そこにいた。
ぽつりと一人で。
前も後ろも上も下もわからない不思議な空間に。
立っているのはかなり不安定な位置だ。
百夜優一郎は自分の存在を確認することをやめた。
何もわからないのだから。
けれど、あきらめたわけでもない。
自分はここにいる。
胸に手を当て、自分の存在だけは確認した。
「こんにちは」
「……え?」
「あ、こんばんは……だったかな?」
突然現れた少女はそう言って笑った。
花が綻ぶような笑顔だった。
右に少し頭を傾げれば髪が流れる。
「……誰だ?」
「突然君の夢にお邪魔してごめんなさい。私、椿姫。夢政椿姫」
「夢政、椿姫……?」
当然のように優一郎が知る名前ではなかった。
初対面だ。
間違いない。
「で、椿姫は何でここに。ていうか、ここはどこなんだ?」
「ゆっくり答えていくから、まずは座ろう」
「座る?」
何もない空間に?
と優一郎が疑問に思った時だった。
チョコレート色のソファがこの空間に現れた。
驚いている優一郎をよそに椿姫が先に座る。
そして隣を叩いた。
ほんの少し悩んだけれど、どうしようもないからそれに倣う。
「さっきも言ったけど、ここは、君の夢の中」
「夢……?」
「君は今寝ているんだよ」
「寝てる……」
夢と呼ぶにはやけに現実的だと思う。
こんな変わった場所にいるのだから、夢だというのは簡単に信じられる。
けれど、この現実感は何だろう。
「難しく考えなくていいよ。私も上手く説明できそうにないし。ただ……、そう。君とお話がしたい」
「俺と? 話? どんな?」
「どんな話でも。今日食べたものとか、読んだ本の話とか、友達の話とか……」
彼女は知っていたわけではないだろうけど、『家族』という単語を出さなかった。
それを言われたら、冷静でいられる自信がなかったから、ほっとした。
「話……か。初対面の人間と話すような話題は持ってない」
冷たく突き放したわけではないけれど、事実だった。
「確かに。そうだね、じゃあ、私が……」
りぃんりぃんと鈴のような音色が聞こえる。
優しく空気を揺らす音。
それを聞いた椿姫は残念だと言わんばかりに眉を下げた。
「思ったより早く時間が来たみたい」
「時間?」
「君が目覚める時間」
「……また、会えるのか?」
「うん。会いに来るよ」
そこで彼女に名前を名乗っていなかったことに気がついた。
気がついたのと目覚めたのは、同時だった。
***
「ミカエラくん、こんばんは」
「……椿姫、君か」
「今ため息ついたでしょ。可愛くないよ? あと、幸せが逃げる」
「逃げるだけの幸せがあれば、の話だろう?」
相変わらず可愛くないなあと思いながら、椿姫は彼に歩み寄った。
「君の言う『優ちゃん』って、こんな感じの子かな」
持ち出したのは一枚の白い紙。そこにはやけに少女漫画チックなイラストが描かれていた。
思わず目を引かれたのは、確かに『家族』に似ていたから。
「……似てない」
「嘘。確実に変化が見えたよ。ちなみに、こんな感じの子に会ったことある」
「優ちゃんに!?」
椿姫が嬉しそうに『にやけた』ため、ミカエラはそっぽ向く。
興味ないフリを装ってみる。
もっとも、それは無駄な努力だったけれど。
「会えるよ、きっと。『優ちゃん』は生きているから」
「当たり前だ。馬鹿なことを言うな」
「うん、そうだね。『優ちゃん』は元気だよ。そして……」
椿姫はそこで言葉を飲み込む。
「ねえ、ミカエラくん」
「何?」
「……会いたい」
「え?」
「君『たち』に会いたい」
「会っているじゃないか。数日おきに会いに来ておきながら……」
椿姫はミカエラの手を取った。
「会いたい。夢の中じゃなくて、現実で」
「ここの方が、平和じゃないの?」
「どんな世界が現実でも、君に会いたい」
ミカエラはため息をついた。
そして、うなずく。
「会いにおいでよ。どんなに時間がかかっても待っていてあげるから」
「……ありがとう。約束だからね」
***
ぱちり。
長い時間眠っていたに関わらず、夢政椿姫はすっきりと目覚めた。
見慣れた天井、そして傍らに座る人物。
「おはようございます、巫女姫さま」
「おはよう、向日葵」
椿姫の隣に控えていたのは、彼女の世話係兼護衛。
何者も寄せつかないように命令を受けている女性。
自分の人生を夢巫女のために捧げた哀れな人物。
「巫女姫さま?」
「……家出るわ」
「え……?」
今自分は何を聞いたのだろうと脳内で繰り返している様子だった。
「え? えぇ!?」
「準備をするから、どいて。邪魔よ」
「いえいえ。巫女姫さま、ご自分が何を仰っていらっしゃるのか自覚されていますか?」
「聞こえなかった、向日葵? 私は家を出る。そのための準備をしたいから、部屋から出て行って」
強引に彼女を部屋の外へと追い出す。
夢巫女といえど、椿姫にだって武術の嗜みはある。
手近にあった鞄へ着替えやら何やらを放り込む。
考える時間さえもったいない。
もうこれでいいかと半分諦めたところへ乱暴に扉を開けて入り込んできた人物一人。
「ちょっと、巫女姫!」
「あら、小菊。久しぶりね」
「あんたが寝てばっかりだから、そうなるわよね。じゃなくて、家を出るとか馬鹿げたこと言ったって?」
「私は至って普通で真面目よ。もう決めたことなの」
「まあ、面白そうだから、あたしは応援してあげる」
ぱちぱちと瞬きをしたあとで、椿姫は笑った。
言葉にはしなかったが、ありがとうの気持ちは間違いなく伝わっただろう。
薄暗い廊下を歩いていくと、待ち構えていたようにその人物は立ち塞がった。
予想通りだから驚きもしないし、絶望もしない。
「夢政の名を忘れてはおらぬな?」
「もちろん。夢巫女の仕事はどこでもできる。私は、今の世界を見たいのよ。鳥籠の中で育てられる姫君なんて似合わない」
散々大切に守られてきた少女の言葉かと集まった者たちはため息をついた。
そして、どうやって説得すべきか顔を見合わせ、言葉を探る。
「……行って来い」
「長様!」
口々に抗議を込めて彼を呼ぶ。
それを咳払い一つではねのけた。
「椿姫が夢政の名を忘れた時、夢巫女の使命を怠った時、その首を差し出してもらう」
「……」
「死の恐怖に歪んだ愚かな顔を次の夢巫女の寝室(せいいき)に飾るとしよう」
「悪趣味」
「何か言ったか?」
「いいえ、長様。行って参ります」
「気をつけてな」
屋敷の外に出た椿姫は思い切り伸びをする。
多少体が鈍っている感じがするが、数週間眠り続けていた人間にしては上等だろう。
「やあ、椿姫。どうやら、ボクの力が必要になってきたみたいだね」
「……時雨、まだ生きてたんだ」
椿姫の肩にちょこんと乗った漆黒の鴉はむっとした様子で言葉を返す。
「椿姫、精霊を甘く見ないでくれるかい?」
「精霊? ただの死にぞこないの鴉でしょ?」
「椿姫、案内要らないの?」
「……あった方がいい」
「現実の世界は広いよ、椿姫」
「……まずは、どうやって東京まで行こう?」
一歩目行き止まり。
さあ、旅を始めよう。
(2015/09/30)