを傾けながら一番手前でラリーをするペアーを何となく眺めていた。
至極普通なラリーの応酬に物足りなさを感じ、鼻を鳴らす。面白みに欠けるそれから目を逸らそうとした時、アウトでもないのに不意にラリーが中断した。何だと首を傾げる。
炎天下だと言うのに何も被らない一人がネットに詰め寄り、何か言っている風に見える。その相手はそれを聞いているのかそうではないのか、ガットをただ弄っている。
ボトルに口をつけ、その様子を見下ろしていると、不意に帽子を脱いだ人間の顔が見えた。

「あ」

その不機嫌そうな面は、エントランスで遭遇したアイツだった。よくよく見て見れば、その相手もアイツを呼んだ連れだと分かった。
思い返せば、アイツが背負っていたリュックからテニスラケットが覗いていたかもしれない。
まさか自分とアイツにテニスという共通点があるなんて。忍足が探している落し物主と言うのは、もしかしてアイツでは、と脳裏を過る。

「さっきから何熱心に見とるん? 外におもろいもんでもあるん?」

外に気を取られ過ぎ、いつの間にか背後にいた忍足に気付かなかった。
軽く舌打ちし、外が見えないよう窓と忍足の間に身体を入れる。忍足に気づかれる前に帽子を被れと、外のアイツに願った。

「……あの子や」

それが無意味だと言うのは直ぐに理解した。忍足は俺の身体を押しのけ窓枠に手をかけ、のり出さんばかりに外を凝視している。その横顔は、俺が知っている忍足ではなかった。どんな時も表情を崩さない忍足がみせた初めてのそれは、俺を固まらせるには十分だった。

「――跡部、俺行ってくるわ」

俺の返事を聞くつもりなど毛頭ないらしく、忍足は脱兎の如くそこを離れ足早にコートに背を向けていた。遠くなる忍足の背中を無言で見送り、もう一度外に視線を向ける。
どうやら揉め事はひと段落したらしく、ラリーが再開されていた。何故かアイツが被っていた帽子はもう片方の頭にのっていた。
改めてラリーを見ても、普通以外感想が浮かばない。上手くも下手でもないが、素人と言うにはいかせんラリーが安定し過ぎている。それにまるで教本に載っているかの様な綺麗なフォームは、それなりに実践を重ねている証。

「なんだ、こいつ等……」

そう考えると、手を抜いているとしか思えない。
やる気がない訳では無さそうだが……、いやアイツは無さそうだ。ダルそうに打ち返し、フォームすら崩れかけている。
いつ終わってもおかしくないラリー。そこで明らかミスショットと思われるロブが空高く上がった。今のアイツならば無難にボレーで打ち返すだろうと思っていた。

「ダンク、スマッシュ……だと」

体力が底を尽きた様な動きからは想像がつかない前へのダッシュをした直後、左足で踏み切り前傾姿勢のままスマッシュをかましやがった。
まさかそんなショットが返ってくると思っていなかったのか、相手は放心状態なようで動く気配がない。
それを知ってか、してやったりとばかりにアイツが笑みを浮かべたのが見えた。

「くッ、くく……はーあははは!! 面白えッ! この俺様が相手してやろうじゃねえか!!」

そうと決まれば踵を返す。向かうは勿論屋外コートだ。
忍足とやるより、面白い事になりそうだ。

「あーん?」

微かに聞こえた音に窓の外に目を向ければ、遠くの空が鈍よりした黒い雲に覆われているのが見てとれる。
まだ距離は結構あるが、ここに流れてくるのも時間の問題だろう。そうなる前にさっさと終わらせてやる。
足早に部屋を出た。


跡部は知らない。
自分の他にもコートを使用している人間がいて、突然大声を出した跡部にその人達が「あの子、大丈夫かしら」と頭の心配をされていた事を。



それぞれの思惑

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