『人魚姫』 p3/p7


フィオリタ、という姓のみを与えられた少女は、何かを悟り切ったかのように薄く笑った。名無しアノニマスと名乗る執事の語る悪意ある物語を聞いた後。

「人魚姫、か。こう改変されてしまうといっそ清々しいわね」
「左様でございますか」
「えぇ」

原典では、人魚姫は王子を刺すことなく剣を捨て――天へと昇っていった人魚姫。だが、王子と姫を刺した人魚姫は海にも戻れず、天へも逝けなかったという。ややもすると原典より惨い終焉かもしれない。

「勿論魔法も人魚も存在しないのでしょう?」
「その通りでございますとも。…ある意味、簡単すぎるかもしれませんね」
「そうかもね。単純に、"人魚姫はただの人間。海に飛び込めば死ぬわ。"消えたってのは…そうね、"死体は見つからなかった"んじゃない?」
「おや…やはり容易に当ててしまわれるものです。全くもってその通りですよ」
「ふぅん」

――『物語』はこれだけ?期待するだけ無駄だったのかしら。
ひやり、とアノニマスに視線を合わせて、フィオリタはそう笑う。昼間であるというのに薄暗い塔の一室に、脳を侵すようなくすくすと笑う声が響いた。次いで、軍靴のような硬質な音。
アノニマスはフィオリタに近付いて耳元に顔を寄せて、囁いた。

――私がそんな退屈極まりないことを致すと本気でお思いでいらっしゃいますか、お嬢様?


* * * * * *


す、とアノニマスは体を引いて少女フィオリタの表情を見る。
驚いているようにも、驚いていないようにも見えた。薄い唇が弧を描いている。

「あら、やっぱり?」
「無論ですとも。物語の最後に付け加える問い掛けはあくまで形式的なものに過ぎませんのでね」
「道理で、空々しかった訳だわ」

でも紛らわしいわね、別に構わないのだけれど。
そう美しいメッゾソプラノは囁くと、滑らかな動作で手を伸ばした。
アノニマスは己の神の手を優しく取って立たせる。それが望みだ。ゆるゆると覚束ない足取りが、金属の柵に閉ざされた窓の方へ向かう。四角い下界の景色が広がる。それを見つめているであろう、細い背。教会ではないので、硝子など嵌まっているはずもない窓から吹き込む風によって動く白い髪。
そんな儚い立ち姿に、"ある童話"をアノニマスは連想した。
人魚姫ではないのだが。きっとこの連想は必然だ、最終回は決まっていたのだ。警告と慕情を童話に隠した、マリシャス・テイルの終わりは。

「じゃあ人魚姫と王子はどんな人間なのかしらね」
「さぁ? それを明かしてしまえば面白くないでしょうに」
「…そうね、それもそうだわ」

鉄格子の大きな隙間からの風に、子供のような白髪が遊ぶ。
アノニマスは"あの日"を連想した。全てが終わったあの日を。だが、その日の為に生きている。理由は誓いと恋心なのだ、きっと。
華奢な後ろ姿へ伸ばしかけた手を、そっと引っ込めた。何故か遠く感じて―――触れることができなかった。何処かで教会の鐘が鳴った。それでも時間は流れているのだ、やはり。

「……ね、"人魚姫が王子たちを刺した短剣って彼女の持ち物"なの?」
「ええ、秘密ということにしておきましょうか」
「は? …いや、そんなことしたら分かんないじゃない」

慇懃な執事の顔を貼付けて、異形のようにも見える奇妙な意匠の仮面の下、アノニマスは薄く笑う。やっとこちらを向いた女王の白く長い睫毛が揺れた。
無表情に近いが、口元を尖らせたようにも見える。

「前回の物語のように、今回もあのように易々と解かれてしまっては――私としては余りに面白くないもので」

気付いて欲しいけれど、気付いて欲しくないという矛盾―――などとは口が裂けても言えない。
あっそ、と町娘のような調子で単語を吐き出した後―――凛、とアノニマスの方を見据える碧眼に表情はない。この世界全てを悟り切ったかのようであって、実のところ知らないことが多いのだ。
嘲笑のような笑みと、神秘的な無表情以外の表情を、聡い少女はきっと知らない。
彼女へ直接に向けられた感情は、ほとんどが畏怖と崇拝だったのだから。無知な少女に禁断の果実を手渡すことは善か、悪か。アノニマスは迷い続けている。



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