水の宴・U
09
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 椅子の音とリリィの声が静かな部屋の中で木霊していた。
 アランは投げられた言葉の意味を飲み込めず、ただ呆然とリリィを見上げるが、見下ろす彼女の瞳に戸惑いこそあれど、虚言や偽りは感じなかった。

「どういうこと?」

 やっとのことで紡ぎ出された声は情けなく震え、うまく笑うことができなかった口元は、おそらく不恰好に引き攣り歪んでいることだろう。思わず後退りしようとアランが身体を引くと、椅子の脚が床に擦れて再び音が響く。
 不意に響いたその音に肩を跳ね上げたアランは慌てて椅子に座り直した。

「色々なことに巻き込まれて、アランさんも大変なのはわかっているんです。でも、貴方じゃないと駄目なんです。女神様が示した救世主様は貴方しかいないんです」

 焦ったように話し出すリリィの言葉は要領を得ず、全く話が見えてこない。

「救世主って? 僕をなにに巻き込もうとしてるの?」

 逸らすことを許されないような紅い瞳は今も優しさを湛えてはいるが、困惑したアランを映し込み、そこから逃そうとはしなかった。否、逃げられないことにもアランは気が付いていた。
 その瞳の力強さはリリィの持つものではなく、彼女を取り巻く圧倒されるほどの聖気を放つ水の力。

「……女神アセンディア?」

 リリィの背後に感じる気配に一瞬目の前が真っ暗になるが、アランはとっさに首を振ると、頭痛のし始めた頭を押さえて大きなため息をついた。

「彼女がなにを視せたかは知らないけれど、僕にはそんな力はないよ」

「そんなことありません。まだ眠っているだけなんです。本当の貴方は……」

「魔力もうまく扱えないし。それに、気配を感じることができても僕は視ることも、聴くこともできない。僕は……」

 不意にアランは口を噤んだ。
 耳元から遠ざかっていく自分の声やリリィの声。徐々になにかが自分の内側に入り込もうとしている、そんな違和感を抱いた。

「痛っ」

「アランさん?」

 突然頭を押さえて蹲ったアランの只ならぬ気配に慌ててリリィが駆け寄る。しかし彼女の声を遮るかのように、伸ばされた手は振り払われた。

「どうして、みんな……僕にそんなこと言うの」

 掠れていく声に反し、激しい頭痛が更にアランを襲う。それは身体が脈打つたびに痛みが増し、堪えきれず手に触れた椅子を引き倒すとその場に頭を抱えるように蹲った。
 奥歯を噛み締めて痛みを堪えようとするが、異常と思えるほど噴き出した汗が滴り落ち、頭を押さえる両手を嫌なほど濡らしていく。

「なんで僕が……」

 膨れ上がる不安にアランは押し潰されそうだった。
 身体の奥底を掻き回し、内側からなにかを無理やり引き摺り出されそうなそんな嫌悪感と、込み上げる不快感に身体中が粟立ち叫び出してしまいそうになる。

「僕はなにも知らない、なにもできない」

 なぜ闇を惹き寄せるのか、なぜ自分を欲するのか。誰もが口を揃えて力が、力が欲しいという。

 ――お前の闇にも囚われない魔力が

 闇さえも凌駕する力――

 ルイズを助けてください!

 誰かを救えるほどの力――

 そんなものが本当にあるのだとしたら、なぜ自分の大切なものを失わなければならなかったのか。
 なぜ守ることができなかったのか。

 わからない

 知らない

 誰か

「……助けて、助けて、助けて……誰か助けて」

 うわ言のように繰り返すアランの声に共鳴するように強い風が床から吹き上げていた。渦を巻き取り囲むように拡がるその勢いに、リリィは足をもつれさせ尻餅をつきその場を動くことができなかった。
 激しいまでの感情が吹き付けられる風と共に感じられて、その感情が伴う痛みにリリィは恐怖さえ覚えた。

「止めてください。女神様……駄目です。彼を苦しめないで、大き過ぎる力はすべてを壊してしまうわ!」

 気づけばリリィは腕を伸ばしていた。尻込みし竦んでいた身体を動かし、蹲るアランの背を抱きしめていた。容赦なく吹き付ける風の痛みは想像以上で、けれどそれ以上にアランの心は底知れぬ恐怖で打ちひしがれているのを感じた。

「誰かを犠牲にしなければ救えないのなら、私を裁いてください。この人にはなんの咎もないのに、私たちの都合で苦しめたくない。お願いです、この人を助けてあげてください!」

 張り上げたリリィの声に次第に風が緩やかになっていく。抱きしめていたアランの身体から力が抜けてリリィはその背に凭れるように頬を寄せると、微かに耳に届いた心音に安堵の息を吐いた。

「リリィ!」

 静けさを取り戻した室内に慌ただしい足音が勢いよく踏み込む。しかしそのあまりの異常さに思わずその足は動きを止めた。
 目の前に広がる光景は散々たるもので、椅子やテーブルはなぎ倒され、部屋のありとあらゆるものが放り出され飛び散っていた。

「お兄ちゃん」

「なにがあったんだ」

 部屋の惨状と床に倒れ込むアランとリリィの姿に顔を青褪めたバーンは、自分の呼び声に顔を上げたリリィに我に返ると慌てて彼女を抱き起こす。

「やっぱり考え直しましょう。アランさんを巻き込むのは止めましょう。この人が犠牲にならなくてはいけない理由なんてない。アリアと村を救う方法はほかにきっとあるはずよ」

 バーンが抱き起こすとしがみつくようにリリィがその腕を掴む。彼女の震える手とこぼれ落ちる涙に、バーンは困惑しながら眉をひそめた。

「しかし女神様のお告げはこれしかないんだろう? 犠牲と言っても彼の力を借りるだけだ。それに時の歯車は回り始めていると言ったのは……」

「お願い、お兄ちゃん」

「……リリィ」

 言葉を遮るように突然堰を切ったように泣き出したリリィの姿に、バーンは戸惑いながら何度も宥めるように彼女の小さな頭を撫でた。

「時の歯車ってなによ、女神がなんだって言うの」

 静まり返っていた部屋の中に響いた靴音と、不意に自分たちを覆った影に驚きバーンは声を詰まらせて顔を上げる。見上げたそこではメレイがバーンとリリィを見下ろしていた。
 けれど息を詰まらせたのは突然現れた気配の所為だけではない。自分たちを見下ろすメレイの鋭いまでの視線に含まれた、敵意と殺気だ。

「なんのために私たち村を出たの。どうしてみんなアランを自由にしてくれないの。意味わかんないことにアランを引き込まないで、なんでもかんでも誰かに助けてもらおうなんてしないで!」

 驚きの表情のままバーンは身動きできずメレイを見上げていた。

「メレイちゃん?」

「邪魔よ、どいて」

 バーンと同じく鋭い気配を感じたのか、怯えた瞳でリリィもまたメレイを見上げる。しかしそんな二人を一瞥すると、メレイは戸惑う二人を押し避けて意識のないアランをそっと抱き寄せた。確かめるように触れた青褪めた頬、冷たいアランの身体にメレイは顔を埋め肩を震わせる。

「もしこれ以上、アランの意思とは関係なく巻き込むようなことがあったら、アランを傷つけたら……あたしは絶対に許さないから」

 ――神様なんか信じない

 ――運命なんか信じない

 ――大切なものを奪っていく

 ――そんなものなんていらない


 時の歯車と女神の託宣・完



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