『散華のライラ』 p1/p7


―――そっと足音を殺して、あの女の背後に近付いた。
ブレザーを小脇に抱え、白いカーディガンとを着て電話している、楽しそうな背中。
あの女の、目を細めるあの笑い方が大嫌いだ。媚を売っているかのようなしょっちゅう人に抱き着く癖が大嫌いだ。リア充のオーラが明白に漂っているのに「リア充じゃないから!」と断固として首を縦に降らないところが大嫌いだ。
街頭もまばらな夜の、寂れた展望台跡の淵にその女は立っている。
耳に当てた白の携帯についているあれ――クローバーのストラップが、幸せそうな動作と共に揺れた。電話する声。オーバーなアクションと、幼稚なテンション。

(…もういいよ。頑張って耐えたじゃん)

悪魔の声が、そう言う。
遠くで、きらきらと走るいくつもの光線。この時期に流星群はあったのだろうか。自分が、幸せになれますように。自分が幸せになりますように。自分が、幸せに。ぎゅっと握り込んだ手が冷たい。
4月の末にしては冷たい風が一陣吹き抜けた。暖かだった春の宵、その平穏は――此処にはなかった。あの女の声だけが、はっきりと聞こえている。

「そうなのー、そんでね!聞いて!だからふぅね、水野くんに告ったんだ!そしたらオッケーくれたの!」

…今、この女は何と言った?凍りついた脳でもう一度再生する。

「ふぅね、水野くんに告ったんだ!そしたらオッケーくれたの!」

水野くん。水野―――――つまり、
手が震えた。ざり、と赤いカジュアルなデザインのスニーカーで砂利を踏んだ。息が何故か荒くなってくる。近付いた。あの女は自分の存在に気付いていない。この展望台には今、自分とあの女の二人だけ。音を殺して一歩近付く。また一歩近付く。一歩。一歩。……一歩。

どん、

と自分はその背を力の限りに突き飛ばしていた。何処か遠く下方で鈍い音が響く。響いて、それきり静かになった。…まさか、死んだの? こんな呆気なく? かしゃん、とあの女が握っていた携帯がぼろぼろのアスファルトから少し離れた茂みに落ちる。
手から飛び出した反動で、錆びた手摺りに引っ掛かっていたクローバーのストラップ紐が重さに負けて切れたのだろう。シャッター音にも似た、小さな機械の落下音も実に呆気ない。
自分は、"いつものように"白の携帯を開く。水分の多い春の夜に走るせいでぼやけた光線が、ディスプレイに一瞬反射して消えた。


* * * * * *


――捜査命令が下り、オフィス内が急に慌ただしくなった。

事件性は低いものの、田舎ということもあって割と平穏なこの地域での人死には珍しい。いや、珍しい訳ではないか。単純に、今まで麻綾のところに人死にの案件が回ってきたことがあまりなかっただけかもしれないのだから。
こんな状況だというのに、社会人失格なほどマイペースにスナック菓子をつまむ部下に麻綾は声を掛け、事件概要を更にかい摘まんで説明した。ふわふわと跳ねた黒髪と斜めに下ろした前髪の下で、いかにもやる気のなさそうな目が麻綾の方を向いた。
因みに、麻綾の他の部下は全員既に持ち場へ直行していることも伝えてみる。
シンプルなスーツに似合わない、彼が首に掛けた赤いヘッドホンからは和風なサウンドのロックが流れている。ふぅ、と長い欠伸をして彼は半眼で言い放った。

「町の展望台で転落死?普通に自殺じゃないですかそれ」
「そうも行かないって知ってるでしょ、椎名君」
「あ、じゃあ俺ちょっと身内に不幸が…という訳で宮瀬刑事、俺帰りますね」
「じゃあ、と言っている時点で真っ赤な嘘でしょうが!」
「ちっ…因みに被害者は?」
「舌打ちはやめなさい。女子高生らしいけれど、それがどうか…」
「よし、行きましょう!」

女子高生と聞いて一気にやる気を出す部下――椎名晶の単純さに呆れ、宮瀬麻綾は米神を揉む。
なんというか、被害者の持っていた生徒手帳から彼女の身元、彼女がここら辺では割と有名な進学校に通っていた女子高生であることも説明したはずなのだが。つまりあれね、ほとんど聞いてなかったってことね椎名君。大きく息を吐いて苛立ちを抑える。
部下の失態、例えばサボりは上司のマイナスポイントにもなるからやる気を出してくれたのはよかったのかもしれないが――理由が最低すぎる。いいんだか悪いんだか、と麻綾は深々と溜息をついた。晶は既に意気揚々とオフィスを出ていったらしい。頭に手をやる。本当、大変素直なことで。溜息が出た。何で部下がこんなん居るの?ついでに何で彼やめさせられないのかしら――化粧の乱れを手鏡でチェックする。表情こそげんなりしているが、若く溌剌とした女刑事の顔が鏡から麻綾を見返した。ぱちんと蛍光灯を消した後、麻綾も署を出てパトカーに乗り込んだ。


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