とある少女の怪異録 | ナノ

62

喉の奥から声を絞り出すように叫び声をあげ続け、だけどふと己を見下ろす視線と目が合い我に返った。

「だいじょうぶ?」

小学校に上がるか上がらないかくらいの子供が珍獣でも見つけたような、そんな不思議そうな表情を浮かべながら傍らに立っていた。

「だいじょうぶ?」

子供は何を思ったのか、同じ言葉を繰り返した。
そこでハッと今の自分の状態を思い出し、慌てて立ち上がる。
くそッと悪態をつきながらズボンの汚れを払う。
自分以外誰もいないと思っていたところに予期せぬ第三者の声が聞こえたら誰だって驚くはずだ。オレだけじゃない。怖かったとかでは断じてない。ただ驚いただけだ。
――ああケツ痛てぇ。

「だいじょうぶ?」
「驚かしたお前が言うんじゃねえよ、いるならいるって言えよな」

誰に言うでもない言い訳を並べ、思ったより強く打ちつけビリビリ痛むケツを撫でていると三度目の疑問符が投げられ、どの口が言うんだと口を開く。そして改めて子供を見下ろせば、此方を見上げていた目がパチリと瞬きした。

「それでにいちゃん、どうしたの?」
「あ、あ――!! カブトムシ!」

子供の言葉でカブトムシを捕り損ねた悲しみを思い出し、悲鳴を上げガクと項垂れる。

「カブトムシ?」
「お前知ってっか。今の時期にカブトムシがいるなんて珍しいなんてもんじゃ……って、あれ?」

ふと科白に既視感を覚え、言葉が詰まった。
この科白前もどこかで言った気がする。どこだっけかと悶々としていれば、そうだ、と思い出した。
――学校だ。
あの時も今日と全く同じで、飛んでいる筈の無い蝶を校舎裏で発見した時だった。そして今と同じように捕まえる間もなく一匹残らず飛んでいったんだ――てかマジ運ねえなオレ。
諦めきれず他にくっついている木はないだろうかと目を凝らすもカブトムシがくっついている木は見当たらない。はあ、と深いため息をつく。
カブトムシがいないのならここに留まる理由はない。帰るかと顔を上げる。

「カブトムシ? それならあっちにいたよ」
「……へ」
「カブトムシいたよ」
「マジか!!」

あっち、と真ん中に建っているちっさい神社を指差した子供に目を輝かせる。
運はまだオレを見放していなかった。ガッツポーズをしようと腕を振り上げるも、上がったのは右腕だけで左手はいつの間にか子供と繋がっていた。
こっちだよ、と手を引かれるも、ふと注連縄の中に入ってはいけないとじいちゃんとの約束を思い出しピタリと足が止まる。が、既に半分以上体は注連縄の中に入っていて、今更駄目もクソもない。それに恐らく地元の人間であろう子供が何の躊躇いもなく注連縄の中に入っているという事は、じいちゃんが言う程いけないことではないはずだ。
どうしたのと言いたげに此方を見上げる子供に「何でもねえよ」とニカと笑顔を浮かべ、手を引かれるまま歩きだす。
そして子供の言った通りカブトムシがいた。それも一匹ではなく何 匹 も!
うひょーとたまらず変な声をあげ、屋根にひっついているカブトムシを鷲掴む。そのまま顔の前まで手を持っていき、念の為とまじまじ手の中のそれを観察するもどこからどう見てもカムトムシで間違いない。正真正銘のカブトムシだ。
こんな事になるなら虫かごの一つでも持ってくればよかった。持って帰れても二匹、いや上手い具合に指の間に挟めば四匹はいける。
それにしても――ンでこんな時期にカブトムシが地上にでてきてんだ、と近くの木に手を伸ばしながら改めて疑問に思い、それにさっき見まわした時は一匹もいなかったはずで、まあそれは木と同化して見えなかっただけだろうけど。

「にいちゃん、カブトムシいっぱいだね!」
「おう!」
「たのしいね!」
「そうだな!」

楽しい楽しいと顔を綻ばしながらカブトムシを捕まえる子供に自然と顔が綻ぶ。
――弟がいたらこんな感じなんかな。
捕まえたカブトムシを嬉しそうに見せてくる子供の頭を撫でよう手を伸ばしたその時、開いていた子供の口から細い舌のようなものがペロと覗いた気がして、思わず手が止まる。
は、とたまらず目を擦り子供を見下ろすも、子供はきょとんとした表情でこっちを見上げている。
どうしたのと動く口の中には当たり前だが細い舌ではなく普通の舌が収まっている。
見間違いかと止めていた手を改めて子供の頭に置き、わしゃわしゃと髪を混ぜる。
どことなくモヤモヤが消えない、が普通に考えてあんな、爬虫類みたいな舌が人間の口の中にあるはずがない。
そして魚釣りで言うところのキャッチアンドリリースを続け、そろそろ捕まえるカブトムシも見当たらなくなってきた。勿論持って帰る予定のカブトムシはしっかり両手に持っている。
そう言えば今は何時だろうと思ったが、どうせ圏外で使い物にならないからと携帯を置いてきた事を思い出した。
どれくらいここにいるか定かではないが、明るい内に帰らないと一旦日が落ちるとすぐに暗くなってしまうのが山だ。それに日が落ちると一気に気温が下がる。いつの間にか風は止んでいるが、それでもきっと今の格好では耐えられないほど寒くなる。
そこではたと気づいた。

「お前ンな恰好で寒くねえの?」

子供の格好が日常生活ではまず見ることの無い浴衣だ。しかもこんな時期に薄い布一枚だけで、見ているこっちが寒くなる。
だけど少年は寒くないよと首を横に振った。
カーディガンを着てるオレですら心持寒いというのに寒くない筈がない。なに痩せ我慢してんだか。

「ンじゃ、そろそろ帰っかな」
「……え」
「日が落ちる前に帰るって母ちゃんと約束してんだよ」

というかお前親は、と続けて出てくる筈だった言葉が少年の顔を見て喉の奥に引っ込んだ。
今の今まで笑顔だった顔から表情がすっぽり抜けていた。
キラキラと此方を見上げていた目は底なし沼のように真っ黒く、楽しいと弧を描いていた口は真一文字に結ばれている。これが真顔のお手本だと言われれば迷わず頷ける表情で、それは曲がり間違っても子供がする表情ではない。
そしてふと、なんでこの子供はこんな山の奥に一人でいるんだという疑問が降ってわく。
小学校低学年辺りの子供が一人でこんなところまでくるはずがない――というか来れるはずがないんだ。オレですら高学年になってやっと一人で山の奥の方、というか山そのものに入れるようになった。
だから親が近くにいないわけがない、が結構な時間ここにいるというのにオレ達二人以外周囲に全く人の姿を見ていない。
一つ疑問に思えば次々と新たな疑問が浮上する。

「かえっちゃだめだよ」

そして思い出した。子供に一番初めに声をかけられた時、何故自分はあんなにも驚いたのか。
足元は一面落ち葉に覆い尽くされていて、少しでも足を動かせば落ち葉を踏みしめる音がする。ゆっくり歩いたとしても足音がしない筈がない。だけどあの時、オレは声をかけられるまで子供の存在に全く気がつかなかった。
漠然とした何かが自分の中で膨らみ、堪らず後ずされば案の定グシャと落ち葉を踏みしめる音がした。どうやったって足音を立てずに近づくことなんて出来るわけがない。
子供は一体どこから来たんだ。声をかけられた時、オレは注連縄の内側にいた。もし子供が縄の外にいたのなら声は正面から聞こえないとおかしい、だけど聞こえたのは背後からだった。声をかけるのに態々真後ろに回るわけはねえ、ということは子供は始めから注連縄の中にいたという意味で。いや、もしかしたら真反対にいて注連縄の中を突っ切ってきたのかもしれない。だけど地元の人間ならば山の約束事を知っている筈で、入ってはいけないという注連縄の中をあえて突っ切ってはこない。
足音は。親は。なんでなんでとグルグル考えるも、もうとっくに答えは出ていた。だがそれを認めてしまえば取り返しのつかないことになるような気がして、心臓がドクドクと脈を打ち寒いのに汗が顎を伝う。呼吸が上手く出来ない。
逃げたい、逃げないと。この場から、子供から逃げなければ。だけどさっきまで動かせていた足が地面にくっついたまま動かない。動け。動け!動けよッ!!

「まだかえっちゃダメ」
「ひッ!!!!」

ひんやりした何かに手を握られ、衝動的に振り払うもそれはがっちりと、逃がさないとばかりにオレの手を握ったまま放さない。そして視界に映るのは、オレの手を握っているのは人間の手で、だけどまるで氷でも握っているかのようにそれは冷たくて、これが人間の手である筈がない。でも確かにそれは人間の手で、血が通っていないような青白い色のほっそりとした子供の手で、頭の中ではこれが誰のものか既に分かっていた。だけど分かりたくなくて、現実を知りたくない一心で一点を見たまま視線を固定するもオレの意思に反し首がゆっくり後ろへと反っていく。手を辿りゆっくり視線が上がっていく。
嫌だ見たくねえっ止まれ止まれ止まれ、止まれッ。
ハ、ハ、と呼吸が荒くなる。
そして。

「――ッ!!」
「まだぼくと――あそんでくれるよねニ イ ち ゃ ん ?』
「ヒ、ヒ、ぎゃ、ぎゃあ゛ぁあ゛――――!!」

爬虫類のように縦に長い瞳と視線が交錯し、楽しそうに弧を描く小さい口からちろっと細長い舌がのぞいた。
恐怖で腰の、足の力が抜けその場に尻餅をつく。早く逃げたいのに足腰が立たない。見たくないのに目は子供にくぎ付けのまま。驚き、恐怖、切望、後悔が頭の中を埋めつくし、真っすぐ考えられないほど思考はパンク寸前で、喉がおかしくなりそうなほど叫び声を上げ続ける。がむしゃらに腕を振り回すも繋がれた手は放れない。手を掴む力が異常なほど強くて、ただの子供が出せる力ではないのは明らかで。
怖い怖いこわいなんでこわいなんでこんな助けてこわいこわいじいちゃんこわいだれか!!

「は、はははなッはなせっ、離せよ!!」
『ダイジョウブ?』
「ひッ、く、来るな!」

目の前で腰を落としたかと思えば細長い瞳に下から顔を覗きこまれ、震えが一層大きくなる。うまく息が吸えず過呼吸寸前で、涙腺はとっくに崩壊し後から後から涙が流れ出る。酸素が足りずくらくらする。いっそのことこのまま気を失いたい。もうこんなの嫌だ。
だけどそう思い通りに事は運んでくれず、すぐ目の前で細長い瞳がパチリと瞬きしたのを見てしまい、そのあまりの異様に細い悲鳴を上げる。
尻を引きずり後ずさろうにも手を掴まれている所為で全く進まず、前へも後ろへも動けない。もうどうしようもできない。
止めどなく流れる涙の所為で視界はぼやけ、嗚咽が漏れる
恐怖という感情だけが頭の中に残り、腕一本で頭を抱え壊れた玩具のようにただひたすら来るなと言う言葉を吐き続ける。

「来るな来るなくるなくるな、ふ、う」
『どうしたの?』
「たの、む、もう、止めてくれ、よ、うぅ……」
『ねえ、なんでナいてるの?』

爺ちゃんとの約束を破ったからこうなったんだ。何で破っちまったんだよ。怖ぇえよ爺ちゃん。なんで。なんでこんなことになっちまったんだよ。ゴメン。ゴメン爺ちゃん。オレが悪かった、だから誰か。お願いだから。
ひくッとしゃくり上げる。
どれくらいそうしていたのかいつの間にか化け物の声は聞こえなくなり、聞こえるのは自分のすすり泣く声だけになっていた。だけど手は相変わらず捕まれていて、すぐそこにまだ化け物いるのだと突き付けられる。
もう逃げ出そうという気力もなくなり、というか考える気力が底をつく。いやだ。もう疲れた。怖い。叫ぶのも泣くのも。こわい、こわいよ。
最悪の結末が脳裏に浮かぶ。

『……ニイちゃん――どうしてもカエりたい?』

――死にたくないッ。
化け物がいる恐怖より、死にたくないという恐怖が先に立つ。だけどどうにもできなくて、どこにもいけなくて、死という文字が頭の中を埋め始めた時、欲しかった言葉が聞こえた気がして、涙とか色んなものでぐちゃぐちゃの顔を上げる。
思ったよりすぐ目の前にあった細長い瞳に引きつった声を上げる。

『カエりたい?』
「……へ、え……?」

繰り返された科白は欲しくて欲しくてたまらなかった言葉で、なんで今更とか、どうしてだとか思うより早くこの場から逃げられる安堵感が押し寄せる。だから。

『ねえ、カエりたい?』
「か、帰りたいッ、帰りてぇよ!!」
『そっか……』
「なあ頼むよッ、お願いだから帰してくれよ――なんでもするから!!」

だから――咄嗟にそう言ってしまった。
どんなことをしてでも家に帰りたかった。化け物の前から逃げたかった。死にたくなかった。
自分が言った言葉の重さを考えていなかった。それが何を意味するのだとか、何も考えていなかった。
今の今まで腰が抜けていたのが嘘のように下半身に力が入り、勢いよく立ち上がる。
帰りたい、その一心で化け物にすがる。
帰してくれ。死にたくない。頼む。

『じゃあ、またアソんでくれる?』
「…………え?」

言葉の意味が理解できない。怖いから逃げたいのに、化け物になんか二度と会いたくないのに、またもクソもない。反射的に嫌だと答えそうになったが、開いた口が震える。
だけどここで断ったらどうなる。オレはどうなる。なんで、こんな。

『またアソんでくれるんだったらカエってもいいよ』


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