『人魚姫』 p4/p7



「…じゃあいいわ、肯定しないのなら否定されたってことね? ―――短剣は人魚姫の持ち物じゃない。ならば、"誰かが人魚姫に短剣を渡して王子を殺すように唆した"、とか」
「"王子を殺すように唆した人間はおりません"とも。近いようで全く外れですね」
「なら…"唆したのは人間以外のもの"だったのよ。ほら、例えば悪魔憑きってのがいるらしいじゃない」
「……あぁ…失礼ながらお嬢様、悪魔も魔女も、人と同等かそれに近い知能を持つ幻獣もこの世には存在しないのですよ。"王子を殺すように唆したものはありません"」
「そうなの? 意外だわ。父上が言ってたような記憶があるのに」
「ほう…先代の当主様は、何と」
「全然覚えていないわ。ただ一角獣よりどうとか言ってたような気がするけど」
「…左様ですか。存在するような物として比較されていたとなれば無理からぬことでしょうが――されどやはり、そのようなものなど存在しないのですよ」
「そうなの…分かったわ、じゃあ別な可能性ってことなのね」

硬い寝台に腰掛け、安楽椅子でも揺らすかのように一定のリズムで細い脚をぶらぶらさせる。伏せられた視線は大人びているが、その仕草は子供そのものだ。
端整な目鼻立ちから視線を外し、アノニマスは鉄格子の側へ寄った。
風が吹き込んで、波打つ青い長髪がばさばさと踊った。
下界では忙しく動く農民たちが見える。日が落ちればその姿は消え―――代わりに晩餐会へ向かう貴族たちの派手な馬車が現れるのだろう。

その晩餐では、この国の女王に幽閉されたり処刑されたりした貴人の話題も出るかもしれない。この国はいつ終わるだろうか。仮に終わるとして、アノニマスが危ぶむその時が来てしまうまでには終わるのか。
……否、と嫌な想像ばかりが鎌首をもたげる。

「……そうだわ! じゃあ"人魚姫は架空の物語の書き手。王子が登場する物語を書いていたけれど、何らかの理由で書くことが嫌になって物語を捨てた。当然、物語が死ねば登場人物の王子も死ぬ"っていうのは?」
「物語がお好きな、お嬢様らしい仮説ですね。――まぁ"空想、物語は無関係"なのですが」
「ふぅん…これも違うの… じゃあ普通に考えてみるわ――そうね、そもそも姫が王子を殺した理由は何かしら」

アノニマスは答えない。
首を傾げて腕を組み、本気で悩んでいるようにも見える少女は愛らしかった。
外見に不相応な幼さが表れ、しかしそれが悍ましいほどに美しい。天使と悪魔の狭間。

「原典ではあれよね、魔女に掛けてもらった呪いを解く為に刺そうとしたのよね?」
「ええ、仰せになった通りですとも。王子が隣国の王女と結婚の意志を固め――式を挙げようとする。しかし姫は、王子が他の誰かと結ばれると死んでしまう」
「そうそう、それで姫の姉たちが髪を代償にして短剣を差し出すのよね」

――これを使って、王子を刺しなさい。そうすれば人間の脚が人魚のひれに戻るから、あなたは助かるわ。

アノニマスが手渡した問題文の便箋をゆるりと取りながらあの姉たちの台詞を低く呟いた声は艶やかで、何処か退廃的なものを感じた。
船乗りを誘惑する歌声。船底を打つ、残り時間を数えるメトロノーム。

「『人魚姫はとても悲しみ嫉妬しましたが…』」

問題文をなぞった指と視線が、その一点で止まる。
じ、と一対の青い宝石がアノニマスを見上げた。
ぱち、と一度瞬きをする。白く長い睫毛がそれに合わせて動いた。不健康に白い顔に、睫毛による影が少し落ちた。

血などが通っているのか。色の薄い唇が開くのを、執事の笑みを貼付けたまま見ていた。


20120320


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