サマーカントリーロード 3
「君、この店のバイト?へえー、それは知らなかったなあ。こんな辺鄙な場所に収まるには勿体ないよ。うちの店で働かない?東京で数件レストランやってるんだけど。」
その男のつらつらとした突拍子もない言葉に、私はポカンとした顔をしてしまった。
手慣れた様子で名刺を渡される。
高そうな厚い紙に、かしこまった明朝体で“株式会社TPG 代表取締役 ジーク・イェーガー”と印字されていた。
「レストランの経営をなさってるんですか。」
「そうそう。将来的にエレンにも協力してもらいたいと思って、たまにこうやってラブコールしに来てるんだけどさあ。なかなか聞く耳もってくれないんだよね。あ、エレンは俺の腹違いの弟なんだけど。」
ジークさんはクラシックな丸眼鏡を指で押し上げながら、いつもの面子でテーブルを囲んでいるエレンを見やる。
エレンのお兄さんだったのかと驚いていると、ガンと硬い音がして、私たちが立っているそばのカウンターにアイスティーのグラスが荒々しく置かれた。
顔の影をたいそう濃くしたリヴァイさんだ。
「辺鄙な場所で悪かったな。」
「おーこわ。いつも言ってるけどコーヒーの一つくらい置いといたほうがいいよ。」
ジークさんは肩をすくめながらリヴァイさんを睨む。
リヴァイさんも「俺はコーヒーが嫌いだと何度言えば分かる?」と凄んで睨み返す。
「まあまあ……。」
この二人、あまり、いやかなり仲がよろしくないようだ。
険悪なオーラに挟まれて居心地が悪い。
「やだやだ。これだから頭の硬い田舎男は。バイトちゃん、考えといて。東京の高級志向のフレンチレストラン。残業なし。福利厚生も充実。美味しいまかない付き。超ホワイトだから。」
人差し指を立ててそう言ってから、アイスティーを持ったジークさんはバイブ音を響かせるスマホをポケットから取り出し、端の席で何やら部下に指示を出すような通話をし始めたのだった。
後で聞いたのだが、リヴァイさん曰く、ジークさんは彼にとって「徹底的に馬が合わない人間」だとのことだ。
顔を合わせるたびに威嚇し合っているらしい。
そしてそのジークさんは、次の日から連日坂の上へやってきた。
エレンが来ていない時間にも現れた。
そして頻繁にかかってくる電話に対応しつつ、積極的に話しかけてくる。
自分の元で働くメリットだとか、経営している店がいかに飲食業界のトレンドに乗っているのかだとかを雑談に織り交ぜて語ってくるのだ。
どうやら本格的に口説かれているらしい。
天敵が毎日顔を見せにくるものだから、その間リヴァイさんはすこぶる機嫌が悪かった。
そうしてジークさんが現れた3日目の夕方、店仕舞いの作業をしているときだった。
「やっぱり東京って華やかですよね。ジークさんの話を聞いてたら、なんだかあの人のお店に食べに行ってみたくなっちゃいました。」
コップを拭きながら、何気なくこぼした言葉。
ここのところ東京の魅力をずっと耳に浴びせかけられていて、彼の地の良い面が私の中で際立ってきていたのだ。
「なら戻るか?都会に。」
それに対して、リヴァイさんが強く反応した。
どうやら敵サイドを褒め過ぎてしまったらしい。
のれんを取り込んだ彼は私を睨むように見やった。
「田舎にはもう飽きたのか。」
その声は苛立ちを含んでいて、私の体は緊張し、強張る。
「あいつの気取った店で働きたいならそう言え。」
「違います!そんなこと……!」
誤解されたことに焦ってやや大きな声を上げると、リヴァイさんは自分の発言を客観視したのか「悪い、あの猿野郎が来るとイラついてしょうがねえ」と苦虫を噛み潰したような顔をし、その後は二人して無言で閉店作業をした。
ジークさんのお店で働きたいなんて、これっぽっちも思わない。
私はこの坂の上のような自然豊かな土地で働きたい。
できれば、リヴァイさんと共に。
エレンのお兄さんの出現は、私の想いを一層くっきりと浮かび上がらせたのだった。
その夜。
布団を敷いて寝る準備をしていると、カフェスペースのほうから物音が聞こえた。
擦りガラスの引き戸を開けてそちらを伺うと、プライベートスペースとカフェとを区切るのれんの向こうから、ぼんやりと灯りが漏れていた。
「まだ起きてたのか。」
リヴァイさんはキッチンに立ち、水を汲んで飲んでいたようだ。
私の姿に気付くと、テーブルへ軽く顎をしゃくった。
「ちょうどいい。座れ。」
心がざわりと波立つ。
わざわざ座って話さなければならない話題。
そんなの面白おかしい雑談であるずがない。
重い内容に決まっている。
身構えながら、対面に座った。
「切っちまった右手はほぼ治った。もうこき使っても問題ねぇだろ。」
テーブルに置かれた彼の手に包帯はない。
代わりに、怪我した箇所がかさぶたになって指に残っている。
「これでバイト期間は終わりだ。お前が手伝ってくれたお陰で店は回せた。感謝している。」
どこか感情を抑えた表情と声でリヴァイさんは言う。
ついに、出会った当初に決めた期限が来てしまったのだ。
「……嫌です。帰りたくない。」
私の強い物言いに、少し驚いた顔をした彼。
「リヴァイさんが好きだから。」
そのときが来たら、素直にぶつけようと決めていたこの想い。
昨日まではいつでも言えるくらいの気持ちでいたのに、今は少し、怖かった。
ジークさんの話題で気まずくなった件があってから、告白するにはまだ機が熟していないのではないかと感じていたからだ。
でもここで引くわけにはいかない。
「……お前の言う好きってのは、」
「ライクの意味じゃなくて、男性として好き。恋人になりたい。です。一緒に働くうちにどんどん好きになりました。」
食い気味に答える。
彼は戸惑いをにじませ、そして視線をテーブルに落とした。
「俺は心の狭い男だ。自分が思っていた以上にな。なんせお前が猿野郎と話しているだけで──」
そこまで言って、息を飲んだような気配を見せたリヴァイさん。
「──嫉妬、する。」
嫉妬。
その心持ちを初めて認識した様子だった。
私も彼はジークさんの存在に対して苛立っていると思っていたので、その予想外の打ち明けにどきりとする。
まさか、そんなふうに私のことで胸の内をかき乱してくれていた、だなんて。
心身がぴりりと緊張してくる。
昼間のような不穏な張り詰めではなく、今度は甘酸っぱさを伴って。
リヴァイさんは私の部屋で一緒にテレビを見た夜のようにテーブルをあてどもなく撫でながら、慎重そうに口を開いた。
「そういう嫉妬深い男でも、いいのか。」
迷いなく、深く頷く。
しかし相手の顔はまだ渋さを残している。
「俺もお前と過ごすこの日々がずっと続けばいいと思い始めていた。だがここでの商売は不安定だ。いつか苦労をさせるかもしれねえ。ジークに同意するのも癪だが、ここにとどまってるより──」
「生半可な気持ちで仕事を辞めたんじゃありません。リヴァイさんもそうでしょう?」
あなただって、会社に頼らず全責任を自分で負う覚悟を持ってやって来たはず。
きっぱりと伝えると、ようやく引っかかりが取れたらしいリヴァイさん。
眉間のしわをいつも通りの加減に緩めてくれた。
「あぁ、そうだ。……そうだよな。」
視線が合って、どちらともなく微笑んだ。
「改めて、これからもよろしく頼む。」
「はい。こちらこそよろしくお願いします。」
そうして二人して頭をぺこりと下げたのだった。
さて、明日も早い。
恋人となった直後の照れ臭い雰囲気を切り替えるように、「寝るか」とリヴァイさんが切り出す。
各自の部屋に戻ろうと、席を立った。
私は自分の和室の戸を開け、リヴァイさんを振り返る。
「一緒に寝ます?」
「お前、そういうところあるよな。」
照れたように眉をしかめた彼が、愛おしい。
「今夜はやめておく。襲わねぇ自信がない。用意もしてないしな。」
用意とは察するに、避妊具のことだろう。
私だって持ってきてない。
それでもいいと勢いづくほど、若くもない。
ちょっとすねたふうに「はーい」と返事をしたら、リヴァイさんはやさしく目を細める初めて見た顔をして、一歩こちらへ歩み寄った。
それから首筋に手を滑らせ、唇を重ねてくれた。
「寝坊するなよ。」
顔が熱くなるのを感じながら頷くと、彼は私の頭をぽんぽんと撫でて2階へ上がっていった。
初秋のしんとすずしい古民家の、胸があたたかく高鳴る夜のことだった。
***
やがて、カフェスペースに石油ストーブを置く季節になった。
相変わらず中学生たちは坂の上をたまり場にしているし、年配のお客さんは「結婚はいつ?」と気の早い質問をしてくるし、地元の行事の手伝いもあるしで、なんやかんやと忙しく暦をなぞっている。
そして坂の上が定休日の、とある晩。
私たちはリヴァイさんの部屋にある布団の中で夜の営みを終え、天井から吊られた裸電球の灯りをぼんやりと見上げながら寝そべって余韻を感じていた。
「明日はエレンたちが栗拾いの成果を持ってくる。俺に料理してほしいらしい。」
思い出したように、やや眠たげな声でリヴァイさんが言った。
「栗かあ。いいな。何にするの?」
「状態にもよるが……渋皮煮にでもするか。」
「それ絶対美味しい。そういえば私も山奥に住んでた頃、秋には栗拾いしたなあ。」
紅葉、拾ったイガの手触り、茶色のつやつやを茹でる母と祖母の背中。
ふいによみがえった記憶だ。
懐かしくなってリヴァイさんに伝えると、彼はこちらを半目でじっと見つめてきた。
どうしたのだろうと思って、私も見つめ返す。
「ここをお前の新しい地元にしたらいい。故郷は一つだけと決まってるわけじゃねえだろ。」
「それってプロポーズみたい。」
「……まあ、そういう捉え方も悪くない。」
私の体をゆたんぽ代わりにぎゅっと抱き寄せる彼は、すっかりまどろんでいた。
田舎を追われた日から探していた。
そして社畜をやめたことを節目に、出会うことができた。
自分が、心を落ちつけられる場所。
そこは自然豊か田な土地であり、お節介な顔馴染みの人々がいるコミュニティーであり、彼の懐だった。
私はそれらのぬくもりと共に、生きていく。
そう。
夏の炎天下に登った坂道は、新しいカントリーロードへ続く道だったのだ。
end.
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