「――来週、日本に帰国しようと思うのだけど……」

数カ月振りに家族揃っての食事の最中告げられたそれは全ての始まりで――終わりだった。


リーグ戦第三節は早くも毎年のように優勝争いに顔を出す相手との重要な一戦、しかもホームゲーム。絶好調とは言えなくも、無難に勝ち点を重ねてきたブルーズ達にとってはこの辺りで気持ちよく勝利を収め、起爆剤にしたいところだろう。それはサポーターも同じ気持ちなのか、例にもれず今日もスタンフォードブリッジは満員御礼だ。
序盤から攻守の入れ替わりが激しく、少しのミスが失点を生みかねない展開が続いて早七十分。目蓋がくっつきそうだ。
欠伸を噛みしめ、枠を大きく外れるボールをボンヤリ眼で追った。
――眠い。隣に座る心を横目に映せば心なしか意識がフェードアウトしかけ、桜はテーブルの上で忙しなくペンを走らせていた――ニヤついた顔で。道を踏み外したどころか、とうの昔に最下層まで転げ落ちていた妹から視線をそっと外した。こんな妹は嫌だ。
この際どちらでもいいから早くネットを揺せ、とブルーズサポーターのクラスメイトが聞けば憤慨しそうな台詞が頭に浮かぶ。
もう電源を落とし夕食まで短い睡眠を取るか、そこまで考えが及んだ所でスタジアム全体がドッと沸いた。絶妙なタイミングで出されたクロスがデフェンダーの裏をかき、オンサイド。フォローに向かう他のデフェンダーは間に合う筈もなく、キーパーとの一騎打ち。先に動いたキーパーをしなやかな動きで交わし、後は軽く足を振り抜けばボールは勝手にネットに吸い込まれる。待ちわびたゴールの瞬間に自然と腰が浮く。――勝利を確信したのは私だけではない、絶対。
右足を離れたボールは無人のゴールを素通りし、ラインを割った。ゴールキック。
――何だ、この不完全燃焼な塩試合。
結局スコアレスドローのまま試合は終了し、なんとも微妙な雰囲気の中番組は終わりを告げた。
相手の裏をかく動き出しは一流としか言えず、献身的に守備に戻る姿は素晴らしく、脚に吸いつくようなトラップは美しい。
天井を仰ぎ見、視界をチラつく前髪を払いのける。
まだ開幕したばかりと言っても、今世紀最大と謳われる移籍金と共にやってきたエースストライカーは未だ無得点記録を更新中。スポーツ紙とは名ばかりのゴシップ紙には何とも不名誉な名までつけられる始末。たかが一得点、されど一得点。

「……ゴールが遠い――」
「――たっだいまぁあッ、愛する子供達!!」
「……え……、あ?」

新ストライカーの初得点はいつ拝めるのか、次の対戦相手は何処だろうと記憶を手繰り寄せていた正にその時それはきた。そして見事私の思考をぶった切った。

「パパが帰ってきたよぉお!」

両手を広げ此方に迫る親父を唖然と目で追う。
驚きすぎて顎が外れたのか大口を開けている心と、ピタリとペンを止めた状態で親父を仰ぎ見ている桜が視界の端に映る。

「――うふふ……」

しかも両手を広げる親父の陰からチラチラと何か見え、その何かが発したであろう声も聞こえる。

「――何で居るのッ!?」
「うふふ、ただいま――」

サプライズにも程があるだろ――母さん。
相変わらず年齢不相応な笑みを浮かべる母に脱力した。しかもそのタイミングを狙らったかの様な親父の抱き殺さんばかりの抱擁に変な声が出た。流石に仕事に支障をきたさせるのは拙いと思い指一本で我慢した。お互い様だ、コラ。
床でのたうち回る親父を鼻で笑った。


久しぶりに口にする母さんの手料理に舌鼓を打っていたその時、話は冒頭に戻る。
白米を口元に運んだ状態で静止している心を傍目に、黄金色に輝く豚カツに齧り付く。外はサクサクにも拘らず、肉からは肉汁が滲み出る。
合間に味噌汁も啜り、喉も潤す。――あー、美味しい。

「……は? ――それってどういう事?」

静かに箸を置いた心が真っすぐ母さんを見返しているのを傍目に、マヨネーズがかかった千切りキャベツを口に入れる。シャキシャキとした食感が好きだ。

「うーん、どういう事って言われても、日本に帰ります? みたいな?」
「みたいな?じゃなくてさッ! どうしてそういう重要な事を、来週ショッピングへ行く様な口振りで言うのかって話!」
「来週日本に帰国する所存です!」
「言い方の問題じゃないからッ!! あのさぁッ!」

白い木の苗の様な野菜の処理をどうしようか考え、ふと視界に入った桜の皿にマジシャンも驚きの手際の良さでそれを移す。これで一層食事が美味しく味わえると満足気味に瞬きすれば、無かった筈のトマトが皿の上にのっていた。
隣に座る桜と視線を交わし、無言で肯いた。

「おいッ暁、桜、勝手に交換するなって!」

ちッ、目敏い奴。心の声など聞こえないふりをし、証拠隠滅を施す。これ見よがしに口を動かし何のことだかと白を切れば、頭を叩かれた。
自分だけ受けたその仕打ちにムっとしたが、今は心より目の前の食事の方が何百倍も重要だ。心を視界から抹消した。


「……暁は、――どう思う?」

日本での住まいが都内だと分かった途端桜が狂喜乱舞し、唯でさえ騒がしい食卓が撚りいっそう騒がしくなった。桜から金様に会えると言う呟きが聞こえ、ドン引きしたのは言うまでも無い。
もっと落ち着いて食事がしたいと叶わない願いを浮かべながら残り僅かとなった豚カツを頬張っていると、喧騒を縫うように届いた母さんの台詞に視線を向ける。

「日本行きは賛成?」

質問の意味が分からない。賛成も何も、親が決めたことをあれこれ言う権利が私にあるのだろうか。

「別に、……いいんじゃない」

確かに急すぎるとは思うが、それは毎度の事だから今更だ。
なのに私の返答にどこか納得いかないと言う表情をする母さんに首を傾げる。

「何……」
「――もし暁がこっちに残りたいって言うのなら、それでもいいと思っているの」
「……あ?」
「学校、楽しいでしょ?」
「……まあ、そこそこ」
「ふふ、先生も褒めていたわよ、大変優秀なお子さんでって……」
「…………」
「だから暁が今の学校が良いって言うのなら、暁はこっちに残っても……」
「――何で?」

確かに今通っている学校には多少面倒事はあれど然程不満も無いが、それが何故ここに留まる理由になるのか。
まるで私が日本行きを拒んでいるかのような母さんの言い草が癇に障る。

「いつ私が日本に行きたくないって言ったの? 勝手に人の気持ち決めないで」
「――違うッ、そういう意味で言った訳じゃないのよ暁! 私はただ暁が嫌なら無理強いはしないって言いたかっただけなの」
「……――嫌なら?」

母さんが何を言おうとしているのか、何を心配しているのかは分かる。それは親として真っ当なことで、母さんの気持ちも黙って事の成り行きを見守る親父の気持ちも痛いほど理解している。
だけどそれが私の神経を逆撫でして、酷くイラつかせる。
さっきまでの騒がしさが鳴りを潜め、両隣で口を噤む心と桜にさえ理不尽過ぎる気持ちが向かう。
沸々と募る苛立ちに目の前が赤く染まった。

「……い、ん……よ……」
「え?」
「――いい加減そういうのが鬱陶しいって気付けよ! 誰が心配しろって言った、誰が嫌だって言った? はっきり言って迷惑なんだよ!!」

言葉は人を傷つける。言葉は心を抉り、消えない傷を残す。
私が一番それを知っている筈だった。

「……偽善者」

誰か私を止めて。

「あんたはただの――偽善者だ」

直後左頬に衝撃が走った。反動で体が右に傾く。

「――アナタ!!」
「暁、お母さんに謝りなさい」

心が何か口走っている、よく分からない。左頬が熱い。桜が泣きそうな表情で顔を覗き込んで何か言っている、よく聞こえない。左頬が痛い。親父の声が聞こえる、頭に入らない。左頬が痛い。母さんの声が聞こえる。

「――暁!!」

私は逃げた。桜の手を払いのけ、脇目も振らずダイニングを出る。
階段を駆け上がり、開いたままの自室に飛び込むように入り、後ろ手で乱暴に扉を閉める。そのまま扉伝いに腰を落とした。

「クソっ」

床を殴りつけた拳が痛い。頬が痛い。傷跡が疼く。

「……ク、ソっ……ッ」

偽善者は私の方だ。
言葉にしたら戻ってこない事を知っていた。私最低だ。
膝を抱え頭をそこに埋める。

「にゃあ」

近いところから聞こえた鳴き声に無意識に手を伸ばせば、手触りのいい柔らかい毛が手の甲を擽る。
いつの間に入ったのか。そういえば扉は空いていたなと、ボンヤリ頭に浮かぶ。

「にゃあ」

一鳴きした後掌から離れた温もりに頭をあげる。傍に行儀良く座り、こちらを見上げるシロと視線が交わった。

「にゃあ」

私の目を見たまま再び鳴いたシロに涙が頬を伝う。

「……ご、め……さ、い……ッ」



動き出す歯車

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