君が思い出になるその前に | ナノ







が思い出になるその前に



ある冬の日の事だった。
春までもう少しだと言うのに風はまだ冷たくて肌寒い。
けれど温かに調整された空調と外気が遮られている室内は、午後の陽射しだけが大きなガラス窓から差し込み、気持ちが良い温もりに包まれている。
窓側の1番光りが差し込むテーブル席は、この穏やかな雰囲気で満ちた喫茶楽園の店内で総士が最も気に入っている場所だった。
そんな彼は食後や休憩に決まって珈琲を注文する。
シンプルな白磁のマグカップに入れて、砂糖もミルクも無いブラックのままで出すのが常だ。
しかしその日一騎は何と無く違う飲み物を総士へ出してみたい気持ちにかられた。
たまたま店の中に自分と総士以外誰も居なかったから、ほんの些細な悪戯めいた思い付きを仕掛けてみる事にしたのだ。

二人きりで特に何かを話すでも無く静かな空間。一騎は食器棚からマグカップを二つ取り出しつつ、チラリと総士を盗み見る。
手元の端末へ視線を落としたまま、無心で文字を読んでいて特にこちらを気にする様子も無い。
その事にひっそりと口の端を上げ無邪気な微笑みを浮かべながら、一方にはいつもの珈琲を。そしてもう片方のマグカップに熱いココアを流し入れ、さらにマシュマロを二つ放り込んだ。
ココアの熱で白いマシュマロはとろりと溶けて、途端に甘い香が鼻孔を擽る。
そしてそれを何食わぬ顔で、仕事を続けている総士のテーブルへと置いてみた。
こちらの気配を察して僅かに瞬きはしたものの、総士は一騎にもカップにも目もくれず、その視線は手にした端末の文字を追う事にのみ集中している。
予想通りの展開にクスクスと思わず笑ってしまいそうになるのを耐えながら、一騎は珈琲の入った方のマグを持ってすぐ隣の席へと腰を下ろす。テーブルにカップを置きそのまま頬杖をついて総士を見遣る。





(凄い集中力)





こうなってしまうと総士は回りが気にならないと言うか、回りが一切見えていないレベルで没頭してしまっているから、至近距離でいくら眺め様が気付きもしない。
だからこそ一騎は無遠慮にその横顔を見詰める事にした。
差し込む光りに透けた亜麻色の髪がキラキラと輝いて見える。
なだらかな額からスッと通った鼻梁、薄く柔らかな唇に形の良い顎先。辿る様に目を這わせ、再び総士の目元へと視線を戻す。
彼の左側に座り横顔を見ているのだから、当然この方向から見えるのは左の目元で、瞼から頬の少し上にかけて一騎が刻んだ傷が薄く見て取れた。
横から見るとハッキリと分かる長い睫毛、灰色に薄い紫の澄んだ瞳。
真っ直ぐに伸びた背筋、しなやかな腕に長い指。折り畳まれてなお長いと分かる脚に、品良く揃えられた爪先。





(ああ、総士はやっぱり綺麗だな)





皆城総士を構築する何もかもが美しく思えて、眩しそうに一騎は少し目を細める。
優雅な手つきで総士の指がカップへ伸びた。まるでスローモーションの映像を見ているかの様に、一騎の網膜にその動きはゆっくりと映っていた。
そして吸い込まれるみたいに陶器の縁が総士の唇に触れ、カップが傾けられる。すると…





「………甘い」





端末の画面を見ながら少し眉間に皺を寄せ、そう零した総士を見て堪え切れずに一騎は吹き出した。
こんなに甘い香りが充満しているのに集中し過ぎて気付く事なく、一騎が出した物を疑いもせず口に含む。
口内に流れ込んだであろう甘ったるい液体に眉を寄せ、騙されたとばかりに視線を寄越した彼が一騎には堪らなく愛おしかった。





「うん、マシュマロ二つ入れた」


「ココアは嫌いじゃないがこれは甘過ぎる」





ごめんごめん、と総士の手元のカップと自分のテーブルに置かれていた物とを交換してやり、一騎は甘ったるいと不評だったココアを口に運ぶ。
確かに総士には甘過ぎる代物だったが、自分には存外悪くないなとマグを傾けもう一口。





「珍しいな」


「そうか?甘いのはわりと好きだし」


「そうじゃなくて、お前がこんな風に僕の気を引くのは珍しいと言う意味だ」





そう言って交換された珈琲を一口飲み、馴れ親しんだ味に総士の眉間が緩んだ。
彼は不器用だけれど、決して鈍感ではない。むしろ物凄く繊細な人間だからきっと見逃しては貰えないだろう。
最も一騎にしてみればただの悪戯のつもりではあったのだけれど、自分でも気付かない内に彼の気を引きたくて取ってしまった行動だったのだと、指摘されて気付き自覚してしまった。





「なあ、総士」





マグをテーブルに置き再び総士に視線を戻す。向かいの席からゆっくり近付き、そっと彼の服の衿元を掴んで緩く屈み込みながら、自分の方へと総士を引き寄せた。
ちゅっ…と、小さなリップノイズが静かな空間に溶けて消える。
一騎の唇は総士の左の瞼の上、うっすらと走る傷の跡に柔らかな感触を残して離れた。
総士は驚きのあまり訝し気に瞬きを繰り返している。
呆けている彼に満足しながら屈んでいた姿勢を戻してその様子をじっと見下ろし観察した。
自分達以に誰も居ないとは言え職場であるこの場所で、一騎がこんな行動に出るとは思ってもいなかったのだろう。





「どうしたんだ一体」


「甘いかなって、つい?」


「何だそれは…、僕は甘くないし答えにもなってない。やはり今日のお前は少し変だ、何かあったのか?」


「何かって訳じゃなくて。うーん…ただちょっと今朝夢見が悪かった………のかな?」


「何故疑問系なんだ…」





一騎が見たのは朧げに形の不明瞭な夢。
永遠の時間の中を何度も繰り返し続ける…、そんな抽象的でよく意味の分からないイメージ。
けれど幾度もその輪郭の無い繰り返しを過ぎる内に、「今」がどんどん遠くなってゆく事だけは理解出来た。
そして一騎を置いて周りの全てが思い出に変わっていく事を、ただ当たり前に受け入れている夢の中の自分。
具体性のない朧げなその夢の残滓と、心に微かに燻る奇妙な焦燥感で一騎は目を覚ました。

島はここ数年、凪いだ海の様に静かで平和だ。
総士が帰って来て仲間や家族や島の人々に囲まれ、まるでありったけの温かさを詰め込んだ様に穏やかな日々。
けれどこの温かな時間がずっと続けば良いのにと、そう無邪気に願えなくなる程には自分達は大人になってしまった。
痛みも理不尽も不条理も、受け入れられないと突っぱねてしまえるだけの無知も純粋さも、すっかりと無くしてしまったのだから。
きっとまたフェストゥムはやって来るだろうし、島は相変わらず人類軍から追われている。同化現象により自分の命がこの先長く無い事も、検査後の皆の様子で何と無く察していた。
メディカルチェックの度に気を使われている雰囲気や、自分の命の期限とどう向き合うかの迷い。温かで幸福な時間の中で、真綿でジワリと絞められる様な焦りを促すおかしな夢。

まるで暗示の様で奇妙な不安が心の内に燻る。

夢では自分が置いていかれる立場のような気がしたけれど、現状ではみんなを置いて先にいなくなってしまうのはきっと明らかに一騎の方で…。





(どっちにしろ、もっと覚えておきたい…、何もかも全部)





そう思った結果、普段はしない様な気の引き方を無意識にしたり、総士を焼き付ける様にじっくり観察したりてしまったらしい。





「ごめん。実は自分でも何がしたいのか、あんまり良く分かってないかも」





本音とごまかしを半々に混ぜた言葉を、一騎は眉を下げ言って見せる。





「まあそんな事だろうとは思った」





呆れた様子で総士は再び手元の端末に視線を戻しかけて…、動きが止まる。
珍しく乱暴に端末をテーブルに放り出すと、自身の前髪に指を差し入れくしゃりと握って溜息を零した。





「一騎、来い」


「へ?」


「良いから、来るんだ」





「おいで」と心地好い甘さのそれにふらふらと引き寄せられ、気付いたらその場に膝を付いた体勢で総士の腕の中に閉じ込められていた。





「その顔、僕はあまり好きじゃない」


「その顔って?」


「その笑ってるのに諦めてるみたいなそれだ」





一騎は今自分がどんな顔をしていたかなんて己では分かりようも無かったが、どうやら総士のお気には召さなかったらしい。





(別に、諦めてる訳ではない…と思う。でも、多分迷ってるんだろうな俺…。このままで良いのかって…)




自分の定まらない不安定な感情に申し訳無さが湧いたその時、膝を付いた事で低くなった視線、抱きしめられたままチラリと見てしまったテーブルの上。
放り出された端末の液晶に、びっしりと打ち込まれた文字データが目に入る。





(…あれ?これ…)





その小難しい文字の羅列の中に度々見慣れた単語が伺える。当たり前だ、だってそれは自分の名前なのだから。





(…俺の医療データ)





途端に情けない様な逃げ出してしまいたい様な、何とも言えないむず痒い感情に一騎の頬は朱を浮かばせた。
ずっと仕事をしているのだと思い込んでいた。いや、これだって確かに総士の立場的には立派な仕事なのだけれど、でもあんなにも集中して真剣に回りが見えなくなる程に、自分の治療のためのデータをまとめていたのだと思うと、途端に自分が仕掛けた不可解な行動や言動が余りに子供じみていて、恥ずかしさで身を隠したくなってしまう。
文字通り「穴があったら入りたい」と言うやつだ。





「埋まりたい…」


「埋まる?…何処にだ?」





一騎の内情に気付いていない総士からすれば、酷く情緒不安定気味に映っているのだろう。
不器用な手の平が、戸惑いながらも宥める様にポンポンっと一騎の背をあやす。
そのぎこちないながらも優しい手つきにますます顔が上げられなくなり、一騎は総士の肩口に己の額をぐりぐりと擦り付けた。
余計にむずがる幼子めいていたけれど、今総士の顔を見てしまったら駄目だ。
何だかみっともない自分の内側を晒してしまいそうな気がする。





「本当にごめん。今凄い面倒臭いと思うから、あんまり俺を甘やかさない方が良いかも…」


「変な遠慮をするな。それに好きなんだろう?甘いのが」





ここでそんな切り返しをしてくる辺り総士はちょっと意地悪だと思う。
なのに耳の縁に唇を寄せて吐息と共に、「お互い様だ、お前に関する面倒事は僕の担当だからな」なんて優しく流し込まれたものだから、内に渦巻いていた不安定な焦燥感は一瞬で霧散した。
彼への依存は軽減された様に見えて、やはり深く根付いている。結局一騎の1番は彼なのだ。何を置いても優先したくなる特別な存在が、分かりにくくも「今は僕に甘えろ」と態度に示していて逆らえるはずもない。
迷いが消えた訳ではないし、あの焦燥からも本当の意味で逃れる事は出来ないだろう。
いつか決断して向き合う時は来るだろうけれど、それはまだ「今」じゃない。





「総士、あのさ…」


「何だ?」


「我が儘言っても良いか?」


「ああ、聞いてやろう」


「春になったらお花見しないか?美味しいお弁当作るから、島に咲く花を見ながら一緒に食べたい」


「それは楽しみだ」


「うん、お前は忙しくて中々つかまらないかもしれないけど、海も見たいし星も見たいし、出来るだけ一緒に居たい」


「ああ、僕にもそう言う時間が必要だから、お前が連れ出してくれ」


「分かった。引っ張ってでも連れて行く」





仕事で根を詰め過ぎる彼に食事を届けたり、外の空気を吸わせるために強引な理由で外へと誘う自分が容易に想像出来た。
その事に一騎が穏やかに口元を緩めると、それにつられて総士も微笑んだ気配がする。

窓辺からは冬の陽射しが差し込み、穏やかな空気がふわふわと心地好く散らばっていた。
甘い甘いココアと仄かに苦い珈琲の香り、優しく自分を包む総士の腕の中で、互いの幸福を分け合う。



きっといつか何もかもが思い出に変わってしまって、取り残される日が来るのかもしれない。



だから、思い出に変わるその前に…

いや、例え思い出に変わってしまっても…



永遠にこの温かな時間を忘れたくはないと、どうか子供の様に願わせて欲しい。





END