パスカル×夫婦
「ほら、サイン」
彼女の目の前に真っ白な紙に文字を連ねたそれを突きつけた。
その文字を煌めく瞳が追った。
徐々に表情が曇って行く。
「これ、何?」
「何って、婚姻届」
「え? あたしたちって結婚してなかったっけ?」
「してない」
「ウソ! え〜、ほら、指輪してるじゃん!」
「婚約指輪、だ」
途端にパスカルが頭を抱えた。
何か問題でもあるのかと苛立ちを滲み出す。
感情の形として指輪が欲しいなら、いくらでも買ってやる、と安月給だけれど叫んでやりたくなった。
形で示せと言うのならば、いくらだってしてやれる。
それくらいには本気だった。
今までの生活を思えば、夫婦と名乗ったところで誰も違和感を覚えやしないだろう。
「ちょっとごめん。考えさせて」
パスカルはそれだけ言うと、部屋に引きこもってしまった。
扉が閉まる音がやけに大きく聞こえた。
これは何だろう。
『破局』という単語が脳を埋め尽くす。
プロポーズの台詞が悪かったに決まっている。
『ほら、サイン』って何だ。
思わずというか、必然的に頭を抱えた。
いくらパスカルとは言え、立派な女性。
それなりにロマンチックな場所や言葉を望んでいただろう。
パスカルが既に結婚していると勘違いした指輪を渡した時は、『たまにはお揃いの指輪も良いだろ?』だったはずだし。
同棲に至っては、パスカルの生活を見るに見かねて押しかけた形だ。
彼女の姉や仲間たちによろしくお願いしますと頭を下げられたのも懐かしい思い出だ。
いや、微笑ましく過去を振り返っている場合ではない。
パスカルが引きこもった扉の前に立つ。
やけに大きな心音を抑え、震える手でノックをした。
「……パスカル?」
返事は無い。
素直に返ってくるとは思っていなかったから問題は無い。
いや、問題だらけなのだけれど。
「パスカル、少し、話をしよう?」
優しい声音を心掛けて、ゆっくり話しかける。
目の前の扉ではなく、彼女の心の扉を開くために。
ほんの数秒、数分――否、時間なんてわからない。
永遠に思えるほどの時間を彼女が壊してくれた。
無言で右手を差し出す彼女の意図が読み取れず首を傾げれば、拳付きで怒られた。
婚姻届を出せという意味だったらしい。
言われてようやく理解した彼はそれを素直に差し出した。
いつの間にか彼女の手にあったペンを走らせ、必要事項を書き込んでいた。
その間、わずか数秒。
「これで、いいんだよね?」
「それは、こっちの台詞だけど……」
「勘違いしてたあたしが悪いんだから、今回は特別に許してあげるけど、次は無いからね。メカに埋め込んでやる」
彼の渇いた笑い声に彼女の楽しそうな笑い声が混じる。
今日から正式な『夫婦』だ。
二人の名前が並んでいるのを見ただけでこの胸に溢れるこれは何だろう。
幼い頃の恋心に似ていてまったく違うもの。
「よろしく、愛しのお嫁さん」
「こちらこそ、大好きな旦那様」
2016/11/11