暑い。それしか頭に浮かばない。
普通に歩いているだけでも全身から汗が噴き出している。
これが所謂残暑ならば本気の夏はどれほど暑いのか、来年の心配をせざるを得ない。
額に浮かぶ汗を拭い、歩幅を広げ数歩先を歩く心に並ぶ。

「あのさ、暑い。帰る」
「阿保かッ、もうすぐそこだから、黙ってついてこい」

心の指差す五十メートル程先にそれらしき建物が見えるが、この際そんなこと私に関係無い。
確かにノコノコついてきた私も大概だが、この暑さはヤバい。蒸発して干からびる。
回れ右をし、家路を急ぐ――左腕を握る手がなければ速攻。

「話聞いてた!? 暑っいんだよッ、放せボケ!」
「逃亡防止に決まってんだろ! どうやって一人でテニスするんだよ」
「知るか、勝手に壁打ちでも何でもしてろ」

この暑さと心との不毛なやり取りで何だか頭がくらくらしてきた。

「分かった、付き合うから、取りあえず腕放せ」

このまま阿保みたいに炎天下の下でうだうだしているより、涼しい建物に入った方がマシと言う結論を出す。
暑いのは行き帰りだけで、中に入ってしまえばきっと天国な筈。こうなれば目指すは只一つ。
疑いの目を向ける心を睨みつけ、拘束が緩んだ隙を見計らい左腕を奪還し脚を早急に進める。汗が滲む二の腕を適当に拭う。
Atobe sports gymと書かれた看板を横目に、冷気に誘われるまま中へ身体を滑り込ませた。
――ここは楽園だろうか。きっとそうだ。
足取り不確かに目に入ったソファへ身体を預け、目蓋を閉じる。

「あー、涼しい……」
「行儀良くしろよ、たくッ」

「はいはい」と適当に返事をする。
いっそここで何もせず時間を潰せばいいのでは、というナイスなアイディアが浮かんだがそれも一瞬で砕かれた。
迷わず受け付けへ足を向けた心を呪う。
受付嬢に話しかける心を面倒臭ぇ、とボヤキながら眺める。
その受付嬢とふと眼が合い、何故か心もこっちを振り返る。途端表情を歪めた心がパクパク口を動かしているのが見えたが、知らんとそっぽを向く。その先に自販機があった。それを見て無性に喉の渇きを覚え、小銭を手に腰を上げる。
炭酸飲料を選びたいとこだが大分汗もかいたし、これから身体も動かす事も考えスポーツドリンクを買おうと硬貨を投入口に収めようとしたが、カツンと金属音を響かせ硬貨が床に落ちた。何やってんだか、そう自分に呆れ転がる硬貨を小走りで追いかける。硬貨は誰かの靴に上手い具合に当たり、動きを止めた。
隙間に入らなくて良かったと、ホッと一息つく。

『すみませ……、いや、すみません、それ自分の、……です」

足元から視線を上げる。目が合ったのは、アンティークドールの様な同い年くらいの少年だった。
日本人とは思えない色素の薄さ風貌は、同じ子供ながらどこか気品さえ感じられる。
少年がその端整な顔を歪め、自分がジロジロ見過ぎていた事に気付いた。自然な仕草で視線を逸らし、少年の足元に転がる硬貨を取ろうと手を伸ばす。指先がそこに届くかどうかのところで、硬貨は少年の靴の底に隠れた。
何すんだ、と眉間に皺を寄せ少年を見上げると、少年は愉快そうに鼻を鳴らした。

「脚、退けて」

姿勢を正し、少年に言う。

「ああ? 何言ってんのか聞こえねえよ」

顔と顔が拳一つ分しか離れてないにも拘らず聞こえないと言う少年は、随分難聴だ。
少年の胸倉を掴み、顔を寄せる。
灰色がかった蒼い瞳がどこか懐かしく感じられたのは、気の迷いだ。

「脚を退けろって言ったんだよ」
「ああ゛!?」
「お金を踏むなんてお前――最低だな」

少年を睨みつけたまま、乱暴に押しのけ硬貨を拾う。

「ああッ、景吾さん!! お待たせしてしまって申し訳ありません。コーチの方は既にコートへ、忍足様はまだ来ておりません」
「…………」
「景吾さん? どうかされましたか?」

慌しく現れたスーツを着たその人は、目の前の少年に向かって何度も腰を曲げている。大の大人が子供相手に遜っている様は見ていて気持ち良くない。
甲斐甲斐しく少年を心配するその人を余所に依然少年はこっちを見たまま。見ていると言うより、睨みつけられている。

「――何やってんだー? 行くぞー」

珍しくタイミング良く聞こえた心の声に内心感謝する。
自販機に近づき、目当てのドリンクを購入し、リュックを掴み心の待つ方へ歩み寄る。

「何やってたんだよ。トラブってたんじゃないだろうな、おい」
「……違う」

ブツブツ文句を言う心の横を歩く。背中に視線を感じ振り返ると、反対の通路に佇みこちらを見る少年の姿があった。
まだあの端整な顔を歪ませているのかと思い浮かべ、前に向き直る。
少し先を行く心の後をゆっくり追いかける。
金属がぶつかる音が微かに聞こえ、心の右手に同じ色の番号の付いた鍵が二つ握られている。

「あ、そうそう、屋外コートだから」
「……は?」
「だから屋外コート」

どうも暑さで聴覚がおかしくなったらしい。
これは一刻も早く耳鼻科に行くしかない。
来た道を戻ろうと踵を返すも、腕を掴まれ前に進めない。

「屋内コートは全部使用中で、最短一時間待ち。選択の余地が無かったんだよ」
「キャンセル一択で」
「ばっか、そんなのカッコ悪いじゃん」
「――馬鹿はお前ッ、だ!」

意味が分からない。
折角涼んだにも拘らず、またあの灼熱地獄へ戻るとか、――本当に意味不明だ。
人が行きかう通路でモジモジし始めた心を心の底から気持ち悪いと思った。

「体を動かした後のアイスは格別だな、きっと」

……アイス。
暑いのは嫌だが、アイスは食べたい。体を動かさなくとも、アイスは美味い。
奥へと進む心の後を無意識のうちに着いて行く自分は相当阿保だと思った。されどアイス。
暫くして鍵と同じ色のドアの前で立ち止まった心は振り返り「後でな」とか何とか私にもう片方の鍵を握らせ、自分は扉に手をかけた中へ入っていった。私もその後に続き部屋の中へ身体を潜らせる。

「――お、おぉおい! 暁お前、何普通にこっち来てんだよッ、痴女かっ」
「黙れ、今すぐその口閉じろ。でなかったら一生料理できない腕にするけど?」

指を鳴らし心を窺えば、何事もなかったかの様に回れ右をし脚を進めた。

「普通色で気付く」
「そこまで見なかったんだっ、ッて何脱いでんの?!」
「……はあ、……勝手に言ってろ」

心の隣のロッカーを開け、リュックからシャツを取り出す。
勿論脱いだ服の下はアンダーを着ている。何の心配をしているのか目の前で目を覆う心は不審者以外の何者でもない。
性別を間違えて生まれてきたと言われ続けた自分だが、流石に男子更衣室で大っぴらに着替えるなど無頓着でもない。
――そもそも、男子更衣室で着替えている時点である意味無頓着なのは確かだけど。
下は穿いてきたジャージのまま、テニスシューズに履き替える。
ラケットとボールを数個、ペットボトルを持ちロッカーに鍵をかけ、未だ何の準備もしていない心を残し、その場を後にする。

「っ、……ぃたッ」
「ぉわッ、何やっ今の音!?」

出ようとしていた扉が開き、運悪く額を強打した。開いた扉はそれなりに勢いがあり、結構痛い。額を押さえその場にしゃがみ込む。

「ああッ、どうないしよう!! ごっつええ音しっとったし、メッチャ痛いよな。ああ、堪忍な……」

何だか聞きなれない日本語で謝り続ける男の人だけど、私の不注意でもある。
それを伝えたいが、幾分ぐわんぐわんする頭では声が出そうにない。

「ホンマ、どない……あッ、そうや、病院! 病院行こ。親父がいる病院この近くやねん、せやから早よう」

耳元で聞こえたその台詞に痛みが吹っ飛ぶ。いやまだズキズキしているが、病院など連れて行かれてたまるか。
膝から顔を上げる、と思いの外近くにその人がいて若干驚いた。
しかも想像していたより若く、若いと言うより私と同年代位の少年だった。
急に顔を上げた私に驚いたらしく、眼鏡の向こうの瞳を大きくさせていた。
生理的に浮かぶ涙を袖で拭う。

「え、と……あの、大丈夫だから……」
「…………」
「……聞いてる?」
「ああッ、おん! って、大丈夫な訳あるかい!! ごっつええ音しとったやん!」

どっちだよ。分かってくれたのかそうじゃないのか、よく分からない。
私に向かって伸びる少年の手を無意識に叩き落としていた。目を丸くする少年に自分が何をしたのかハッとし、思わず立ち上がる。
それがいけなかったのは明白で、治まりかけていた痛みが戻ってきた。

「やっぱ病院いかな、な?」
「い、かな、……い」

額を押さえ頭を振る。

「――何やってんの?」

今日は本当にタイミングが良い。聞こえた声に安堵の息を漏らす。

「別に、何でも……ない」
「さっきと言い、誰かれ構わず絡むなよな」
「……うっせ」

一々口煩い心にムッとする。

「キミ大丈夫? コイツが迷惑かけたのかな」
「え、いや、違ッ」
「本当の事言っていいんだよ。コイツがトラブルメーカーなのは周知の事実だからね」
「いや俺がッ……!」
「ん?」

心の後ろで少年に向かって指を口元に持っていき、何も言うなとジェスチャーする。それが通じたのか言い淀む少年にホッと一息。

「本当何でもない。その人が落とした物拾っただけだから……ね?」
「お、おん、そうやねん、……おおきに」

それでも疑いの目を向ける心にうんざりする。確かに普通の人よりほんの少し問題を起こしていたかもしれないが、殆どと言っていい程私の所為ではない。問題はいつも外からくるという事をいい加減分かってもらいたい。
心の背中を押し、外へ促す。おい、だとか言っているが、聞こえないふり。
文句を垂れつつ扉を開けた心に、背中から手を放す。

「なあッ、ほんまっ」
『心配してくれて有難う、……じゃあ』

扉から外に出ようとしたその時、カクッと体が後ろへ傾き、その間に扉が閉まった。
左手首に絡む手に眉を潜める。

「なんだッ」
「――俺等、前に会うたことあらへんッ?」
「はあ?」

変な声が出た。急に何を言い出すんだ、こいつ。それに何を思って私達が逢ったと思ったのか。

「なあ、覚えてへん」
「全く覚えない、人違い」
「やけどッ」

未だ掴まれたままの手首に視線を落とす。

「絶対無いよ」

つい最近まで日本の外にいたから、それはほぼ無いと言い切れる。紛うこと無き人違いだ。
自由が利く右手で少年の手を剥がし、今度こそ扉を潜る。
通路に出ると、更衣室の少し先で壁に背中を預ける心を見つけた。

「遅い」
「煩い」
「人様に迷惑かけんなってあれ程言っているだろ」
「別にかけてない、ていうかその帽子寄こせ」
「寄こせ、じゃない! 持ってこなかったお前が悪い」
「どこの誰が屋外でやる事を想像するんだ、阿保か」

手を差し出す。

「しょうがないだろ、空いてなかったんだから。俺の所為じゃ」
「――へー、俺の?」
「だから俺のッ」
「…………」
「…………」
「…………」
「どうぞお納めください」

差し出された帽子を受け取り、大きさを調節する。
悔しげな表情でこちらを見下ろす心を鼻で笑う。

「あー、大分前髪伸びてきたな」

視界をチラチラ塞ぐ前髪が鬱陶しい。
学校も始まる事だし、丁度いい。
明日にでも切りに行こうかな。

「いっその事イメチェンすれば? 坊主なんかオススメ」
「…………、何か左手が疼いて仕方ないんだけど。どう思う?」
「ッ! いやゴメン、何でもないよ、本当ッハハ」

関節を鳴らせば、から笑いを響かせ日差しが差し込む出口から足早に出て行った。
屋外テニスコートと書かれた案内板を通り過ぎ、日差しが降り注ぐコートへ足を踏み入れる。
帽子を被っていても意味がないのではと思い始めた。暑い。溶ける。

「……うん、そうだな。こんな暑いし、心の期待に答えて本気で相手する」
「はぁあ!! 俺期待なんてしてないから、マジで!」
「煩い、黙れ。誰の所為で糞暑い屋外でテニスするんだよオイ」
「…………」
「じゃ、軽くストレッチでも始めるか」

逃げ腰の心の腕を掴み、細く微笑む。
「ひぃぃい」という幻聴が聞こえたが、暑さのせいだろう。
背中合わせにお互いの腕を後ろで組み、下半身に力を入れ上半身を前に倒す。

「あぃ゛、ぃだだだぁあ゛!!」

心の声が木霊した。ざまあみろ。



予期せぬハプニング

back
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -