水の宴・U
08
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 漆黒の中に蒼を湛えた空はどこか神秘的で、肌寒さを感じる空気をなぜか神聖なもののように感じさせる。煌々と輝く月明かりを窓枠から望みながら、アランは吐き出す白い息に身を震わせた。

「さすがに夜は寒いなぁ」

 ポツリと呟きながら視線を落とすと、アランは傍で毛布に巻きつき身を丸くして眠るメレイの身体に自分の膝に掛けていた毛布を被せた。その温もりに気が付くと、毛布を抱き寄せるようにメレイの身体がますます小さく丸まっていく。

「……猫みたい」

 見下ろしたその先で身体を抱えて眠るメレイの姿に頬を緩ませると、アランは彼女を起こさぬように壁にかけてあったローブを羽織り、そっとベッドから降りた。そして彼女の横で広げられていた本を慎重に取り上げると、身じろぎしないメレイを確かめながら足を忍ばせて部屋を抜け出す。

 小さな軋みを上げて扉がゆっくりと閉まった。

 見慣れぬ廊下は静かで物音一つしなかった。誰もいないシンとした空間ではなぜか無意識に息まで潜めてしまい、歩を進めるたびに木の床が軋み、心臓さえもその音で軋みを上げそうになる。

 アランのいた部屋は離れに当たるのだろう。廊下は長く、渡り廊下と呼ぶのが相応しいように思えた。廊下を抜けるとそこは家族が集まる場所らしく、食事をするテーブルや椅子。長椅子や暖炉などがある広い部屋が目の前に広がった。

 暗闇にも目が慣れ、辺りを見回しながらアランはようやく外に繋がる扉へ辿りついた。

「うわ、すごい緑……」

 内鍵を外し扉を押し開くとそこでは青々とした緑が広がり、その中で一際背の高い木が緑の葉を広げて夜空に向けて長い腕を伸ばしていた。夜も更けて皆眠っているのだろうか、静かでその気配はあまり感じられない。
 だが、それでもそこにある息吹を感じた。

 バーンの家は四角くこの庭を囲っているようで、離れだけが外へ向いているのだろう。おそらくどの部屋からでもこの木を望むことができるように建てられている。
 これはこの家の護り木だ。

「お邪魔します」

 思わずそう呟いて庭に足を踏み入れると、アランは木の傍に歩み寄り挨拶するかのようにそっとその幹に触れた。そしてゆっくりと語りかけるように撫でてから根元に腰を下ろした。
 アランの耳元で葉の擦れるサワサワとした音が響く。

「あ、起こしちゃったかな? ごめん。……外のほうが聞こえると思って」

 そういって頭を下げたアランの言葉通り、先ほどとは打って変わり緩やかに風が吹き、木の枝がゆっくりとその身をしならせていた。
 静まり返っていたこの場所にいくつもの気配を感じる。

「アークの気配がなくて。全然呼んでも応えないし、どうしたのかと思って」

 ゆったりとした風がアランを包み込むように流れるが、俯いたアランの表情は更に翳を帯びた。

 いつも片時も離れることなく傍にいた風の精霊、アークの気配がないことに気が付いたのは本の一文を見つけて彼に語りかけた時だった。彼が必要な時以外に気配を感じさせないのはいつものことだった。

 けれど気配を辿ればいつもそこにいた。呼べば必ず応えた。

「どこにもいないんだ。いくら探しても感じないんだ。あの時、僕が意識をなくしたあとになにがあったのか……わからなくて」

 確かにあの時までアークはいた。それを示すようにルゥイは呟いていた。

 ――アークも困ったものだね。どんな困ったことがあったのか知らないけれど、アランをこんなとこへ連れてくるなんて

「なにかあったんだ。でも、どうしよう……わからない」

 何度も記憶を辿ろうとするものの。何度繰り返しても同じところで記憶が途切れて肝心なところへは繋がってはくれなかった。
 アランが蹲るように膝を立てそこに顔を埋めると、宥めるように取り巻いていた風は戸惑うようにその身を翻し離れていった。

「アランさん?」

 不意に呼ばれた声にアランが顔を上げると、驚きに目を丸くしたリリィが目の前に立っていた。

「こんなところでどうしたの? 随分身体が冷えてるけど」

 返事のないアランに不思議そうに首を傾げ、リリィはゆっくりと膝を折りアランの頬に手を伸ばした。冷え切った頬に触れた指先は温かく、ぼんやりとした思考から呼び戻されるようにアランの瞳に光が戻る。

「リリィさんは見えないはずなのに、よくわかりますね」

「見えない分だけ敏感なんです。気配や心の動きに」

 小さく首を傾げたアランにリリィは柔らかく笑みを浮かべると座り込んでいた彼の手を引いた。その手に促されるように立ち上がると、アランは導かれるままに室内へと連れ戻されていた。

「まだまだ寒いですから、風邪引きますよ」

 不思議そうに目を瞬かせるアランに瞳を和らげると、リリィは事も無げに扉の内鍵を閉めてアランの背を押した。
 その足取りは知らぬ者ならば気づかないだろう。彼女の瞳に光が射さないことに。

 器用に動き回るリリィの後ろ姿を見ながら勧められた椅子に腰掛けると、アランはふっと身体の力が抜けたような気がした。今まで知らず知らずのうちに身体に力が入っていたことに気が付き、思わずアランは苦笑いを浮かべる。

「こんなものしかないですけど、温めたミルクです。どうぞ、身体が温まりますよ」

 優しげな微笑みと共に肩にかけられた毛布と差し出された温かなカップを前に、思わずこぼれ落ちそうになったものをアランは慌てて押し留めた。

「大丈夫ですよ。きっと大丈夫です、そんな気がします。アランさんの不安はちゃんと晴れます」

 顔を両手で覆い俯いたアランを静かに見下ろしながら、ほんの少し寂しげな笑みを浮かべてリリィはアランに向かい合い椅子に腰掛けた。

「今はたくさんの不安が押し寄せて、戸惑いや苦しみが訪れるかもしれません。でも、貴方はその憂いを晴らす力を持っています。闇の中でも輝くそんな光を貴方から感じます。だから……」

「リリィさん?」

 不意にリリィの言葉が途切れてアランは訝しげに顔を上げた。真っ直ぐとアランに向けられていた深紅の瞳はひどく思いつめたように揺れ、なにかを語ることを躊躇っているように思えた。

「どうしたの?」

 困惑するアランの声に弾かれたようにリリィが立ち上がると、後ろへ倒れた椅子が強く床を打ち、音が静けさの中に大きく広がった。

「お願いです。ルイズを助けてください!」



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