とある少女の怪異録 | ナノ

59

主将に呼ばれ、慌しく体育館を横断する桃井に、やっと全部終わった、全てが元通りになったと実感させられる。
いや昨晩の騒動で桃井が九尾から解放されたという事は頭では分かっているのだが、如何せん八神の言うところのおまじないをやって以降桃井は目覚めること無く眠り続けていたのだ。口を開ければ棘のある言葉しか吐かない、非道な八神と言えども桃井に不利になるような事をやったとは思わないが、自分の目で桃井が今まで通りの生活を送る姿を見るまではどうしても終わったという実感が持てずにいた。一度心配してしまうとドツボに嵌まるがごとく次から次へと良くない事ばかりが脳裏を過り、気がつけば空がしらやんでいた。
が、その心配も杞憂に終わり、今はただ、睡眠時間を削ってまで悩んでいた昨晩の己に何も考えず寝ろと文句を言いたい。昼食もそこそこに仮眠をとり、眠気が最高潮だった午前中よりは幾らかマシになったとはいえ、気を抜くと瞼が落ちてくる。
――だが、まあ本当に、良かったのだよ。
忙しく動き回る桃井に口角が自然を上がる。そして桃井の姿を目で追っていると不意に視界に入った青峰が喉の奥まで見えそうなほど大きな欠伸をした。
欠伸は伝染すると聞くが、今まさに喉の奥から眠いとばかりに欠伸がわき上がる。青峰と同じように口を開けて欠伸をしたらどれほど気持ちが良いかと一瞬考えてしまったが、主将の目が光っている場で欠伸など出来る筈もなく、眠そうに目を擦る青峰の背後に忍び寄る黒い影から目をそらし、どうにか口の中で欠伸を噛み殺す。
ゴスッ、というバスケの練習に似つかわしくない打撃音が体育館に響く。

「ぃ、ってぇええぇ!!」
「これで目も覚めたな、よしよし」
「なにすんスか主将! 酷いっすよ!!」
「ああ? なに、もう一発欲しいって?」

後頭部を押さえ、反論する青峰に喜んでとばかりに拳を握った主将に、青峰は「何でもないっすー」とそそくさ主将から離れ、練習の輪の中に戻った。
馬鹿が、と内心悪態をつき、休めていた手を動かそうとしたが、バチと主将と目が合ったが最後次の動作に移そうとした不自然な体勢のまま身体が固まる。主将は、お前も一発いっとくかと言いたげに解いた拳を再び握ったが、結構ですと主将から目をそらし止めていた手を動かし、リングにボールを放る。
――青峰の二の前になるのは御免なのだよ。
あんなもの脳天に食らえば、目が覚めるどころか意識が飛びかねない。それならそれで足りない睡眠がとれるからいいが、日頃人事を尽くしているオレにはこれ位の眠気など屁でもない。
眼鏡のブリッジを押し上げ、左手を上げボールを要求すると同時に、再び青峰の悲鳴が体育館に響いた。
朝練から幾度となく主将の鉄拳をくらい、青峰の頭の形が歪むのもそう遠くないだろう、と考えていると体育館の隅で仕事をしている桃井の姿が視界に入る。主将に説教をされている青峰にしょうがないな、とでもいうように口元を緩ませ、優しい視線を注いでいる桃井から視線をそらす。
――だが一つだけ。
一つだけ元通りになっていないことがある。桃井は昨晩の、いや保健室から連れ去られて以降の記憶がすっぽり抜け落ちているのだ。青峰の話だと桃井は保健室で寝ていた所までは覚えているようだが、気がつけば自宅のベッドで寝ていたと不思議がっていたらしく同時に自分はどうかしたのではないかと不安がったそうだ。青峰は咄嗟に、起しても全く起きる気配の無い桃井を担いで連れて帰ったと彼女に説明し、場を収めたらしい。
青峰にしては随分機転が利いたものだと驚きを隠せなかった、がそれよりも桃井が昨晩の出来事を覚えていない事に安堵の息を漏らした。むしろあんな事覚えていない方が桃井の為で、こればかりは元通りでなくて良かったと思わずにいられない。
昨晩八神が嘘の説明をした時は何故だと疑問に思うばかりだったが、今考えるとあれはきっと奴なりの優しさだったのだろう。八神は桃井に記憶が残らないと分かっていた。普通、記憶が残らないと分かっていれば真実を包み隠さず伝えるだろう――いくら伝えた所で次の日には全て覚えていないのだからな。だがアイツは嘘を伝えた。もしかしたら記憶が残らない人間に伝えてもしょうがない、面倒臭いというのが本音かもしれないが、いやそれの方が可能性としては高いが願わくば――八神は不要に桃井を動揺させたくなかった、そう思いたい。
本人に聞くのが一番だが、自ら地雷原に赴く趣味はない。いくら八神のお陰で桃井が助かった言えども、毒を吐かれて平常心でいられる自信は皆無だ。それに八神には必要最低限、いやできることならもう関わり合いたくない。
八神に出会ってから歪み始めた己の日常を平常に戻すのかオレの目標なのだ。
――まあ、もともと“なにか”なければ八神に関わることもないのだがな。
アイツの専売特許であるオカシナ問題がなくなった今、己の中では八神と言う人間に関わる価値はゼロに等しい。そしてオレは、オレ自身に残された問題を解決するだけだ。
休憩、という主将の声が響き、体育館の隅に立っていた桃井がコート内に入り部員にスクイズボトルを次々手渡していく。桃井からスクイズボトルを受け取っている赤司と早くもスクイズボトルに口をつけている青峰にチラと視線を向け、細く息を吐き、他の部員と同じように桃井からボトルを受け取る。
やはりというか、朝部室に入って早々赤司から射るような、聞きたい事が山ほどあるというような視線が飛んできた。勿論オレだけでなく青峰にも飛んでいた。だが赤司も思う所があるのか他の部員がいる場で話す気はないらしく、ただじっとオレ達を見ているだけだった。それはそれで怖いものがあるのだが。
そして赤司が体育館で普段と変わらずマネージャー業に励む桃井の存在に気づけば、一体どういう事だと言いたげにオレ、桃井、青峰と忙しなく視線を投げてつけていた。正直赤司があそこまで動揺した姿は初めて見た。
だが赤司は桃井に詰め寄ることはしなかった。そう桃井には、だ。
あくまで赤司の標的はオレと青峰だったようで、朝練も終わり各々がそれぞれのクラスに向かうところから赤司から怒涛の「何があった」「どうした」「なにをやった」などの質問攻撃が始まった。説明するつもりなど毛頭なく、それは青峰も同様のようで、のらりくらり……どうにか、やっとの思いで質問を交わしていた。が、隙あらば顔を出す赤司に、いい加減嫌気がさしてきていたのは言うまでもない。
ひとたび練習が始まれば質問攻撃は止み、赤司も真面目に練習に励んでいるようだが、時折チクチクとした視線が後頭部に、顔の横に突き刺さる。
オレがこれだけ不愉快に感じるという事は、そろそろ青峰の限界が近いという意味で、このまま赤司を野放しにしておけば苛々が臨界点に達した瞬間青峰は全てをぶちまける、確実に。
そうなる前にどうにかしようと思っているだけで放課後になってしまったのは指摘しないでいただきたい。あの赤司相手に正攻法で挑むのは愚か者のすることだ。勿論九尾の狐に見初められ危うく桃井はこの世とさよならしかけたと説明するだけならなんら問題無い。いや問題しかないが、仮にそう説明した所で誰が、赤司が信じるだろうか。絶対信じないだろう。むしろ赤司ならば馬鹿にされたと憤慨する。
但しその何の問題もない説明の中に八神という登場人物がいるということを話してしまえば白は一瞬にして黒に変わる。即ちアウトだ。誓約書の一番上に引っかかる。
唯でさえ一度赤司に八神の名が知れているのだ。その時は幸いにも何も起こらなかったから良かったものの、今回ばかりは間違いなく引っかかる。
――それに。
昨日突如として視えてしまった存在を思い出し、すーと血の気が引く。
原因も理由も全く分からないが、本当に突然視えた。初めは幽霊の類なのかと顔を強張ばらせたが、ナカムラさんと何やら言葉を交わしている辺りで八神関連のモノだと気づき、「ヨリ」という八神の口から幾度となく発せられた単語を聞けば、目の前の声も聞こえずボンヤリとしか視えないそれが以前八神が言っていた一般人には視えることのない式だという事を理解した。ただの見間違いかと目を擦ったが、間違いなく視えた。
今まで視えなかったはずのものが視えるということほど恐ろしいことはなく、自分自身にどういった変化があって視えるようになったのか皆目見当がつかず、そしてその事と塩の件が繋がっている気がしてならなかった。
慰め程度にしかならないだろうが少しでも役に立てばとラッキーアイテムとして持参した粗塩を狐に向けて投げつければ、思いの外その効果を発揮したのだ。まさか塩を投げた程度で苦しむとは露ほども思っておらず、塩ではなく別の何か、違法薬物でも持ってきてしまったのかと焦りに焦ったが、仮にそんなものを持ってきたとして違法薬物がこの世のものでないモノに効くかという話で、もしかしたら偶々当たりどころが良かったのかと思い直し、青峰に迫っていた狐に投げつけたが狐は同様にもがき苦しんでいた。そして幾度となく狐に向かって塩を投げつけ、狐の動きが鈍くなった隙にヤマダさんが切るという連携までとっている始末だった。
掌に視線を落とす。
オレはまさか――。

「あぁ゛――――!!」

誰かの苛立った声が思考回路を遮断した。
一体何だと顔を上げれば青峰が赤司に向かって一直線に足を動かしていた。
目を見開く。

「赤司お前ッ、いい加減にしろよ!!」
「……なにがだ」
「青峰!!」
「何がだ、じゃねえよ! しらばっくれんな! ちらちらちらちら――鬱陶しいんだよ!!」
「そうさせているのは誰だ? お前が事実を話せば済む話だと思わないか、なあ青峰」

慌てて二人の間に入ったが、一度入ったスイッチはそう簡単には切り替わらない。
体育館中の視線が二人に集まっていた。その中には勿論桃井もいる。
駄目だ。こんな所で真実を明るみにはできない。してはいけないのだ。
視界の端で主将が近寄ってくるのを捉え、彼に捕まる前に赤司と青峰の腕を掴み、ざわつく体育館から二人を引っ張り出す。
二人分の文句と主将の怒鳴り声が背後から聞こえるが掴んだ腕を放すつもりも、足を止めるつもりもない。
誰もいないだろうと体育館裏まで連れだし、人気が無いことを確認し二人の腕から手を離す。

「緑間、オレをこんな所まで連れだして一体何のつもりだ。今すぐ答えろ」
「それをお前が言うのかよ! お前こそ何のつもりだよ!!」
「だからそれは、」
「おい少し、」
「さつきは八神のお陰で助かった! それでいいだろうが!」
「青峰!!」
「……八神?」
「そうだ、八神だよ!! 八神がさつきを化け物から助けてくれたんだ! 第二図書室の拝み屋は――八神なんだよ!!」

青峰が絶叫した瞬間、いなかったモノがいた。視えなかったモノが視えた。黒いモノが――宙を飛んでいた。
あまりに突然の事で頭の中で処理が追いつかず、処理どころか頭の中が真っ白になり、ただ馬鹿みたいに口を開けそれを見上げることしか出来なかった。


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