ゴロゴロゴロゴロと車輪の着いた大きなスーツケースを押す音がし、一騎が今まさに玄関で靴を履こうとしている現場に遭遇した。
旅行や帰郷の予定なんて聞いていない。
だから同棲している恋人のこんな姿を目撃したら、心当たりが何も無くとも「出て行かれる」と思わない方がおかしいだろう。
総士も例に漏れず、とにかくなりふり構わず一騎を後ろから抱きしめ引き止める。


「行くな、一騎」

「止めないでくれ、総士」


抱きしめられた一騎の身体がビクリと跳ねた。
見付かってしまったと小さく息を吐いた姿に、黙って行く気だったのだと総士の焦りはいっそう酷くなる。


「早まるな、問題があるなら二人で解決すべきだ」

「俺、行くってもう決めたんだ」

「何故だ、僕に不満があるなら改善する努力は惜しまない」


周りから少々不器用だと評価されがちな総士を、一騎はいつも微笑みながら共に歩もうとしてくれる。
こんなにもお互いに理解し支え合えるのは一騎以外に考えられない。


「不満?良く分からないけど、これは総士のためなんだ」

「お前が離れてゆく事の何が僕のためになる?」


本当に本当に心から一騎だけを愛しているから、絶対に引くつもりはない。何としてでも説き伏せる。


「今のままの俺じゃお前を満足させてやれない…」

「一騎は今のままで十分だ、何をそんなに思い詰めている?」


そっと腕の拘束を解いた総士は、一騎の肩に手を添えコチラを向かせた。


「ボルシチ…」


酷く思い詰めた表情の一騎に原因は何か?と視線だけで問い正すと、呟かれた言葉に総士は首を捻る。

ボルシチ、バールシュチュやボールシ、またはボールシシとも呼ばれ「紅汁」を意味する言葉だ。
テーブルビートと呼ばれる紅色をした根菜を元にした、ウクライナ発祥の伝統料理。鮮やかな赤い色をした煮込みスープは、ベラルーシやポーランド、モルドバ、ラトビア、リトアニア、ルーマニアにロシア等の諸国に普及している。
テーブルビートにタマネギやニンジンにキャベツ、そして牛肉などの材料を炒めスープで煮込むのだが、中身の具材は決まりがあるわけではなく、素材は地域によって異る。またウクライナ地方では40種類以上ものバリエーションがあるとされ、世界三大スープの一つとされている。

そういえば先日、学生時代ロシアに短期で語学留学をした事がある――なんて話しを一騎にした覚えがあった。
その時食べたボルシチが本場だけあってとても美味しかったと、何の気無しに話した数日前…。
その話題の中で何か一騎に別れを決意される要因があったのかと、総士は昨日の記憶を思い返すが心当たりが見付からない。
すると、


「俺、必ず総士が満足するボルシチを習得して帰って来る。だからロシアまで行くのを許してくれ」

「………………は?」


こんなに間の抜けた顔をしたのは、後にも先にもこの瞬間が初めてだったろうと総士は思う。


「一騎…お前、ボルシチを習いにロシアまで行こうとしてるのか?」

「うん、総士が何かを美味しかったって褒めるの珍しかったし、だから俺もそんな料理が作りたくて…」


別れ話じゃなかった事に安堵すれば良いのか、一騎の斜め上の発想と行動力に頭を抱えれば良いのか…


(いや、違うな。これは僕の落ち度だ…)


家事はキッチリと分担していたが、料理だけは一騎に任せ切りだ。
それと言うのも一騎が料理を得意としている事もあったが、彼の作るご飯が美味し過ぎて自然とそれが当たり前になっていた。
そう…、当たり前になりすぎていつの間にか口にしなくなってしまった言葉がある。


「一騎、当たり前になりすぎて伝える事を疎かにしてしまったが、お前の料理はいつも「美味しい」。僕はロシアのボルシチなんかよりもお前の作るカレーの方が好きだ」

「えっ…」


そう伝えると一騎のアンバーの瞳が途端にキラキラと輝き、見るからに「嬉しい、嬉しい、幸せだ」と言わんばかりに可愛いらしい微笑みが零れた。


「あ…、なんだ…そっか。総士はボルシチより俺の料理の方が好きだったんだな」

「ああ、そうだ。だからロシアなんかに行く必要はない」

「うん、分かった」


こうして引き止める事に成功した総士は、それからと言うもの必ず食事の時に心から「美味しい」と一騎へ伝える事を忘れなくなった。


そして余談だが、この日の食事は総士が好きだと言ったカレーだったそうな。












END