『人魚姫』 p6/p7



あの日。勢いよく開け放った塔の一室の扉。
腰まで伸びている美しい白髪が振り向く動作に合わせてふわりと揺れた。
ゆるりとアノニマスへ向けられた、魔力ある一対の青い宝石。
どうしたの、と笑んで問い掛ける声は、余りにいつも通りだった。
外での異変など知っていても、関わることなど夢にも思っていない、フィオリタ邸という箱庭だけで過ごしてきた、名のない少女。生神。
レースや宝石で彩られた豪奢なドレスの上に、童話の本を抱えてアノニマスを見上げていた。

「お逃げください、お嬢様」
「どうして?」
「当主様が謀反の疑いを掛けられたのです。謀反、そして悪魔崇拝と」
「誰に――否、姉上にかしら?」
「えぇ。お逃げくださいませ、お嬢様――姫御前様」

彼女は目を瞬いた。長い睫毛が揺れる。
豪奢なドレスを纏う少女はするりと立ち上がり、跪くアノニマスを傲然と見下ろした。
鈴を転がすようにくすくすと微笑うその姿は酷く幻想的。
だけれど、彼女の背景にある窓からは火の手すら上がっている。

「その必要はないわ。貴方が逃げなさい」
「何故…!」
「姉上に私は殺せませんもの。私を想うなら、貴方は逃げて生きなさいな」

そして私の助けになりなさいと、こちらの服従を確信した少女は美しく笑う。
娼婦のように艶やかに、修道女のように涼やかに。
自信に満ちて自身の生存を語る唇が、アノニマスの殉教を認めぬ笑みが厭わしくて仕方がなかった。そして同時に、多少なりとも、駒くらいには想われていると知り――歓喜も湧いたのだった。
煉獄へ招く番人のように、彼女は滑らかな動作で掌を上向け差し出す。
アノニマスはその白い手を取り、裏返して口付けた。敬意。忠誠。

満足したか、麗しき悪魔は厚い童話の本を取り、硝子の嵌まる窓へ歩いて行った。
何をするつもりなのか。すると、ペンより重い物を持ったことなどないような細腕が童話集を持ち上げ、窓に向かって振り下ろしたではないか――!

何をなさるおつもりで、と問うのも憚られた。
少女が本を振り下ろす度、蜘蛛の巣のように硝子に走る皹が広がっていく。
何度目かで、がしゃんと音を響かせ硝子が砕け散った。
破片の一部は彼女にすら矛先を向け、その顔に――この世の至宝に、傷を付ける。
剣山の形をして窓枠に残る硝子も、童話集で丁寧に叩き割り、少女は窓枠を指し示した。
飛び降りてみせろ、自分に隷属するのならば――真っ白な微笑が無言でアノニマスに促す。

深々と礼をして、窓枠を乗り越え――そして、身を躍らせた。



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