本当なら約束に間に合ったはずだ。

 俺が間に合わなかったのはヘパイストスの所為だ。
 母上の邸に向かう手前で、同じくそちらに行こうとしていた兄・ヘパイストスの後ろ姿が見えたので声を掛けた。まぁ別に愛想のいい笑顔を期待した訳じゃない。それが何日か振りの再会であっても、俺に対して殆ど感情の揺れ幅を割り振っていないのは重々に承知している。少しくらい微笑ってくれてもいいじゃないかと思わないではないが、期待していた訳じゃない。だからと言って俺[ひと]の顔を見た途端に眉を顰められると、こっちだって気分が悪い。

「何だよ」
「お前こそ何? そんな恰好で母上の処へ行くつもりなの?」

 そんな恰好ったって。俺はいたって普段通りの恰好だ。強いて言えば戦場帰りなので返り血は浴びたが粗方洗い流している。俺だってべとべとするしそのままは不快だ。
 ヘパイストスは不機嫌そうに溜め息を吐いた。そして俺の腕を掴み歩きだす。母上の邸とは逆方向へ。

「おい!?」
「……あ、エイレイテュイア? 今日のお茶会、すまないけれど少し遅れる。…うん。ちょっと仕事が増えた。……ああ大丈夫。そんなには遅れないよ。…うん。じゃあ母上とヘーベにも宜しく伝えておいて。うん…有難う」

 ヘパイストスは右手に俺を捉え、空いた左手でケータイを操作してさくさくとエイレイテュイアに連絡を終えた。
 全く無駄のない動作。俺が何か言う暇もない。

「っておい! 仕事って」
「煩い。仕事を増やさないでくれる? ほらさっさと歩く」
「後ろ向きにそんな速く歩けるか!」


 悲しいかな、俺はというとどんなに兄が理不尽であっても従ってしまう。いや、抵抗もするし、嫌だとも言う。だがそれだけだ。ここ暫く、何十年かもしれないが、とにかく逆らいきった記憶がない。
 だが僅かに残った意地で、何故、と問いを発す。

「なぁ、何であんたん家の風呂場連れられて来なきゃいけないんだよ」
「お前は浴室で食事をするとでも思っているの?」

 質問を質問で返すなよ。
 今度は逆に俺がヘパイストスを引き寄せて、顎に手を添える。

「ふーん、じゃあヤるのかよ」
「……馬鹿か」

 脱衣所で立ち呆けてする問答ではないと切って捨てるような声音と目の色なのに、手を振り払おうとはしないヘパイストスに俺は思わず笑った。

「馬鹿言ってないで早く脱ぐ。それとも脱がせて欲しいの?」
「ん? 脱がせてくれるの、お兄様?」
「ああ、お前がそうせがむなら仕方ない。ただ私は器用じゃないからうっかり破ったり乱暴な脱がせ方をしてしまうかもしれないね」
「………この服、俺のお気に入りだって知ってそんなこと言ってるだろ」
「おや、いつも遠回しに言っても気付かないのに、今回は気づいたか。進歩したね、アレス」
「馬鹿にしやがって。全部が全部嘘なら気付くもくそもねぇよ」
「じゃあ、早く脱げ」
「はいはい」

 言いながら既に上半身は脱ぎ終わって、ベルトに手を掛けたところだ。勿論ヘパイストスは全部脱ぐはずもなく、上着だけ脱いで俺を待っているらしかった。

「恥ずかしい」
「ああそう」
「俺だけ脱ぐのは恥ずかしいんだけど」
「私は別に恥ずかしくない。気にしなくていいから全部脱ぎなよ」

 おかしい。これシチュエーションだけならなかなかいいのに全然楽しくない。口の中で呟いて、ヘパイストスが手を差し出すので脱いだズボンも靴下も他のも全部渡した。ヘパイストスは足元の篭にそれを放り込む。はたと目が合った。無言で促されて先に浴室に向かう。

 ドアを開けてひやりとしたタイルを踏む。そのタイルが淡いピンク色だったり、今は空のバスタブの足が真鍮製の猫足だったり、無駄にシャンデリアっぽい照明があるのは完全にアプロディテの趣味だ。彼女が今ここにいないという現実に何だか溜め息が出てしまう。
 がちゃと入り口の閉まる音。振り替えると先程と変わらない土足もそのままにヘパイストスが立っていた。

「なぁ。俺自分ひとりで入れるぜ。何であんたまで服着たまま入ってきてんだよ」
「お前、雑だもの」

 たった一言で言って捨てられた。何だそれは。何なんだ。ヘーベはたまに気を使ってそんなことをしてくれるが、だからってヘパイストスだろ。侍女よろしく湯浴みを手伝おうっていうのかよ。なんだろう嬉しいとか思ってしまう自分が嫌だ。
 そして何で頭を撫でるんだあんたは。

「……何でお前笑ってるの」
「うるせぇ」

 あ、しまったまた笑ってしまった。

 俺は椅子に座らされ、ヘパイストスは浴槽上のカランを捻る。同時にシャワーヘッドを手にそちらからも湯を出した。湯量は十分らしく浴槽に注ぐ湯の勢いが衰えるということもない。いくらか温度調整をした後。

「はい、じゃあ頭から流すから」
「ん」

 けして冷たい訳ではないが、温い。かなり温い。いや、血は水の方が落ちやすいとか言って水のままじゃなかった分だけヘパイストスにしては随分と優しい。
 温い湯が注がれる中、不意にまた頭を撫でられる。目を見開いたがすぐに湯に負けて目を閉じる。そして、そのまま髪を梳く気配。薄目を開けて滴る水が微かに色づいているのを見る。ああそうか、と得心がいった。
 まあなんというか最初からそうだったのだがヘパイストスは俺の髪に残る血糊を洗い流そうとしている。弟[おれ]のためではなく母のために。自分でほとんど洗い流せたと思っていたのだが、出会い頭でこの兄は目敏く汚れに気付き、その残滓すらも落としきらなければ母と会うのは許さないとでも思ったのだろう。母を取り巻く世界に穢れは要らぬ。不毛にも母をこよなく愛するヘパイストスの考えそうなことだった。
 繰返し髪を梳く手。その手があんまり優しいので忘れてしまいそうだったのに。ああ、泣いてしまいそうだ。
 けど、今ヘパイストスは母の許へ行くこともせず、俺の髪を洗っているのだという事実がひどく嬉しい。もうなんなんだ。我ながら支離滅裂な思考だ。
 じっとタイルを流れる水を見る。今はもう透明にしか見えなかった。と、流しっぱなしだったシャワーからの湯が止まり、晴れた視界の中、ヘパイストスがシャンプーのボトルに手を伸ばす。

「なぁ、それアプロディテのじゃねぇの?」
「ん、そうだね」

 確か以前、アプロディテの別邸で『本当は他のひとに使わせなくないのだけどアレスは特別ね』とか言って俺に使ったやつと同じボトルだ。ヘパイストスは特に意を介した風もなくポンプを押してとろりとした液剤を掌にとった。そして少し湯を加えて泡立て、俺の髪と頭を洗う。指の腹で頭をわしゃわしゃされるのが思いの外気持ちいい。しばらくの後、シャワーで泡が流されるのが少し恨めしい。
 トリートメントはいいか、とぽつりと聞こえたがもとから使ってないから気にしない。続けてヘパイストスは海綿でボディーソープを泡立てて俺の首から肩、肩から背中と洗っていく。擦る訳ではない、泡を転がすような洗い方に本気でどうしたもんかと思う。ベッドの中での愛撫より優しいんじゃないですかね兄上。
 肩から肘、そして腕まで洗われたところで、はい、と泡だらけの海綿を渡される。

「前と下は自分で洗うように」
「…判った」

 いろいろと納まりがつかなく前にに終わってよかったような、残念なような。手早く洗ってしまいたいが、ヘパイストスが脇の下、とか、指の間、とか指摘してくるので思ったより手間取る。

「終わった」
「うん。じゃあ流すよ」
「…って、何で撫でながら流すんだよ! 水圧だけでいけるだろ!」
「え、だってちゃんと落としたいでしょ」
「だってってなん…ぅわ!耳の後ろ触んな!」

 わざとか。否、否。一刻も早く母上のところに行きたいだろうヘパイストスに限ってわざとなんてことはない。だかそんなのとは関係なしに何だかムカついてきた。
 流し終わってシャワーを止めるべく蛇口に手を伸ばしたヘパイストスは完全に油断している。振り返って無防備な首に腕を回し、がっつりホールドして、文句を言いかける口を自身のそれで塞ぐ。触れた唇が更に何か音を発しているようだが、唇を舐[ねぶ]り舌を割り入れる。びりびりと咥内で反響する言葉にならない音。体勢が悪く俺を突き放すことも出来ないのもあってか、しばらくしてヘパイストスが抵抗を止めた。少しだけ離れて俺が笑えば、ヘパイストスが溜め息を吐いた。
 もう一度口附けて、今度は返される反応に気が高揚して、こめかみから白い髪に指を挿し入れる。服の上から撫ぜて、下にある膚を思った。
 抱き締めてゼロ距離。耳元で囁く。

「…なぁ、続きしよ」

 言ってから自分の言葉に呆れた。調子に乗り過ぎだ。絶対、ヘパイストスが頷くことはない。そんなことは解りきっているはずだったのに。今は何のために湯浴みをしているのか考えろ馬鹿かお前はとヘパイストスの呆れきったともすれば失望の色を浮かべた目がありありと想像できた。

「お前ね、今は何のため湯浴みをしているのか覚えてる? それも私がわざわざ手伝って。いい加減、約束の刻限も超えているけれど遅れても行くと言ったものを反故に出来るわけないでしょう。そんなことも解らない馬鹿だとは。この馬鹿が」

 想像していたのよりも怒っていらっしゃる。そして断定形だ。
 ヘパイストスは今度こそシャワーとバスタブに注いでいた湯も止めて、扉の向こうへ行ってしまった。

「こっちでタオルと服は用意しておくから、お前はさっさと湯船に入って温まりなよ。それからその件は」

 ドア越しの少し鮮明さを欠いた声が確かにそう言った。

「また後で」

 俺の返事なぞ待たずにそれっきり声も気配もなく完全に立ち去ったのだと知れた。
 とりあえず湯船に入る。かなり温めだったシャワーと対照的に湯船を満たす湯はやや熱いくらいだ。
 また後で。また後で。反芻しその意味を測る。
 ざばっと顔を湯に浸けた。熱い。すぐに顔を上げる。
 あまり待たせてしまうと本当に怒るかもしれないし、気が変わってしまうかもしれない。しかし折角湯を張ってくれているし、顔のにやけがおさまらないし。
 百まで数えたら出よう。
 てんでばらばらな思考が走る中、それだけ決めた。






<2012/02/06>



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