17.欠けた心に注がれる優しさ

 甘い恋――小津の気持ちに寄り添えたなら、いまの苦しさはなくなるだろうか。しかしその甘さに惹かれるけれど、彼に対する感情は勝利への気持ちを覆すほどの強さはない。確かに隣にいると優しい気持ちになれた。寄りかかれば心穏やかに過ごせそうだ。しかし勝利が好きだと思った時に感じたような胸のトキメキを小津には感じない。
 恋はいつだってドキドキするものだ。触れる手、見つめ合う眼差し、その先から愛おしいという感情が溢れる。

「勝利くん、冬悟、片付けをしてくれて助かったよ」

「こちらこそ、主役にご飯を任せてしまって。鍋、おいしかったですよ」

「それじゃ、小津さんまたな!」

「今日はほんとわざわざありがとう。あ、光喜くん、またね」

「うん、またね。あれ、楽しみにしてる」

「あ、うん! 楽しみにしてて」

 幼い子供みたいな笑顔。キラキラしていて眩しいくらいに輝いている。その笑みに胸は軽くなるけれど、好きという気持ちにはまだ重ならない。
 車窓から見える景色が流れていくように、いっそ心も流されるままに移り変わればいいのに。胸の奥にある錆び付いたスイッチはまだ音を立てない。

 静かな車の中で小さな笑い声が聞こえる。楽しそうに笑うその声が大好きなはずだった。いままではドキドキして胸が弾んで幸せな気分になれた。けれど自分以外の人へ向けられる笑みは、光喜の胸を締めつけることしかしない。
 どうしてこんな恋をしてしまったんだろう。

「おーい、起きろ! 着いたぞ」

 目を閉じて寝たふりをしていたらいつの間にか本当に眠っていた。肩を揺さぶられて光喜はゆっくりとまぶたを持ち上げる。ぼんやりしている思考がはっきりすると、目の前にある勝利の顔がはっきりと見えた。それを認めると勝手に身体が動いてしまう。
 そっと顔を寄せて薄い唇に口づけた。

「ば、馬鹿! 寝ぼけてんじゃねぇ!」

「ごめん、目の前にあるからつい」

「ついじゃねぇよ! ほら、さっさと下りろ!」

 奥のほうから突き刺さる視線を向けられ、勝利に額を思いきり叩かれて、身体を車の外へと押し出される。急かされながらものんびりと地面に足を着けると、光喜は見慣れたマンションを見上げた。そして小さく息をついてから、後ろを振り返って車の中をのぞき込む。

「じゃあ、またご飯とか食べに行こう」

「おう」

「あ、早く荷物片付けなよ」

「わ、わかってるって!」

「鶴橋さんもまたねぇ」

 ひらひらと手を振って一歩後ろへ下がると、バタンとドアが閉まって二人を乗せた車はあっという間に走り去ってしまう。道の先で角を曲がり、それが見えなくなるまで立ち尽くして、空間が静まり返ると光喜は暗い空を仰いだ。
 今日も冴え冴えと白い月が輝いている。けれどあの日まん丸だった月は随分と欠けてしまっていた。それがなぜかひどく切ないことのように感じる。

「なんか、俺ってほんと馬鹿みたいだ」

 喉が熱くなって、込み上がってくる感情を押し止めるように光喜は両手で顔を覆った。

「……もう、苦しいよ。誰か、助けて」

 震える声がこぼれたけれど、その声は誰にも届かない。――はずだった。
 ふいにしんとした空間に微かな振動音が響く。それを感じて光喜は閉じていた目を開いた。耳を澄ませてその音を聞いて、ゆっくりとジャケットのポケットに入っている携帯電話を掴む。そして煌々と光を放つ画面を見つめたまま、何度も瞬きをしてしまった。

「……もしもし」

 緩慢とも言える動きで携帯電話を耳に当てると、穏やかな声が聞こえてくる。その声はどこか心配げで、言葉を紡げずにいる光喜に労りの声をかけてくれた。

「もう家には着いた?」

「うん、いまマンションの前」

「そっか、具合はもう大丈夫?」

「うん、いま小津さんの声を聞いたら元気になった」

「えっ?」

「んふふ、ありがと」

 ドキドキはしないけれど、心が凪いでいく。締めつけられていた心がトクトクと音を立てる。じんわりと広がる温かさにひどく救われたような気持ちになった。

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