とある少女の怪異録 | ナノ

63

口から出まかせでもまた来ると答えるしかない。この場から、化け物から逃げられればどうにかなる――たとえこの先一生爺ちゃん家にこれなくなったとしても化け物には二度と会いたくねぇッ。
答えようと思った矢先、ふとさっきまでただ冷たいだけだった手が妙にザラついている気がして頭を傾けようとしたが視界の端に映る赤色が気になり深く考えず徐に頭を回せば真っ赤な細長い瞳に体の動きが絡めとられ、たまらず息をのむ。化け物はただこっちを見ているだけなのに一瞬でも動いてしまえばどうにかなってしまいそうで、指一本目玉一つさえ動かすことができない。息すらまともに吸えない。目がそらせない。まるで捕食者に睨まれた草食動物になったようで、まるで何とかに睨まれた蛙になったようで恐怖で体が竦み、動かないはずの体が小刻みに震える。

『また、アソんでくれるよね――?』
「わ、分かった、分かったよ! また遊ぶっ、遊ぶから!!」

イエス以外の返事などできるはずがなかった。
半ば叫ぶように返事をすればたちまち化け物の目元は緩み威圧感は消え、体の自由が戻ってきた。たまらず安堵の息を吐き、足りない酸素を体に取り込む。その時ズシと何かに踏みつけられているような圧迫感を足の甲に感じ、なんだと何の気なしに視線を下げそして――目が釘付けになった。
意味のわからない光景に思考が停止する。
人間は自分の常識の範疇を大幅に超えることがあると本当に頭が真っ白になるのだとこの時初めて知った。

「…………え、……え、なん……?」
『アソぶまたアソぶふふアソんでくれるヤクソクアソぶふふふアソぶ』
「え、なん、だ……ッ、あ、あ、ひっ、ひぃぃいいぎゃぁぁあ゛あ!!!!」
『ヤクソクだヤクソクコンドこそふふふヤクソクだよ』

固まっていた脳が次第に動き出し、それがなんなのか認識した瞬間悪寒が、恐怖が全身にほとばしる。つんざくような叫び声を上げる。血が逆流し目の前がチカチカする。
蛇が足に巻きついていた。見たこともないほど太く真っ黒い蛇が足に巻き付き上へ上へと這っている。なんでそんなものが己の足に巻きついているのか、いつから。どこからきた。なんで蛇、ヘビ、へび、なんで。怖い怖い気持ち悪いこわいイヤだなんでコワイこわい――なんでッ!!

「ぎゃぁあぁああ!! なんだよこれッなんで! なんで蛇がッ、うわぁあああ゛ぁあ゛!!」

ゆっくりゆっくり全身を締め付けながら蛇が上がってくる。気持ち悪くて、怖くて、どうにか抜け出そうとがむしゃらに身を捩るもうんともすんともしなくて、そうしている間にも蛇は腰のあたりまで巻き付いている。赤い目がこっちを見ていて、細長い舌をチロチロ出している。
なんでこんなことになった。なんで蛇。子供の手は冷たくて。注連縄の中に入ったからだ。なんでオレが。蛇がくる。しぬ。いやだ、まだ。帰れるって。

「ヤダっいやだ!! 死にたくない、なんでっ、助けて! だれ、こわ、い、たす、け……ひぃッ!!」

そして、気持ち悪いほど真っ赤な目が目の前にあった。
足の先から首まで蛇が巻き付きついているという恐怖に気がふれそうで、言葉にならない音だけが口から洩れる。
僅かに力をこめられただけでミシリと骨が軋み、見開いた眼から涙がこぼれる。ガチガチ歯が鳴る。

「は、あ、いや、だ……なんで、こん、な、誰か……」

もう、叫び声も出ない。
目玉そのものが落ちそうなほど後から後から涙が流れ出る。
死にたくない。死にたくない。死にたく、ねえよ……ッ。

「ふ、ぅ……ッ」

ぼやける視界の向こうには一瞬たりとも逸らされることがない赤い目があって、オレにはどうあってもこの絶望から抜け出せる手段は思いつかなくて、でも死にたくなくて。
何度死にたくないと唱えればこれが終わるのか知りたい。
家に帰りたい。もう嫌だ。なんでオレが。何度も何度も自答自問を繰り返すが、何も変わらない。死から逃げられない。
死という文字が思考を埋め尽くしていく。
そして、涙のせいでぼやける視界でも目の前にいる蛇が大口を開けたのが分かり、喉が震える。
もう終わりだと思った。

「ひ――――ッ!!」
『――ねえニイちゃん、ナマエオシえて?』

だけどこんなところで、こんなことで死にたくなくて。でも迫りくるだろう痛みからはどうやっても逃げられなくて。死にたくないと思う自分と、もう無理だと思う自分が混ざり合う。
なんでオレがっ――誰かッ!!
目をつむり歯を食いしばり顔を背ける。
だが襲ってきたのは痛みではなく――子供の声だった。
――なん、だって。いま、なんて。なん、つった……?

『ナマエ、――は?』

聞き間違えか、恐怖のせいで耳がおかしくなったのかと思ったそれは紛うことなき子供のものだった。
自分はまだ死んでいないという安堵感が一瞬全身を包んだが体には変わらず蛇が巻き付いたままで、状況は何一つ変わっていないことに緩めた瞼に力が入る。

『ねえオシえて、ねえねえ』

いつ死ぬともわからないこんな状況で子供の質問に答えられるだけの余裕は一ミリたりとも持ち合わせていない。というか終わりの見えない恐怖で思考はぶっ飛んでいて、質問の意味は分かるが何をどう答えればいいのか分からない。

『ねえねえねえねえねえ』

名前、なまえってなんだ。なんでなまえ。もうイヤだ、こんな。誰か。なまえ、ナマエ、なまえ――名前、オレの、か……?
だが同じ状況が続くと不思議と落ち着いてきて子供の質問を頭の中で反覆する。

『ねえねえねえねえニイちゃんのおナマエは……』

狂ったように同じ科白を繰り返す子供にゾクゾクと悪寒が背筋を駆け上がる。声が近くから聞こえる。
目の前がどうなっているのか知りたくなくて固く瞼を閉じているのに、怖いから何も見たくないのに――少しなら。薄眼で見るだけなら。
恐怖は俄然あるが、それよりも興味がわいてきた。死ぬと思っていて、だけどまだ息をしている自分に少しだが余裕が生まれたのかもしれない。
少しだけ見てやばいと思ったらすぐに目をつむればいいんだ。意を決し、瞼から少しだけ力を抜く。

『な ん で す か あ ?』
「ひぃ――――ッ!!!!」

目の前にあった赤に瞼を限界まで開いてしまった。
子供の顔が同じ高さに、目線にあった。
なんで、なんで目の前にッ。
腰の高さまでしかなかった子供の目線が同じ高さにあるわけない。こんな短時間で背が伸びるわけも、丁度良く踏み台があるわけもない。じゃあなんで。
ガクガクと体が震える。
少し視線を下げれば下がどうなっているか見える、だけど見ては駄目だと本能が叫んでいる。
どうしようどうしようどうしよう。
閉じようと思っていた瞼は開いたまま固定されてしまったかのようにピクリともしない。自分の身体なのに自分の思い通りに動かない。
なんでオレがこんな、こんな目に、なん、で、チク、ショ……。

『オシえてくれるよね』
「ひ、ぅっ」

今の今まで楽しそうに弧を描いていた赤い目が無になり、細められた赤い瞳を見た瞬間名前を言いたくてしょうがなくなった。
耳元で不気味な音が聞こえる。僅かに動いた眼球を右に向け、息をのむ。

『ねえ――ニイちゃん』
「だ、だだだいき!! だいきだいきだき!」

目の前の化け物の質問に答えろと言わんばかりに大蛇が鋭く尖った歯をむき出しに大口を開いている。唾液でてらてら光る細い舌がすぐそこにあった。

『ダイ、キ』
「そ、そうだよッ! だ、だいき、あ、あお、あおみね、だい、き……オ、オレの名前は青峰大輝だ――!!」

死にたくない、と喉がつぶれんばかりに名前を叫んだ。

「ひッ」

そして最後まで言い終えるや否や、目の前の子供の口が、目が嬉しそうに――歪んだ。
まるで欲しくて欲しくてたまらなかったものをやっと手に入れた時のような、失くしたお気に入りのおもちゃをやっと見つけた時のような、そんな表情を浮かべ口を動かし始めた。
笑顔なのに、笑顔だけど子供の浮かべるそれは悍ましいという言葉以外浮かばなくて、止まった涙が溢れ出す。
瞬き一つした次の瞬間。

「……――は、え?」

自分だけがいた。
真っ暗い山の中に自分だけが立っていた。はっきり見えていた景色が黒に染まっていた。
視界には闇に溶け込む木々だけが映る。子供も、大蛇も――いね、え。

「え、え」

拘束を解かれた体を見下ろすも、何も巻き付いていない。さっきまであった赤い目もいない。月明かりが生い茂る木々の間から差し込んでいる。葉の擦れる音がする。子供の声はしない。自分の息遣いだけが聞こえる。
まるで初めからこの場には自分だけしかいなかったような、そんな変わりない夜の山が広がっていた。
動かなかったはずの体が思い通りに動き、一歩足を踏み出せばぐしゃりと葉を踏みしめる音が響く。

「――――ッ!!」

弾けるように駆け出し、山を下る。
なんでなんで、今までのはなんだ。子供は。蛇も。なんで。
がむしゃらに足を動かし、闇に慣れた目で木を避け道なき道を駆け下りる。普段ならば踏み越える木の根に足を引っかけ派手に転ぶもすぐに走り始める。痛いのに痛くない。
葉を踏みしめる音と荒い息遣いだけが山に響く。

――なんでなんでなんで

『ふふふやっと、やっとだあ』

――違う、何もなかった、あれは違ぇんだ!

『コトバもナマエもボクのものふふふふボクのものだ』

――違う違うちがう違うちがうちがう

居ないはずの、聞こえないはずの声が聞こえる。
見知った山道にでた。山の入り口が見える。

『ダイキクンヤクソクはヤブっちゃダメだよ』

――嫌だッ違う!なんで!

『もし……――』

――誰かっ、だれ、か、頼む、なんでオ、レが。

はあはあ、と息が上がる。普段ならなんでもない距離を走っただけなのに体はもうフラフラで、上がらない足でどうにか山の入り口を抜ける。
ぽつりぽつりと人工的な明かりが見え、引き寄せられるように足を動かし続ける。
もう、すぐ。

「はあは、あ、は、誰、か」

視界が暗い。
誰か。誰かって――誰、だ? なんでオレは誰かを呼んでんだ。呼べば助けてくれるって――なんで思ってん、だ?
灯りが灯る玄関扉に手を伸ばし、扉を横にスライドさせる。

大輝や、爺ちゃんと約束だ
山の中の注連縄で囲ってある一角には決して入ってはいかん
山では不用意に人と話すでない、特に幼い子は駄目だ
山では一切約束事をしてはいかん
そして、

「ちょっと大輝アンタ今何時だとおも、って大輝どうしたの!?」
「な、ん……で」
「大輝大輝ッ、誰か! アナタ大輝が!!」
「だれ、か」

聞きなれた声が聞こえると安心感から身体から力が抜け、足から崩れ落ちその場に倒れこむ。
意識が遠のいていく。
慌てている母ちゃんの声が聞こえる。足音が聞こえる。父ちゃんの声も聞こえる。

「大輝!」

爺ちゃんの声が聞こえる。
ごめん。ごめん爺ちゃん。
意識が沈む。


そして一歩でも山に足を踏み入れたら――一文字たりとも名前を名乗ってはいかん


真っ暗いどこかに意識が沈んでいく。



『もしヤクソクをヤブったら――タ べ ち ゃ う よ 』


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