大学の夏期休暇を利用し、一騎は幼い頃過ごした小さな島を訪れた。

彼が此処で過ごしたのは生まれてから小学生位までの事で、正直何か思い入れがあったかと問われれば、ごくごくありふれた平凡な記憶と印象しか持っていなかった。
別段、特別な想い出がある訳でもない生まれ故郷。
しかしこの小さな島は海面上昇の影響で、もうすぐ海の底へと沈んでしまうらしい。
それを聞いた瞬間、一騎の心は奇妙なざわめきに包まれる。


(行かないと、島へ…)


何故そう思ったのか、自分でも理由は良く分からなかった。

早く、早く、島へ、帰りたい――

そんな何かに突き動かされる様な衝動的な感情が溢れて仕方なかった。
生まれ故郷が無くなってしまう前に、目に焼き付けておくのも悪くはないだろう。
そう思いついたまま安物の旅行鞄一つを手にし、一騎はここまでやって来た。

年々過疎化の一途を辿り海底へと沈みゆく小さな島に人影なんて勿論無くて、一騎の記憶にある姿よりもずいぶんと廃れてしまっている。
あちこち見て回るも段々と日も暮れはじめ、ノスタルジックさより物悲しさだけが増す。
正直来てしまった事を後悔しながらフラリと歩を進めた先、目の前に寂れた小さな神社を見付けた。
吸い寄せられる様に近付くと、赤い朱塗りの鳥居は雨風に曝され、あちこち剥げて酷い有様だ。鳥居の外から見える境内も、雑草が伸び放題で荒れてしまっている。
しんっと静まり返り一見すると不気味な場所だったが、その神社を見て一騎の心にまた奇妙なざわめきが過ぎった。


「あ、ここ…」


この島には平凡な想い出しかなかったはずなのに、何故忘れていたのだろう。それとも記憶違いだったのだろうか?
何故か今の今まで記憶に無かった思い出が蘇る。

一騎は此処で誰にも秘密の『友達』と、島を離れるまで毎日の様に、二人きりでずっと遊んでいたと言うのに。


(そうだ…、確か…)


あの子は女の子みたいに綺麗な顔をしていた。
左側の瞼にはうっすら古傷の跡があったけれど、その美しさを損なう事なんて無くて、いつも古めかしい和服姿で頭からすっぽり衣を一枚被っていた。
その布の隙間から見える亜麻色の髪がキラキラと綺麗で、一騎はその子の事が大好きだったのだ。
折り紙、剣玉、カルタ、ビー玉、かくれんぼ。他の島の子達は流行りのゲームに夢中だったが、一騎はそれよりもその子が教えてくれる古い遊びに心惹かれた。
沢山色んな遊びをしたけれど、二人のお気に入りは影踏みだ。
鬼ごっこ遊びの一つで『影踏み鬼』と呼ばれる遊戯は、鬼役が子の影を踏むため追いかけ、踏まれた子は次の鬼になる。
たった二人だけでやると単なる追いかけっこになっていたが、あの子を追いかけるのも追われるのも一騎は楽しくて仕方なかったのだ。
そう言えばあの子は何て名前だっただろうか?


「あれ…、あの子の名前…確か…えーと…」


記憶を辿るも思い出せ無い。
喉の奥に何かが引っ掛かった様なもどかしさを抱え、荒れ果てた鳥居を潜る。すると一瞬前まで忘れていたその名前が、スルリと一騎の唇から零れ出た。


「そうし、…そうだ、総士!」


名を口にした途端に一騎の記憶の紐は一気に解ける。

島には時代錯誤な古い言い伝えと掟があった。
この社は鬼を奉っていて、幼い子供は決して一人で立ち入る事を固く禁じられていたのだ。
一騎も物心つく頃から何度も大人達に言い含められていたが、ある時好奇心に負け一人で足を踏み入れてしまった。
そこでポツンと一人ぼっちで寂しそうに佇むあの子と、総士と出会ったのだ。
変わった格好をしていたけれど綺麗で優しい総士を一騎はすぐに好きになった。
彼が学校にも行かず、たった一人この神社から外へ出れないらしい事を知ると、一騎は大人の目を盗み毎日毎日通っては二人きりで遊んだ。
けれどそんな楽しい時間も長くは続かなかった。ある時、一騎がここへ通っている事が島の大人達にばれたのだ。
凄い剣幕で叱られ、総士と何をしたのかと怖い位執拗に問い詰めらて、一騎はただ二人で影踏みをして遊んでいた事を話した。
するとますます顔色を悪くした大人が口々に、『何て事だ』『とんでもない事になった』と騒ぐものだから、幼い一騎は急に怖くなってしまった。
怯えて泣き出した一騎に、それでも島の大人達は口々に恐ろしい話しを語って聞かせる。

総士は他の人間とは違った生き物だ。
アレとやる影踏みは、影を踏まれた人が鬼になってしまう遊びだと。
古来から鬼は霊や魂を表す。つまり「鬼になる」とは「死ぬ」という意味だ。
鬼は醜(しこ)とも言い、異郷・霊界から来るものとされる。それは醜く、けがらわしく、うとましいく、人々から忌み嫌われた。
それを奉る事で人間はその災厄が身にふりかかる事を避けようとしているのだと。

鬼は人を死者の国へと攫ってしまう恐ろしい化け物。

そうとも知らずに繰り返した『影踏み鬼』―――

それでも一騎は彼の優しさと淋しさを知っていたから、「総士はそんな事しない!」と庇えば庇う程、『魅入られてしまっている』と大人達は苦悩に満ちた顔をした。

だが実際総士は一騎が望まない限りは連れ去るつもりなんて無かったのだ。
あの一人ぼっちの寂しい社で一騎だけが友達だったのだから。

一騎が望まない限り…

そう、数日後。家族と一緒に島を離れる様にと、大人達が一騎に告げるまでは。











『いやだ!何も悪い事なんてしてないのに総士と離れたくない!』


島を出ろと告げられ一騎は大人達を振り切って、真っ先に禁じられた神社へと忍び込んだ。
すると待っていた様子の総士を見るなり、抱き着き泣きじゃくった。
悲しくて辛くて不安で、そしてどうして総士だけがずっと一人ぼっちで寂しい思いをしなければいけないのか、腹が立って喚いた。


『ありがとう一騎。でもこれが僕の役目なんだ、島に、この社に一人で縛られ続けなくてはいけない』

『だったら俺も総士と同じになりたい。そうしたら、ずっとずっと一緒にいられるだろ?』


そう言うと総士は眉を寄せ今にも泣きそうな目をして、そして、切なそうに笑った。


『駄目だ一騎、そんな事を望んだらお前を連れて行きたくなってしまう。僕と同じになってしまったら、もう二度と人間には戻れなくなるんだよ』

『でも、総士と離れ離れになりたくない。そんなのは、淋しい』

『大丈夫、一騎の中の僕の記憶を封じよう。お前を僕から逃がしてあげる』


そう言って、総士は一騎の後ろへ回り込み影を踏んで抱き込む様に手を回す。
まるでその存在を確かめる様な抱擁は、やがてゆっくりと右手で一騎の瞳を覆い隠す行為に変わる。


『お前が僕を忘れてしまえば淋しく無いだろ?』


それじゃ総士が淋しいままだと言い返したかったのに、言葉にする前に一騎の意識は途切れてしまう。

次に目を覚ました時、一騎は島を出る定期船の中で、総士の事は何一つ忘れてしまっていた。

















「一騎、捕まえた」


ぽとりと、一騎の手から旅行鞄が地面へ落ちる。
あの頃と同じ、影踏みで捕まえられた時はいつもこうだった。背後から抱きしめられた感触に、一騎の意識が引き戻される。
聞こえた声は記憶よりもずっと低かったけれど、その響きは何処までも優しいまま。


「何故戻って来てしまったんだ?」


そうだ、彼はあの頃からずっと優しい。
その気になれば無理矢理にでも一騎を攫えたはずなのに、今の今までずっと自分一人だけ淋しさと痛みに耐えて逃がしてくれていた程に。


「島が沈むって聞いて」

「水底へ沈めば僕とお前の縁(えにし)は完全に絶ち切れた」

「やっぱり、島が廃れたのも島が沈むのもお前の意思だったんだな総士」


この地に縛られ続けたまま、全ては一騎を逃がすために。


「こうしないと、いつか僕は一騎を喚んでしまいそうだった。せっかくお前は僕を忘れていたのに…」


淋しさに耐え切れないといった風情の切ない声に、抱きしめられていた腕を解いて一騎は振り返った。


「うん、けど例え忘れてしまっていても、やっぱり俺は総士を一人ぼっちには出来なかった。お前が淋しいのは嫌なんだ」


その証拠に記憶を無くしても結局一騎は自分でこの島に帰って来てしまったのだから。
振り向いたそこには自分より背丈が少しだけ高い男が一人。
昔のままの目の色に左の瞼には一線の古傷。古めかしい和服姿で一枚の衣が頭を覆い隠し、それでもその美貌を押し込め切れずにいる。
その布へと手を伸ばし、掴もうとした一騎の手首を総士が握って制止した。


「この姿を見たら、お前はもう戻れなくなる…」


そう言われて一騎は総士の手を振りほどくと、躊躇い無くその上質な衣を引いて地面へ落とす。
整った美しい美貌。大好きだったキラキラの亜麻色の髪はそのままに、彼の、総士の隠されていた額の両端側には歪つな二本の角か生えている。
それを見ても一騎は驚く事なくただ微笑む。


「間違えるなよ、総士。さっき俺が捕まったんだから、今度はお前が俺から逃げる番だろ?」


鬼が醜く恐ろしいなんて伝承は、きっと人間の嫉妬だと一騎は思う。
だって自分が知る鬼は優しく美しく、そして放ってはおけない位に不器用で存外淋しがり屋だ。
一歩踏み出し地面に出来た総士の影を踏む。そのままいまだ戸惑う総士の衿元を掴み引き寄せ、ただ触れるだけの口づけと抱擁を贈る。


「総士、捕まえた。今度はお前が鬼の番だから、いいよ?俺の事攫っても」





影踏みアンブラッセ






夕暮れ、オレンジに染まった神社の地面に、放置された小さな旅行鞄と美しい衣だけが残っていた。


その後、一騎の姿を見た者は誰もいないまま、島は静かに海の底へと沈んで消えた。



END







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