とある少女の怪異録 | ナノ

61

「ちょっと大輝ッ、アンタその恰好で何処行くつもりよ!」

靴を履こうとしたまさにその時、耳に飛び込んできた母親の声にゲッと堪らず声を上げ、しくったと顔を強張らせる。がすぐさま表情筋を緩め、ヘラと笑顔を浮かべながら振り返り、ちょっとそこまでのニュアンスで行き先を伝える。

「ど、どこって、山?」
「山ってアンタねえ、自分が今どんな格好しているか分かってて言ってるの」

折角台所にいるのを見計らって出ていこうとしたのに――目敏過ぎるにもほどがあるぜ母ちゃん。
背中に目でもついてるんじゃないかと思わずにいられない。
そして母ちゃんはサラッと流して欲しかった部分を案の定突いてきて、次から次へと降ってるくる言葉の数々に己の表情が段々と曇っていくのが分かる。

「だってよ、爺ちゃん家来て山行かないとか無理っしょ」
「無理っしょ、じゃないわよ! なに寝ぼけた事言ってんのアンタは! 制服着て山行く馬鹿が何処にいるのよ」

履きかけの靴に足を通し、っぃしょッと立ち上がる。
確かに革靴で山へ行くのはどうなのかと母ちゃんの言葉でふと疑問に思ったが、残念ながら靴は今履いているものしかない。別に本格的な登山に行くわけでもなく、ただちょこっと山で遊ぶだけだし問題無いはず、多分。
――問題無いよな?
自答自問するが所詮革靴以外選択肢はなく、大丈夫と言う事にしておく。ただ、履いている靴がスニーカーならよかったとは思う。
そして今考えるべき問題はガミガミ吠えまくる母親をどうやって説得させるかだ。出来ることならこのまま強行突破で玄関を飛び出したいが、そうすると帰ってきた時が地獄だ。

「ちょっとだから汚れねえって」
「なにがちょっとなのよ。そもそもこんな時期に山に行って何するの」

なにって――なんだ?
そう言われてみれば今の時期の山って何があるのだろうか。
山に行くといえば大抵夏で、というかこれまで夏以外の季節に行ったことがない。
夏ならカブトムシやクワガタ、蝉取り、ザリガニ釣りだったりとやることなら山ほどあるが春目前といってもまだまだ肌寒い今の季節では昆虫はおろか、ザリガニすらいない。
うーんと首を捻り、ふと思い出したのは校舎裏で見た蝶だった。
あんな冬真っ只中でいる筈のない蝶の大群がいたのだ、それを考えれば春も直ぐそこの今の時期ならばなんかしら見つけられるかもしれない。
むしろ――世紀の大発見をするかもしんねえじゃん?
にんまり笑顔を浮かべながら振り返る。

「山がオレを呼んでいる!」
「馬鹿言ってないで大人しく家にいなさい」
「無理! 制服汚さないからいいだろ!」

汚さないから行っていいだろ、と何度も繰り返せば母ちゃんの口から溜息を出させることに成功した。
こうなった母ちゃんは呆れつつもゴーサインを出してくれるのだ。

「あのね大輝、今日は遊びに来たわけじゃないって分かってるわよね」

粘り勝ちやったぜ、と内心ガッツポーズを取っていると母ちゃんの口からは予想に反した科白が出てきて、振り上げた内なる腕から力が抜ける。
二年前の今日、婆ちゃんが死んだ。凄く、すっげえ優しい婆ちゃんで、ここに来るたび婆ちゃんはクシャとした笑顔でオレを迎えてくれて、オレはそんな婆ちゃんが大好きで、だからその婆ちゃんが死んだって聞いた時は泣いた。涙が涸れるほど泣いた。

「もう少しおばあちゃんのことも考えてあげなさい」
「――いいんじゃよ」
「お……、お義父さん」

言われなくとも分かってる――今日がどんな日くらい分かってるさ。
分かってるけど、と唇を噛みしめ俯いているとキシキシ床が軋む音が聞こえ、ふっと顔を上げれば廊下の向こうから爺ちゃんが歩いてきた。

「ばあさんは大輝が遊んでいる姿を見るのが好きじゃったからなあ」

服が汚れていようと、濡れていようと、どんな格好で山から下りてこようと婆ちゃんは笑顔で腕を広げていた。
そんな婆ちゃんの姿を思い出し、今更かもしれないがもう会えないんだと改めて実感してしまい寂しいという気持ちが込み上げる。

「大輝や、帰ってきたらばあさんに山でどんなことをしたか教えてあげなさい」
「爺ちゃん……」

行っていいの、と見れば爺ちゃんは行って来いと強く頷いた。すると「もう」と溜息が聞こえ、爺ちゃんの隣にいる母ちゃんに視線を戻す。

「夕方、日が落ちる前には帰ってきなさいよ」
「……へ」
「あと制服は絶っっ対汚すんじゃないわよ!」
「分かった! んじゃ、」
「――あ、大輝」

行ってきます、と玄関から飛び出そうとしたが爺ちゃんに呼び止められ立ち止まる。というかすでに体は半分以上外に出ていたけど。
なに、と頭だけ後ろに回す。

「爺ちゃんとの約束忘れておらんか」
「おう、ちゃんと覚えてるって! じゃあ、」

毎回山に入るたび口酸っぱく言われる約束を忘れろって方が無理だ。もう何十何百って聞いたことか。
普段寡黙な爺ちゃんが山に入るこの一時だけ口煩くなるものだから「分かった分かった」とは聞いてはいるけど、正直このやり取りをするのは面倒臭い。

「――注連縄の中に入っちゃ行かん、あと山に入ったら人と、」
「人と話すなだろ! つかもう小学生じゃないんだから一々言われなくても忘れねえよ!」
「こら大輝っ、おじいちゃんになんて口利くの!」
「はいはい、行ってきま――す!!」
「あ、ちょっと大輝!」

このままではいつまで経っても家から出られないと強引に玄関を飛び出す。母ちゃんの文句が耳に届くが、振り返らず目の前にある山を目指し足を速める。そしてものの数分で見馴れた山の入口に到着し、足を緩める。
本格的な山登りではないと言っても、山を舐めてはいけないというのが爺ちゃんの口癖だ。子供の頃から幾度となく遊んできた山でも、気を緩めることはしない。
よしッと己に喝を入れ、山へと足を踏み入れる。

「ザリガニいっかなー」

一歩一歩踏みしめながら山道を歩き、取りあえず少し上った先にある然程遠くない沢を目指す。
この時期の山に入ったのは初めてで、夏とは全く印象が違う。夏は青々とした草木が生い茂り、木々の隙間から差し込む太陽の光がキラキラして綺麗なのだが今は木や葉の色が暗く、春も近いというのに山全体が薄暗い。太陽の光は夏と同じように差し込んでいるのに、だ。そして思った通り昆虫なんか一匹もいない。多分ザリガニもいないだろうが、もしかしたらを捨てきれず先に進む。
――にしても、爺ちゃんはなんであそこまで注意すんだ。
玄関先でのやり取りに改めて首を傾げる。
それにその注意の内容もどこかおかしい。注連縄の中に入っちゃいけないのはなんとなくだが分かるが、人と話しちゃいけないのはどうしてか分からない。普通山であった人とは挨拶をするのが礼儀だと思うけど、ここでは違うのか。
今まで気にしたことは無かったが、よくよく思い返すと山で会った人と言葉を交わしたことが全くない。それどころか会う人間全員が逃げるように去っていき、子供心になんなんだと思った記憶がある。中には軽く頭を下げ挨拶をする人もいたがやっぱり声は発していない、と思う。
それを爺ちゃんに言った気がしなくもないが、理由を覚えてないってことは多分適当にはぐらかしたんだろう。
そうだ。爺ちゃんはただ注意をするだけで、何でやってはいけないのかを話したことはない。
――帰ったら理由を聞いてみるか。
教えてくれっかな、と考えている間に沢に着いた。がやっぱりザリガニ一匹見当たらず、がくりと肩を落とす。
その時ぴちゃんと水が跳ねた音が聞こえ、音がした方へ移動すれば魚が泳いでいて堪らず目を輝かせる。
釣りだー、と気合を入れる間もなく釣竿を持ってきてない事実に気づき、というかザリガニを釣るための糸すら持っていなかった。
できることなら川の中に入り、素手で捕まえたいところだが制服汚さないと母親と約束をした手前、濡らして帰えれば間違いなく雷が落ちる。
なにか代わりになるものはないかとポケットに両手を突っ込むも出てきたのは紙の切れ端と菓子のゴミで、再度がくりと肩を落とす。
――このまま此処にいてもしょうがねえなあ。
留まって魚を捕まえたいという欲求になんとか打ち勝ち、他に何か興味を引くものはないかと沢に背を向け歩きだす。
だけど先に進めど何か見つけることもなく、ザクザクと落ち葉を踏みしめる足音だけが空しく響く。
山に入る前の興奮はとっくに覚めていた。というか寒い。
遊んでいる内に熱くなるだろうとブレザーを脱ぎセーターだけになったのは拙かった。まあ山を歩いているだけでそれなりに体温は上がるが、それ以上に風が冷たくなってきた。
山に入ってからまだ一時間も経っていないが既にやることが見当たらない。
こんなことなら母親の言う通り大人しく家にいれば良かったと上っていた斜面を下る。
大分深くまで上ってきた気がするが、知らない場所ではない。山道から多少外れてはいるが、もう少し下れば山道に出る筈だ。と、その時進行方向に例の注連縄に囲われた空間が見え、あれと目を瞬かせる。上って来た時は注連縄なんかみなかった。というか注連縄のある場所はもっと山の奥で、そんな深くまで上っていない筈だ。だが――気づかないうちにこっちまで来ちまったのか。
何となく腑に落ちず、おかしいなあと首を傾げつつ下る足は止めない。
注連縄の中に入ってはいけないというだけで、近づくのは何の問題もない。そのまま注連縄が張ってある空間を横目に歩き続ける。
――相変わらず意味分かんねえ空間だな。
神社の建物がそのまま小さくなったようなものを中心に囲うように木が植わっていて、その木々の外側に立ち入り禁止の黄色いテープのようにぐるっと注連縄が回され、山の中にもかかわらずぽっかりと空間ができ上がっている。しかも回された注連縄は円を描くようにではなく直線でカクカク角があり、確かではないがどことなく五角形のような形をしているように見える。
何でこんなものと思い、あの建物の中に一体何があるのだろうかと気になるが、爺ちゃんの注意がなくとも中に入ってまで確認しようとはどうしてか思わない。
そのままそこを通り過ぎようとしたが、不意に視界の端にあり得ないものが映った気がして足が止まる。一歩二歩と戻り、一本の木を見上げ、そして。

「うっそ……、マジかよ!!」

なんといる筈の無いカブトムシが木の幹にくっついていた。
見間違いかもしれないカブトムシらしきそれを凝視するが、それは間違うこと無きカブトムシで、ありえない、なんでと興奮が抑えきれない。
これはこんな山奥まで来てしまったオレへのプレゼントか。ご褒美なのか。絶対そうだ。神様ありがとう。
感謝の気持ちを胸に、カブトムシを捕まえる為ゆっくり木に近づく。
背伸びをし、手を伸ばすがタイミング悪くカブトムシが動き始めてしまい、しかもあろうことか注連縄の中側へと入ってしまった。
もう少しで捕まえられたのに、と悪態をつく。
だがこのまま折角見つけたカブトムシを捕まえないでこの場を立ち去ることなどオレにはできない。
ほんのちょっと、数秒だけ中に入るぐらいなら大丈夫だろう。カブトムシを捕まえて直ぐ出れば問題無い筈。
とはいってもあれだけ注意された事を破るのだから内心ドッキドキでやっぱり諦めようかとグルグル考えてしまうが、カブトムシと天秤にかければ音を立てカブトムシに天秤が傾く。そして男は度胸!と意を決し注連縄の中にそっと足を踏み入れる、が当然何かが起こる気配は全くない。何かが変わった感じもしない。オレのドキドキを返して欲しい。
――爺ちゃん、なんでこんな何の変哲もない場所に入っちゃいけねえって言ったんだ。
まあ、帰ったらこの事も含め色々聞いてみるが、今は直ぐそこにいるカブトムシに手を伸ばす。
だけどあと数センチで、というところでカブトムシは羽を広げ飛び去ってしまった。

「あ、」
「にいちゃん――なにやってるの?」
「ぎ、ぎゃ――ッ!!」

突然聞こえた子供の声のせいでカブトムシを捕まえ損ねた悲しみが一気に吹っ飛び、そして驚きのあまり腰が抜け派手に尻餅をつく。


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