THE PRESENT WORLD 2
春眠暁を覚えず。
そんな昔のことわざは、現代のビジネスマンには適用されない。
春も夏も秋も冬も、クーラーによって適温に保たれたオフィスで仕事をこなす。
ここでかろうじて季節を感じることができるのは、取引先から贈られたものであろう壁に掛けられた大判のカレンダー。
見事な桜の写真がこれ見よがしに春を告げてくる。
今日は約1ヶ月の新入社員研修を終えた新人の初出社の日だ。
今年は俺にも教育係の命が回ってきた。
正直に言えば面倒だが、金髪のあいつから“やってくれないか”と頼まれたならば従うのみだ。
俺のそういう点は前世からさして変わっていない。
そう思ったとき、苦笑いが浮かぶ。
愛飲するものがコーヒーになった以外は、俺だって何も変化せずに現世を生きているのかもしれないな、と。
この世界で出会う戦友は前の世界からそっくりそのまま越してきたのかと思ったりするものだが、よく考えたら人のことは言えなかった。
「さっそく新人を紹介しよう。」
一際大きく張り上げた部長の声で、今が朝礼中だったことを思い出す。
後ろの壁際に立っていた若者たちが前にゾロゾロとやってきて一列に並んだ。
いつものオフィスがそこはかとなくフレッシュな空気をまとう。
なんとなくその顔ぶれを見渡したときだった。
「!!」
一瞬、息をすることを忘れた。
男ばかりの顔ぶれのなか、向かって左から2番目に立ち、真新しい濃いグレーのスーツに真っ白なシャツを覗かせ、緊張で頬を高揚させた、その女。
目をしばたかせ、視線だけでオフィスのあちこちを見渡しながら体の前で両の指を絡ませている。
彼女に視線が釘付けになった。
見覚えがある、だけでは片づけられない感覚に体がこわばった。
俺は知っている。
これは、前世と紐づけられる前触れだということを。
しかもかなり強烈なやつだ。
左の男が簡単な自己紹介と挨拶を終わらせて拍手が起こり、次は彼女の番。
部長から促され、ぴしっと背筋を伸ばした。
「は、はい!〜〜〜です。この〜〜〜〜〜〜して〜〜〜〜〜〜ますので、今日から〜〜〜〜〜〜ます。」
言葉が頭に入ってこない。
俺はただ、緊張した面持ちで自己紹介するその新入社員の顔を凝視していた。
どくどくと心臓が暴れている。
無意識に握り込んでいた拳に汗がにじんだ。
あいつは。
あいつは、俺の……。
駄目だ。
その先が思い出せない。
後頭部にチリチリと映像がちらつく。
姿を見ただけではまだ不鮮明だ。
だが、前世の俺にとって大きな存在であることは直感的に分かった。
話がしたい。
一刻も早く。
お辞儀をした彼女への拍手が始まったのでつられるようにして手を叩けば、順番は隣の新入社員へ移った。
心ばかりが急いていることに気づいて、俺は頭をかすかに振る。
少し冷静になるべきだ。
“今年の企画部の新入女子社員は一名だけなんだが、その子をお前に頼みたい。”
青い瞳で真っ直ぐに見つめてくる金髪の言葉を思い出す。
あの新人の教育係は、俺だった。
**
跳ねる心臓を深呼吸してなだめ、朝礼が終わったタイミングで俺は同期と会話している彼女のもとへ向かう。
「新人。今日から俺がお前の教育係だ。」
彼女が振り向き、目と目が合った瞬間、なぜか息が詰まりそうになる。
同時に頭の中でチリチリと細く黒い帯のようなものが揺らぎ、目の前に現れた笑顔と同じ顔がぱっと浮かんだ。
映像の中の彼女は、やはり団服姿だった。
俺の部下だったのだろうか。
「あ、よろしくお願いします!」
『兵長!今日から補佐を務めさせていただく、ユフィといいます。よろしくお願いします!』
同じ声が、こだまする。
「『早く仕事を覚えてお役に立てるように頑張ります!』」
ユフィ。
そうだ、こいつの前世の名は、ユフィ。
脳裏に浮かび上がってきた名前をずいぶん懐かしく感じた。
驚きと喜びが混ざったような感情がつんと喉まで突き上げる。
「あぁ、よろしく。先に言っておくが俺は厳しいからな。」
俺はまともな顔で対応できているだろうか。
なんせ今までになく高ぶっている。
『兵長、紅茶を淹れましたよ。ここ、置いときますね。』
『兵長、それ私も手伝います!』
次々と起こるフラッシュバック。
目の前の男にそんな現象が起こっていることなど知る由もない彼女は、少しの緊張を含む気概に満ちた表情で、またぴしっと背筋を伸ばした。
「はい、お話は伺っています。それに仕事の早さと正確さは企画部最強だとか。そんな方に付いてもらえて嬉しいです!」
「熱意はあるようだな。さっそく仕事に取り掛かるぞ。」
彼女のデスクに移動してデスクトップPCを起動させ、まずは業務に関わる作業の説明をすることにした。
時系列をなぞるようにリプレイが流れ続けるなか、そしらぬ顔で教育係の役目をこなしている自分を我ながら褒めてやりたかった。
これも今までの経験の賜物だ。
『兵長、おはようございます!さっき団長とすれ違って伝言を頼まれました。あとで執務室に来るようにとのことです。』
『兵長、お疲れ様です。今日の書類の量には驚きましたねぇ。』
凛とした声が、脳内に反響している。
思い出す彼女はいつも笑顔だった。
映像が進むにつれ、その声にだんだんと親密みが帯びてくる。
夕日の射す執務室に佇むユフィは、先ほどの朝礼で挨拶したときよりも濃く頬を染めていた。
その瞳は真剣だったが、どこか頼りなさげだ。
『兵長は……恋人とか、いらっしゃるんですか?』
ぎゅっと、切なく胸を締め付けられるような感覚が芽生えた。
記憶の中のユフィはさっと目を伏せる。
『すいません、変なこと聞きましたね……。』
思い出した。
俺は、そう、手にしたかった。
自分だけのものにしたかった。
つやつやしている唇。
やわらかそうな髪。
白くなめらかな肌。
ほんのりと赤い頬。
そのすべてを。
だから。
『兵長……、私もあなたのことが好きです……。』
照れて嬉しそうにはにかむユフィを、映像内の俺は引き寄せる。
パズルのピースが一致したように、記憶は俺の心にぱちりとはまった。
PCに向かう彼女の後ろで悟られぬよう、音を立てずに大きく吐いた息はやけに熱っぽい。
心臓の窮屈さは和らぐどころか一層甘い切なさをはらんでくる。
唇はしっとりと弾力があり。
髪はやわらかく繊細で。
肌は白くすべやか。
頬はじんわりと熱い。
それらの感触を俺は一つ一つ思い出した。
ユフィ。
ユフィ。
俺のユフィ。
前世の恋人。
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