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BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」
- ナノ -
ベッドの上のダイアローグ1



寒さが和らいできた春先のことだった。

「リヴァイ、イーグラント卿にご挨拶を。」

とある夜会で紹介されたのは、シーナ北部に屋敷を構える貴族の男。
恰幅がよく、ナスのヘタのような栗色の髪をオイルで撫で付けている。

「お会いできて光栄ですぞ。」

酒で顔を赤くしたイーグラント卿は、こっちがまったく声を発さなくても問題ないほどよく口を動かした。
話を聞いていると、どうやら調査兵団支持派の人間らしい。
しかし隙あらば自慢話を差し込んでくるあたり、あくまでも根は貴族、だ。
イーグラント卿が唾を飛ばしながら己の過去の功績を語っていたとき、その背後から突然ひょっこりと人間が姿を現した。
一瞬、子どもに見えたが、それは男との体格差がありすぎるせいで、よく見ると二十歳前の小柄な女だった。

「おぉ、ユフィ!お前の好きなチェリーパイはあったかね?」

「なかったわ、父さま。」

それは半径1メートル程度までしか届かなさそうな声だった。
「リンデル殿には今度から用意していただくように伝えておかねばな!」そう豪快に笑ってからイーグラント卿はその女を娘だと紹介した。

ユフィ・イーグラント。
彼女の名前だ。
父親と同じ栗色の髪の上半分を頭の後ろでまとめ、父親とは似ても似つかない細身な体格をしていた。
ぱちりと視線が交わうと彼女はびっくりしたように瞬きし、そして伏し目になった。
ユフィと大した会話は生まれないまま、俺たちはまた自慢話に耳を傾けるはめになった。
そしてその日に彼女の姿を見たのは、バルコニーで外を眺める姿を視界の端に捉えた、帰り際のただそれきりだった。

「あの娘が気に入ったか?」

本部への帰り道、馬車の中でエルヴィンがふいに言った。
奴曰く俺が「彼女に会ってから気もそぞろになっている」らしい。
目から鱗が落ちた気分だった。
会場でやけにその存在が気になるのは、姿を目で追ってしまうのは、彼女を“気に入った”からだというのだ。
人生の大半を生き延びることだけを考えて過ごし、その後は巨人を絶滅させることのみを目的としてきた俺の、初めての体験だった。
しかし、脳内で瞬時に判断が降りる。
愛や恋といった類いのものは、俺には必要ない。
この俺が女と温和な関係を築く想像ができないし、毎日が調査兵団で手一杯なのだ。
色恋に割くエネルギーはまったく持ち合わせていない。
したがって、自覚したならば、あとは切り捨てるのみ。

「臭いに少し酔っただけだ。香水が混ざってひどいもんだった。」



***



半年の月日が経った。

まさか、こんなことが起こるとは思ってもみなかった。
人生とは何が起こるか分からないものだ。

与えられた部屋でシャワーを浴び、身支度をした。
ドアノブを引き、大理石の廊下を踏みしめる。
革靴がコツ、とかしこまった音を出した。
廊下の灯りはすでに消されており、手に持つランプだけが周りを照らす。
少し掲げてみると、俺には価値のさっぱり分からない彫刻や絵画がその存在をあらわにした。
半裸の男の真っ白な像は今にも動き出しそうな不気味さを醸し出している。

目指す部屋は、中庭の反対側だ。

建物の中を回り込んで行くのが普通なのだろうが、俺は庭へ出た。
月明かりがバラ園を静かに包んでいる。
ひやりとした空気が心地いい。
ふと、わざわざ外へ出た自分を笑ってしまいそうになった。
俺は緊張しているらしい。
壁外でも常に冷静さを保つことのできる、この俺が。

汚れのない白い石畳はほどなくして終わってしまった。
本来の俺にとっては気持ちのいい小綺麗さであったが、その白さが今は居心地が悪い。
重い扉を開けて再び屋内に入る。
数歩歩けば、もうそこは目的の場所だ。

ドアの前に立ったとき、一カ月前に聞いたエルヴィンの言葉を思い出した。

「シーナのとある貴族から、お前に見合いの話がきた。」

団長執務室で奴に告げられたとき、ついにきたか、そう思った。
これは政略結婚の持ちかけだ。
貴族の間ではさほど珍しくないこの風習に、兵団の幹部が起用されることがしばしばある。
調査兵団に入ってから仕事柄、政治的な策略、根回し、パフォーマンス、その他のあれやこれやを垣間見てきた。
だからこういう日がいつかくることも自然と覚悟していた。
なんとなく、この世界の網の目に組み込まれる気がしていたのだ。
兵団お抱えの人類最強の駒は、政治的に使わない手はない。
そうだろう、エルヴィン。

「それが兵団のためになるなら、受けてやる。」

空中の細かな埃が日光を受けてきらめく様子を鬱陶しく感じながら、俺は返事をした。
政略結婚の目的はコネクションだ。
一般的な“夫”として結婚生活を過ごすことまでは強いられまい。
「分かった」と口にするエルヴィンの青い目を見たときに脳裏をちらついたものは、夜風にたなびくやわらかな栗色の髪だった。
俺は意識的にその景色を遮断した。
必要ないものだ。
土と血で汚れた男には、必要ない。

そうやって頭の中から切り捨てたはずの女が、今、この部屋にいる。
あろうことかイーグラント卿がこの話を持ってきてしまったのだ。

部屋に入ってすぐの場所に置かれたついたての奥では、火の灯りがぼんやりとゆらめいて部屋を照らしている。
当たり前だがひっそりと人の気配も感じた。
急に暑くなって、肌にぴったり張り付いている右袖のボタンに手をかけた。
ため息をつきたいのをぐっとこらえ、手首をくつろげながら、俺は口を開く。

「……あんなところに林檎の木がある。」

なるべく無感情を心がけたその言葉を、ついたての向こうへ放った。
すると一拍おいて──

「……は、はい、あります。」

控えめで、不安げにも聞こえる返事が返ってきた。
しかしその声はどこまでも澄んでいて、耳から入って俺の心臓までをゆったり撫でていくような心地よさを持っていた。

この問答は、俺があまりの緊張でトンチンカンなことを口走ったわけではなく、向こうも空気を読んで応えたわけでもない。
地方の貴族特有のならわしなのだという。
よく知らない人間と結婚することが多い貴族の初夜は、こういった文句のやりとりをすることでぎこちなさを緩和するらしい。
エルヴィンの野郎から叩き込まれた訳だが、本当に効果があるのだろうか。

「私が上がってちぎってもよろしいか。」

“ちぎる”は“契る”にかけているのか?
昔の貴族はうまいことを考えたものだ。
そんな余計なことを考えていると、またか細い返事が返ってきた。

「……はい。どうぞ、ちぎってください。」

「それなら、ちぎらせてもらう。」

またもや重い息を飲み込み、俺は自分のランプの火を吹き消した。
そして、ついたてからその空間へ踏み出した。

そこには男が4人は寝られそうな広さの天蓋付きベッドがあり、真っ白なシーツの上に小柄な女──ユフィが座っていた。

ユフィと目が合った。
瞬間、心臓が変に脈を打つ。
相手はさっと視線を伏せた。
それを見たら今度は胃が縮むような気がした。

勘弁してくれ、こういうことはからっきしだ。
女の機嫌の取り方などさっぱり分からない。
相手も縮こまっている。
明らかに、さっきの問答は意味をなしていない。
クソが。

突っ立っているのも情けないので、とりあえず俺はベッドへ近づき、その隅に腰かけた。
訪れたのは、やはり、沈黙。

「……なぁ。」

「は、はい!」

弾かれたように返事をするユフィはガチガチに緊張しているようだ。
箱入り娘なのだろうから、当然か。
こういうことをしたことは一度もないのだろう。
うつむくその顔を眺めた。

「お前はこっちを見たがらないな。」

「す、すみません……!」

「俺が怖いか?」

視線が上目ぎみにこっちを見、また膝へ落ちた。
そして一度も荒立てたことのなさそうな、混じりけのない凛とした声が鼓膜を震わせた。

「お顔が……少し……。その、いつも眉間にしわが寄っていますので……。」

「…………。」

眉間のしわについてはほぼデフォルトと言ってもいい。
デフォルトの状態の俺を相手は怖がっている訳だ。
ここで悟った。
やはりいきなりベッドを共にするのは無謀過ぎる。
見てみろ、この色っぽい雰囲気など微塵も感じない空気と二人の距離感を。

「なぁユフィ。今ここで事を急いても仕方ねえ、そう思わねえか?」

「はい?」

「結婚の儀式の夜に初夜という流れは昔からの風習らしいが、当事者なりのペースがあるってもんだろ。それに床入りの見張り役がいないあたり、一昔前よりは厳しくねぇはずだ。焦らずこれからお互いを知っていけばいい。時間が経つにつれて自然と夫婦らしくなるだろ。」

つらつらと出てきた自分の言葉に違和感を覚える。
結婚したからといってこの屋敷へこまめに足を運べるとは限らない。
今まで通り調査兵団で仕事をするなら、夫婦らしくなるのは一体いつになるのだろうか。

彼女はぽかんとした顔をして、やっとこっちをまともに見た。

「今夜は少し、話をしたい。」


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