夏の終わり
毎年恒例、ミンミンゼミの大合唱。
けたたましいその鳴き声は、あいつが帰国する時期が来たのだと気づかせてくれる。
夏は苦手だ。
何もやる気が起きなくなるし、近年の30度を越える気温はじっとしていても体力を奪っていく。
それなのに、あいつはわざわざこの季節に帰ってくる。
「夏のこの家が居心地よくて」と笑う横顔を眺めたあの日は何年前だったか。
片手の指では足りないほど、共に夏を過ごしてきた。
穏やかで、静かな、一定の関係を保ちながら。
ガキの頃に会ったきりで死んでしまった叔父は、俺に避暑地の別荘を残した。
フリーランスのライターの仕事場は、電源とwi-fiが取れさえすればどこでもいい。
だから7月と8月はもっぱら別荘で過ごすことにしている。
大学からの付き合いであるユフィがある夏に面白半分でついてきて、それ以来あいつは毎年ここにやって来る。
結婚もしていなかったらしい叔父がどんな意図で購入したのかは知らないが、この建物は木造二階建てだ。
したがって部屋は無駄にあるから(大人ふたりが生活したってまだ空き部屋がある)、プライベートはきちんと守られている。
要は期間限定のシェアハウスだ。
「久しぶり!暑いねえ。」
駅へ車で迎えに行けば、巨大なスーツケースをゴロゴロ転がしながらユフィが手を振ってきた。
「今年もお世話になります。」
嬉しそうにさらっと笑うユフィ。
もう10年以上も顔を合わせているが、年を取った印象はあまりない。
落ち着いた性格を持っている反面、いつも瞳の奥に好奇心という光を灯らせていて、いつも何かに夢中だ。
「仕事はどうだ。」
「うん、相変わらず。今年はようやくタンザニアの研究所と合同でチンプの研究に乗り出せそう。マハレの国立公園がまたいいところでね、」
チンプとはチンパンジーのことだ。
毎回仕事の調子を聞くのが恒例で、サルに興味のない俺でもそれぐらいは覚えた。
ユフィは類人猿の研究をしている。
「リヴァイは?」
「俺も相変わらずだ。」
「そっか。良かった。」
車は木漏れ日の落ちた坂道を登る。
全開にした窓から、気持ち良さそうに頭を傾けるユフィの髪がなびいていた。
別荘で何をするのかといえば、もちろん俺は主に仕事で、一方のユフィは自由(俺はこのざっくりした言葉がこいつにぴったりだと思う)にしている。
部屋にこもって論文を書いている日もあるし、ふらりと出掛けたかと思えば駅前のマルシェで食材を買い混んで手の込んだ料理を作りだす日もある。
ソファーでうたた寝するときもあれば、玄関前にある庭のような場所の草抜きをすることもある。
あとはリビングで本を読んだり、近所を散歩したり、気まぐれな猫のような生活をするユフィを横目に、俺はダイニングテーブルでキーボードを叩く。
隣で昼間からビールを開けられたときはつられて飲んでしまうこともしばしばだ。
そんなときはもう仕事にならないから、だらだらテレビを観たりして過ごす。
基本的に食事は一緒にとった。
曜日で当番を決め、時にはユフィの作るエキゾチックな料理を食べ、時には俺の用意した鮭の塩焼きをユフィは有り難がった。
家事はそれぞれが得意なことをやることにしている。
共用スペースの掃除は俺、洗濯はユフィ、風呂の準備は俺、買い出しはユフィ、そんな具合だ。
一般的なシェアハウスは個々が別々に食事や家事をするのだろうが、「まとめてやった方が早い」と最初に話し合ったときに二人の考えは一致し、これで落ち着いた。
その暮らし方は、まるで同棲している恋人同士に見えるかもしれない。
しかし俺たちは付き合ってすらいない。
もうこれが普通だ。
毎年、毎年、こうしてきた。
人の気配のする一つ屋根の下で、同居人のささやかな生活音を感じながら夏を過ごしてきた。
様々な虫の鳴き声を聞き、土と木々の香りで呼吸し、過ごしやすい冷涼な気温で寝起きしてきた。
そして今年も、当たり前のように俺たちはそうするのだ。
やってきたユフィは初日こそ浮き足立つ雰囲気を出していたが、いつも通りすぐこの家に馴染んだ。
そしてこいつが馴染んだときの部屋の空気を感じることで、俺もようやく腰を落ち着けるような気持ちになるのだった。
3日が経った。
今年のユフィは部屋に引きこもりがちだ。
書かなければならない論文が溜まっているらしい。
それからまた3日が経った夜、やつれぎみな表情の同居人が自分の部屋からヨボヨボと出てきて「全部終わった……飲みたい……」とつぶやく。
付き合うことにした。
開けたのは、ユフィが去年にマルシェで買ったワイン。
晩飯中や食後に自分が買ってきたワインを床下収納から引っぱり出してくることの多いユフィだが、今年は今日が初めてだ。
ナッツをつまみながら「お互い、いい年になってきたな」、なんて話をした。
俺もユフィも今年で30半ばだ。
周りは結婚して落ち着いてくる頃だが、こいつは一向に浮いた話をしてこない。
まあ、それは俺もしかり、だが。
ワインのボトルが残り少なくなった頃。
疲れた体には毒だ、あまり飲み過ぎない方がいい、そう注意しようと思い始める。
なんせ人間ってのは、案外脆い。
破天荒な印象だった叔父でさえ、驚くほど呆気なく逝ってしまうくらいだから。
そのときだった。
「ボノボの社会はね、完全なるフリーセックスで成り立ってるの。」
突如、そう言ったユフィ。
開きかけた唇を、思わず閉ざす。
「繁殖相手に困ることがないから、他のサルと違って争いが一切ない。とても穏やか。」
ダイニングテーブルを挟んだ向かいでユフィはグラスの赤を悪戯に遊ばせる。
こいつの意図することを掴めないまま、カシューナッツを奥歯で噛み砕いた。
網戸の外から鈴虫の奏でる音がやけにはっきりと聞こえてくる。
「ときどき苦しくなる。人間が取り決めたしきたりの中で生きることにね。しきたりを作るから争いも生まれる。人間も、ボノボくらい自由でいられたらいいのに。」
「なんでもかんでも、人間はややこしくすることが好きだからな。」
小さな微笑みをたたえながら、そうだね、とつぶやいてユフィは俺を見た。
「野生動物は知れば知るほど面白い。でもね、一見複雑な生態を持っていても、根本はみんな単純なの。それは人間も同じ。シンプルな本能に従って生存し、子孫を残す。」
それだけ、と意味ありげに唇を動かすそいつの瞳が、やはり意味を持っているように瞬きした。
いつも好奇心にきらめいている虹彩は、夜霧を受けたように今は濡れていて。
気を抜くとその中に吸い込まれそうだった。
俺はユフィから視線を反らす。
このまま見つめあっていたら、その先まで迷い込んでしまったら、もうこいつは別荘へ来なくなるだろう、そんな気がしたからだ。
「酔いが回った。俺は寝る。お前ももう寝ろ。」
立ち上がり、シンクにグラスを置けば「おやすみ」とささやくような声が背中にかけられたのだった。
2階の自分の部屋へ戻ってベッドへ寝そべり、木目の天井を見つめた。
そのうち意識が途切れて眠りに落ち、そしてはたと目が覚めた。
スマホを見ると午前0時過ぎだった。
1時間ほど寝ていたようだ。
喉の乾きを覚えて下の階に向かうと、リビングにはまだ明かりがついている。
ユフィはソファーに寝転び、頬を赤くして寝息を立てていた。
「まさかあっちで尻軽みてえな生活してんじゃないだろうな。」
つぶやきながらブランケットをぱさりとかけてやる。
避暑地の夏の夜は、たまに寒いくらいに冷えるのだ。
昔から一般常識の枠にはまらない雰囲気を持っている、馴染みの彼女。
ほのかに生き辛さを感じていることはなんとなく知っていた。
しかし自分のかける言葉がこいつを図らずも縛ってしまう気がして、俺はただ別荘に迎え入れることしか、できずにいる。
言いたいことが昔はあった。
それがいつしか取るに足らないことに思えて、やがて思考の奥底に置き去りにした。
そうすることが正解なのかも、分からないまま。
「難儀だな。お互い。」
うっすら開いたその薄桃色の唇に、かがみ込んで自分の唇を押し付けた。
生あたたかく、弾力があり、それでいて乾いた粘膜が触れ合った。
そして俺は水で喉を潤し、再び自分の部屋へ戻って眠りについた。
家の外ではまだ鈴虫が細く鳴いていた。
8月の下旬。
例年通り、ユフィは日本を発つ。
論文に追われる日々を抜け出してからの彼女は、いつもの気まぐれな避暑地生活を復活させた。
まるであの夜のことなど存在しなかったように、穏やかに軽やかに暮らすことを楽しんでいた。
それを見ながら、俺も普段通りに仕事をした。
駅の近くにある林からは、一匹のヒグラシの鳴き声がしていた。
ロータリーへ停車すると、スーツケースを降ろした彼女は助手席の窓から運転席を覗き込んでくる。
一瞬だけ迷う素振りを見せてから「あのさ」と前置きした。
「来年も帰ってきたら、また来てもいい?」
俺は思わず笑っていた。
そんな顔をするな、ユフィ。
「お前が来なかったら誰が庭の草抜きするんだ。」
車は木漏れ日の落ちた坂道を登る。
全開にした窓から、だいぶ涼しくなった風が入ってきた。
こうして、彼女は夏をたずさえて去っていったのだった。
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