一人きりの家は、何だか寂しい。
それは灯った優しい炎を知っているから。
けれど、寂しいと感じる期間はわりと少なかった。
賑やかな炎は、あっという間に戻ってきたのだから。
「パスカル」
「んー……?」
俺の声なんて半分も届いていない生返事。
朝から溜め息をこぼすには抵抗があった。
憂鬱など必要ない。
「パスカル」
だから、もう一度名前を呼ぶ。
「だから、何?」
俺が呼んでいたことには気づいていたらしい。
パスカルは真っ直ぐに俺へ目を向けた。
「仕事に遅れるんじゃないの?」
「まだ十分時間はある」
「そうだっけ。で?」
話は聞いてあげるという態度をとられ、俺はようやく話し始めた。
「明日……付き合う気はあるか?」
何を言われたのか理解できないという顔で、その答えを俺に求める。
残念ながら深い意味はない。
二人きりで出かけるには違いないが、それは「甘いデート」を意味するわけではない。
「グレイがあたしを誘うなんて珍しいね。何、明日は嵐? 豪雪? 竜巻?」
「……この話はなかったことに。ごちそうさ――」
「ゴメン、グレイ!! 待って、話聞かせて!!」
パスカルは咄嗟に俺の右手を掴んだ。
その勢いで危うく肘をテーブルで強打するところだった。
そんな痛い「もしも」を容易く想像してしまい、思わず表情を歪める。
「……」
「ごめんってば。だからその顔やめてよ」
「で、付き合うってことでいいか?」
「もっちろん。特に予定はなかったし、たまにはグレイに構ってあげないと寂しさで拗ねるもんね」
「……」
「だから、そんな顔はやめてってば! 男前が台無しだよ!」
まさかパスカルにそんなことを言われるとは思っていなかった。
嫌な気がしないのは何故だろう。
問うまでもない気もするが、気づかないフリをしたい。
「じゃあ、忘れるなよ」
「え、詳しい話を聞かせてくれるんじゃないの?」
「残念ながら、仕事の時間だ」
右手親指で壁の時計を指す。
いつもの時間。
それだけでパスカルはわかったのだろう。
心底残念そうに、けれど納得した表情でうなずいた。
「帰ってきたら教えてよ? ちゃんと『いい奥さん』してるから」
「誰が奥さんだ。だ・れ・が!」
「あ・た・し」
「だ・ま・れ」
こんなやりとりをしていると本当に遅刻してしまう。
結局溜め息をこぼしてしまった。
「……行ってきます」
「いってらっしゃい。お土産はいつでも大歓迎だよー」
「……」
お土産イコールバナナパイ。
毎日買って帰れるほど懐は温かくない。
……いや、そういう問題じゃないな。
静かに扉を開けて、賑やかな声を背中に受けて、仕事に向かう。
こんな毎朝は嫌いじゃない。
はっきり言えば、好き、なのだ。
退屈しない日常に、刺激をくれる日常に、間違いなく感謝していた。
人の温もりを欲してしまうのは、それなりに年齢を重ねたせいなのか。
確かに結婚適齢期とも言える。
残念ながら、今の俺にそんな相手はいないが。
……ちらりと過ったパスカルの顔を慌てて追い出した。
***
大きなミスもなく、仕事は無事に終わった。
休日前にやってしまうこともきちんと終わらせたし、休日後に出勤した時上手く仕事が進むように準備もしてきた。
あまりの手際の良さに同僚から不審がられたが、そこは上手く乗り切った。
俺は、やればできる男なんだ。
だったら、いつもやれという話なんだが、そこはまあ……うん。
人間いつでも100パーセントではいられない。
真っ直ぐに自宅に向かい、その扉の前で深呼吸。
明かりはついている。
つまり、パスカルが確実にいるということ。
「ただいま」
「お、グレイ。今日は早かったね……と。おかえり、グレイ」
百点満点と言える笑顔が迎えてくれた。
疲労感を飲み込むような優しい空気に不本意ながら癒された。
二人で食卓を囲むのも、嫌いじゃないアタリマエになっている。
「パスカル」
「んー……?」
「返事はこっちを見る」
「はい」
嫌々といった様子で、けれど期待に満ちた眼差しを向けてくる。
「好きなだけ食べていい」
「何を? バナナパイ? それとも、バナナ? それとも、マーボーカレー?」
「……」
「そんな顔しないでよ。冗談だって」
溜め息なんてこぼすつもりなかったのに、自然と深く吐き出していた。
「全部」
「ん?」
「ホントに何でも食べていい。一緒に出かけるんだから、おごってやるよ」
「上から目線。けど、いいね。約束だからね」
***
翌日約束通りに出かけ、しっかりご飯も食べたパスカルはご機嫌だ。
俺は……確かめたかった。
パスカルのこと、自分のこと、それから……。
とりあえず目的は果たしたから良しとしよう。
「パスカル」
「んー?」
「……」
「はいはい。返事する時はグレイを見るんだよね。寂しがりや?」
「……」
たまに殴りたくなる同居人だ。
けど、それさえも許したくなる空気を持つヤツなんだ、パスカルは。
「……付き合うか?」
「どこへ? またご飯連れってくれるの?」
「……俺と、お前。一回付き合ってみるか」
「おお、告白だったんだ。気づかなくてごめんね?」
申し訳ないと思っているのか定かではないが、そんな雰囲気は出している。
彼女がはっきり答えないのは、フーリエが関係しているのだろうか。
「うん。まあ、いいよ。試してみるのも悪くないかもね」
「……マジか?」
「マジだよ。よし、今日からコイビト同士だね。つまり、同居じゃなくて同――」
「同、居、だ」
「……」
予想通りに睨まれたが、そこの一線を越えるつもりはない。
思春期の子供じゃないが、友達以上恋人未満というヤツだ。
「よろしく、パスカル」
「こちらこそ、よろしくね」
交わした握手はまるで好敵手のようだった。
乱れ飛べ翠影!
ウィンドニードル
2015/08/01
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