水の宴・U
07
ぼんやりとした光のもとで広げる本は炎の揺らめきで文字さえも翳る。サイドテーブルに置かれたランプを窓際に移動して月明かりの中で再び古びた本を広げると、その光にうっすらとした影が被る。
「メレイ、邪魔だよ。見えないから……」
「あ、ごめん。じゃあ隣に行っていい?」
ベッドの上で向かい合わせに座り同じように本を覗き込んでいたメレイに、アランが目を細めて口を尖らせると彼女は徐に立ち上がり本を跨いだ。戸惑いに目を瞬かせるアランを余所に、身体を少し横に押しやり居場所を空けるとメレイは悠然と隣に座り直した。
大雑把なその行動にため息をついてアランは肩を落としながら再び本の頁を捲り始める。
「ルゥイさんにあたしも会いたかったなぁ」
動くアランの指先を見つめながら、メレイは独り言のようにポツリと呟く。
目醒める前に見たテンイルの話をしてから、何度となく彼女の口からこぼれる言葉。
その呟きに一瞬だけアランの手が止まるが、再び何事もなかったように紙の擦れる音が響いた。
「夢でもいいから会えたらいいのに、全然出てきてくれないんだよね。ルゥイさんてなんかこう、いるだけで癒やされる感じ?」
「メレイってさ……」
いつしか遠くを見つめて語り出したメレイに、アランの口から深いため息がこぼれる。そのため息に彼女が振り返り少し驚いたように首を傾げると、再び深く大きなため息が吐き出された。
「最初に好きになった人ってうちのお父さんでしょ」
「え?」
些かな投げやりなその声と言葉にメレイの目が丸くなり、瞬きさえも忘れたように固まり動かなくなった。そんな身動き一つしなくなった様子に小さく息をついて、アランは肩を竦めると頁を一枚、また一枚と捲り続けた。
沈黙が静かな暗闇を支配し始める。しかし小さな呟きが沈黙をいとも容易く打ち破った。
「なに、それって……ヤキモチ?」
「は?」
その小さな呟きは文字を追うアランの視線の先にメレイと共に飛び込んできた。突然本の代わりに現れた彼女の顔に、思わずアランは肩を跳ね上げて後退りをするように飛び退いた。
「珍しい。アランがそんな風にはっきり意思表現してくれるのって今までなかったよね? ラデルの時も思ったんだけど、すごい嬉しい!」
にんまりと笑みを浮かべたメレイは身体を起こすと、戸惑い気味でやや逃げ腰のアランに勢いよく抱きついた。
「う、あ、ちょっとメレイ……!」
勢いのまま飛び掛かったとも言えそうなその行動に、アランが太刀打ちもできるはずもなく。気づけばいつものように押し倒されるように後ろへひっくり返っていた。
「……お、重い」
「確かにルゥイさんも好きだけど、子供の頃の憧れって言うの? 大人の男の人って素敵でしょ」
不機嫌そうに口を歪めるアランを見下ろしながら、メレイは満面の笑みを浮かべてそう言うと彼の胸元から銀色の鎖を引き抜いた。彼女の指先に引かれたそれは月の光に照らされて眩しいほどに煌めいた。淡い光の下で白い羽根と赤い石が光を含んで瞬く。
「でも、あたしの一番はアランだよ。今も昔もね」
指先で煌くそれにゆっくりとした動作で唇を落とすと、メレイはぼんやりと見上げていたアランの額にも同じく口付けた。
「……っ!」
その仕草に我に返ったアランは慌てて額に手を当て後ろに飛び退き、魚が陸で息をするかのように言葉にならない声を発しながら口を開閉する。薄暗い月明かりの中でもわかるほど顔を赤くしたアランのその姿に、メレイは堪えきれずに肩を震わせて笑い、その場に蹲った。
「ア、アラン……可愛い」
「可愛くない! もういい」
笑い転げるメレイに頬を膨らませるとアランは眉間に皺を寄せたまま背を向けて、振り返らずに彼女の傍にあった本だけを引き寄せた。
「えー、怒んないでよ。なんだっけ? なに探してるのー? アーラーンー」
服の裾を引っ張っても、背中をつついても振り返らないアランの頑なな態度に口を尖らせて、メレイは背中に張りつき肩に顎を乗せる。けれど触れたそこから小さく息をついた肩の揺れと、いつもより少し早い心音を感じると、不服さを溶かしメレイは頬を緩ませた。
「ねぇアランは覚えてる? 広場で倒れた時のこと。あのあと、近くにいた人たちに声をかけたんだけど、誰も気が付かなかったって言うの。そんなことってあると思う? あんなに人がいたのに」
「有り得るんじゃない? 一種の結界みたいなものだよ。魔力がある者がよく使う手段で、内側の力が外に漏れないように、その存在を覆い隠す壁みたいなものかな?」
相変わらず背を向けたままのアランに負ぶさりながら「ふぅーん」とメレイは曖昧な相槌を打っている。こういう返事をする時は大抵よくわかっていないことが多く、アランは苦笑いを浮かべて微かに肩を竦めた。
「あまり普通の人には感じないのかもね。テンイルにも結界が張ってあったの気づかなかったでしょ」
「え? 嘘、そうなの?」
「うん、そうなんだよ」
驚きで飛び上がり顔を覗き込んできたメレイに、小さく笑いながらアランは少し困ったように眉を下げた。村を出る時に壊してしまったが、あれはアランを外界から遮断するものだった。
「そんなことより、いつまで乗っかってるの。重いし、肩が凝る」
心配げなメレイの気配を悟り、アランは声を上げて背中をわざとらしく大きく逸らすと、寄りかかっていたメレイを後ろへ押しやった。
「ちょ、危ないでしょ」
突然支えのない後ろに重力を預けられ、メレイの身体はベッドの上に仰向けに転がる。
「あった。お父さんが見てたのやっぱりこの本だ。時の歯車、神の箱庭」
夢で確かに聞いたその一文と父の言葉。
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