水の宴・V
02
木々の合間から広がり始めた光。夜が明ける――。
物が散乱する部屋。それが片付く頃には昇り始めた太陽の光がいつしか室内に降り注ぎ、眩しいほどの明るさが広がっていた。そしてその陽射しを見上げたバーンは、視線の先でひび割れた窓を見つけ小さく息をついた。
「どうだ、目を醒ましそうか?」
肩を落とし振り返れば、メレイとリリィが意識を飛ばしたアランを心配げに見下ろし覗き込んでいる。
ゆっくりとした足取りでバーンが歩み寄ると、顔を持ち上げたリリィが首を左右に振った。そんなリリィの向かい側ではアランの頭を膝に乗せたメレイが、顔を強張らせたまま俯き微動だにしない。
ますます深い息がバーンから吐き出された。
「生きてはいるんだろ? 戻ってこないのか?」
ため息をつきながらバーンがリリィの横に腰を下ろすと、不安げな紅い瞳がこちらを向く。小さく頷いた彼女が握る手は、お世辞にも大丈夫とは言い難いほどに青白い。
「状態としては広場で倒れていた時と変わらないのだけど。でも、今はどこかに引っ張られているみたいで……」
「なんだかよくわからねぇ状態だな」
リリィの言葉に眉を寄せたバーンは独り言を呟くように口篭もり、胡坐をかいた足に頬杖をついた。
「私も良くはわからないのだけど、アランさんは潜在的な魔力が強いから、周りに干渉されやすいのかもしれない」
「ますますわからん」
「うん、そうね。でも、あまり長くこの状態でいるのは危険だと思う」
表情を曇らせたリリィはそう言いながら、じっと黙ったままのメレイへ意識を向けた。
「メレイちゃん。巻き込んでしまったことは本当に申し訳ないと思っているの。私、もっと色々考えるわ。だから……」
今にも倒れてしまいそうなほど心が張りつめているメレイはとても危うく、内側で徐々に膨れ上がる黒い気配を感じた。
「いつだって人はアランを巻き込んで傷つけていく。勝手な人たち……みんな、死んでしまえばいいのに」
「……メレイ、ちゃん?」
少しずつ広がる闇。
覇気の感じられない声、おぼろげな気配、奇妙な違和感がメレイを包み、呼びかけるリリィの声が震えた。
「メレイちゃん? ねぇ、しっかりして……」
しかしリリィの声が届いていないのか、ぼんやりとした視線でメレイはじっとアランを見つめたままだ。黙り込んだメレイを訝しげに思い、確かめるように腕を伸ばしたリリィだったが、それは触れる前に容赦なく払い落とされてしまった。
「おい、どうした?」
突然険悪な雰囲気を漂わせ始めた二人にバーンは狼狽したように腰を浮かせるが、ふと立ち上がりかけた動きを止めて窓の外を見つめた。耳を澄ましてゆっくりと細めた目に鋭さが加わる。
「なにか、来る」
只ならぬ雰囲気を感じ取り身構えると、バーンは背後に二人を庇うようにしてその先を見つめた。
心地よい朝陽が広がっていた外の景色もなにかに警戒をするようにざわめき、木々は枝葉を揺らしている。押し寄せてくる気配にバーンの背中を冷たい汗が滑り落ちた。
「お兄ちゃん危ない、避けて!」
リリィの悲鳴に近い叫び声が響き渡るのと同時か、庭に面していた窓が一斉に大きな音を立てて砕け散った。
「…………っ!」
気圧され息が詰まりそうな衝撃がバーンの身体に叩きつけられる。そしてその見えない空気の塊は衰えることのない強さで、踏み止まろうとするバーンを徐々に後ろへと押しやった。
「なんなんだよ一体……」
まとわりつく気配に眉をひそめ、逆らうようにバーンが足を一歩前に踏み出すと、部屋中のものが四方に飛び散りそれらが壁に次々と打ち付けられる激しい音が響き渡る。
「なぜこんな闇が、……っ!」
次第に渦を巻き始めた空気の中で黒い気配が広がる。その気配にリリィが気が付き訝しげに眉をひそめると、まるでその疑念を阻むかのように砕けた破片がリリィのすぐ傍を通り過ぎていく。
闇が触手のようにリリィへと伸びる。
「きゃぁっ」
だが思わずリリィが小さな悲鳴を上げて触れていたアランの手を強く握ると、肥大し目の前まで迫っていた闇が突然その力を萎縮させ、霧散していった。
――私はここにいる、早く来て
徐々に後退していく闇の気配と共に微かな声が耳の奥で響き、その刹那リリィは静寂の中に仄かな光を感じた。
「……アリア?」
遠退き消えた闇の気配にリリィの表情が強張る。そして微かに聞こえたその声にひどく胸が震えた。
「う、痛……」
「アランさん?」
消え去った闇に気をとられていたリリィは小さな呻きに我に返ると、とっさに握り締めていた手を確かめた。
冷え切っていた手には温もりがあり、それはリリィの手を握り返すように微かに指先に力を込めた。
「リリィさん? 僕、また倒れたの」
「良かった、目が醒めて。どこか痛いところはありませんか?」
「ん、全身と頭が痛い……かな」
リリィの問いかけに苦笑いを浮かべたアランは節々の痛みに眉を寄せると、軋む身体を持ち上げながら背後を振り返った。
「メレイ?」
反応がなくじっと黙したままのメレイを訝しげに見つめて、アランは少し俯いた彼女の表情を窺い顔を覗き込んだ。普段ならば真っ先に飛びついてくるはずのメレイは、ぼんやりとした生気のない瞳で虚ろに床を見つめている。
「どうしたの?」
微動だにしないメレイをしばらく見つめていると、ようやく伏せられていた瞳が前を向きアランの姿を映した。
「アラン、どこにも行かないで」
「え?」
メレイの口から突然発せられたその声は、耳を澄ましていなければ聞こえないほどか細く、あまりの弱々しさにアランは耳を疑った。
「どこにも行かないよ、どうしたの? なんで泣くの」
メレイの様子に呆然としていると、いつしか瞳に溜まった涙が溢れ出してきた。アランはその涙に狼狽しながら頬を濡らすその涙を慌てて両手で拭う。
「みんながアランを連れて行こうとするの。……独りは嫌だよ」
今までどこかぼんやりとしていたその瞳に徐々に光が戻り、真っ直ぐ見つめる青い瞳がますます涙で滲み出す。子供のように腕を伸ばして縋りつくメレイを抱きとめると、アランはその背を宥めるように撫でた。
「大丈夫だから、行かないから。一緒にいるよ」
「独りは嫌、暗闇は嫌……」
アランの肩に顔を埋めそう呟いたと同時か、突然ぷつりと糸が切れたようにメレイの身体が崩れ落ちた。
「メレイ?」
自分に凭れるように倒れてきたメレイの身体をとっさに支えると、腕の中で眠る姿を見下ろしアランは小さく眉をひそめた。
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