アイズ・ラザフォードへの挑戦状
ピアノの鼓動を伝える演奏者。
まるで波のようにそれは流れる。
生きているかのように強弱もテンポも全てを完全に表現する。
演奏者と楽器が一つとなった時、生まれるメロディー……。
そのピアノは“天使の歌声”と呼ばれていた。
***
広い部屋に響くメロディー。
それは、一台のグランドピアノから発せられているものだった。
その旋律はどこか切なくて……けれど、それ以上に力強いものだった。
ピアノの前に座っているのは、銀髪の少年だった。
来日中のピアニスト、アイズ・ラザフォードだ。
そこへ、この場には似つかわしくない音が響いた。
誰かの足音。
それもかなりの大音量。
―バタンっ!!
乱暴に扉が開かれる。
アイズの演奏は強制的に止められた。
彼はゆっくりと扉に目を移す。
そこにいたのは、一人の少女だった。
赤っぽい茶髪はポニーテールに、服装は月臣学園のものだ。
そして、全力疾走したためだろうか。
肩で呼吸をしていた。
「あんたが、アイズ・ラザフォードね」
見ず知らずの少女にいきなり指でさされた。
「あたしにピアノを教えなさい!」
暫く沈黙が流れた。
「……」
「あんた、部長が言ってたピアニストのアイズ・ラザフォードでしょ?」
YESもNOも言わないアイズに、少女は少し不安げに尋ねた。
「ああ。俺がアイズ・ラザフォードだ。お前は?」
「あたし? あたしは、色瀬杏樹。月臣学園高等部一年、新聞部部員よ」
胸を張って答える杏樹。
「部長っていうのは誰だ?」
「知らないの? 結崎ひよの先輩」
そう言いながら、一枚の写真を見せた。
その写真には、杏樹とひよの、そして不機嫌そうな鳴海歩が写っていた。
「それで? 何故、俺にピアノを?」
「弾きたいのよっ」
確かに弾きたくもないのに、ピアノを教わろうとはしないだろう。
「お前の身近に先生[ヤツ]がいるだろう?」
そう言いながらも、あの歩が人にピアノを教えるわけがないとアイズは思っていた。
溜め息混じりのその言葉に杏樹は眉を顰めた。
「それって、鳴海の事?」
「ああ」
「それは絶対にダメ!!」
“ムリ”ではなく“ダメ”。
「どういう事なんだ?」
「……」
杏樹は黙り込む。
「……それに答えたら、あたしにピアノを教えてくれるわけ?」
強気な言葉とは正反対に不安そうに尋ねる。
「……話を聞いてからだ」
アイズの答えに杏樹は唇を噛んだ。
「……部長が言ったのよ。鳴海のピアノが聞きたいって」
それはいつもの事だ。
彼らの日常的によく起こる事。
アイズは知らなかったが、ただ彼女の話に耳を貸す。
「それで?」
「もちろん鳴海は断った。あたしはそれが許せなくってね。だって、そうでしょ? 自分は部長の力を借りてるくせに部長の頼みを断るなんて」
その時の事を思い出したのか、杏樹は怒りを態度で表す。
「そこで鳴海が出した条件がピアノだったのよ」
「……?」
アイズは杏樹をじっと見つめる。
「あたしが完璧に“エリーゼのために”を弾きこなしたら、一曲弾いてやる……だって。あームカつく!!」
ようやく事情が理解できた。
「それで? ピアノの経験は?」
「全っ然。初心者もいいトコね。右手と左手が同時に動くワケないっていうの!」
歩もなかなか難しい課題を出したものだ。
初心者が簡単に弾けるものではない。
短期間で弾けるようになるわけがない。
ものすごく飲み込みが早かったり、ピアノとの相性が良ければ、可能性はあるかもしれないが。
ちょっと練習したから……では、弾けるはずがない。
「期限とかは?」
「なし。弾けるようになったら、聞いてやるだって! 何様のつもりよ」
アイズは椅子から立ち上がる。
そして、杏樹に近づいた。
「少しだけ付き合ってやる」
「それは、どーもありがと」
杏樹は今までアイズが座っていた場所に腰を下ろした。
「とりあえず、鍵盤に手を乗せて」
「?」
杏樹は自分の両手を眺めた後で、適当に乗せてみる。
「……こんな感じ?」
杏樹の両手が置かれた位置にアイズは溜め息をついた。
彼女が言った通り、全く経験がないようだ。
「“C”……“ド”の位置は分かるか?」
「“ド”? うーん……」
2、3分程悩んで、人差し指で一つの白鍵を押す。
「これ……かな?」
「……それは、“G”だ」
「ゲ?」
「……“ソ”の音だ。“C”はここ。左のそれは“H”だ」
「……???」
「……“シ”だ」
クイズをしているわけではない。
「もー、そんな事言っても分かんないわよ! どーでもいいから曲を教えて!」
「基礎基本ができずに応用や発展はできないだろう?」
当然の答えを冷静に返されて、杏樹はますます苛立ちを見せる。
「ったく、あんたにしろ鳴海にしろ、どーしてそんなスカしてんのよ。あたしをバカにしてんの!?」
それは被害妄想である。
「立ってみろ」
アイズは先程と何ら変わらぬ口調で静かに言った。
杏樹は言われた通りに立ち上がる。
アイズは杏樹の前でピアノを弾いた。
“エリーゼのために”を。
たった一曲聞いただけ。
それなのに、杏樹の中のピアノのイメージは大きく変わった。
今まで生演奏を聞いた事がなかったし、クラシックに興味はなかった。
だからだろうか。
たった一曲がこのように色々な表情を見せるとは知らなかった。
力強く時には繊細に……。
「すごいね」
演奏が終わったアイズにそう投げかけた。
それは、「こんな曲弾けてすごいね」ではなく、「こんな風に表現できてすごいね」だ。
「ありがとう」
一言そう言って、杏樹はアイズに背を向けた。
「どうしたんだ? やめるのか?」
「まさか」
杏樹は笑顔で振り向く。
ピアノを甘く見ていた。
このままじゃいけない。
「“ド”の位置を覚えたら、また来るわ」
「ああ。待っている」
来た時とは正反対に静かに扉を閉める。
閉まった扉にアイズは一度笑みを向け、演奏を再開した。
何事もなかったかのように。
だけど、どこか少し違う柔らかな雰囲気で……。
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