これは戦いなどではない。

 対峙するアテナとヘパイストス。
 アテナが振るうのはやや湾曲した細身の刀。ヘパイストスが手にしているのは左右同じ長さの双剣。どちらにも共通しているのは刃が付いていない模造刀であること。だが刃があるか否かは関係がない。打ち合うふたりから迸る闘気とでもいうべきものを纏ったそれ。必殺の一撃を見舞うに充分な獲物である。打ち合う度、劈く剣戟の音。音と共にふたりの力が奔りオリンポスの静謐を打ち拉ぐ。

 それでもこれは凡そ戦いなどと呼べるものではない。
 戦女神アテナの随神でありその存在で勝利を約束する女神、ニケはそう判じた。

 ヘパイストスが右足で踏み込むと同時に右手の剣を斜めから斬りあげる。アテナは半歩下がって弧を描く剣先を躱す。ヘパイストスが左手で刺突をかければ、アテナはそれを刀で往なし踏み込んで、ヘパイストスは続くアテナの斬撃を回避するため振り上げていた剣を今度は袈裟懸けに降り下ろし切っ先をアテナに向けたまま後退する。

 双剣というのは利き手に長剣を、逆の手に短剣を持ち、長剣で攻撃を、短剣で防御を行うのが常である。
 ところがヘパイストスは同じ長さの剣をどちらも同じように使う。修練の賜物、というわけではない。そもそも彼は戦うことに長けた戦神ではなく、その戦神の剣を鍛える鍛冶神なのだ。もしかすると彼は両利きなのか、とニケは思う。彼が彼の弟と同じく戦神であったなら、そして鍛練を続けたなら中々なものになったかもしれない。
 ただそんなのはあり得もしない仮定の話だ。
 ヘパイストスの振るう剣など、アテナにとっては児戯に等しいし、彼の弟でありアテナに幾度となく敗北を重ねるアレスとさえ比べ物にならない。だが、それが問題なのではない。

 殆ど動かない右足。
 日常生活なら支障をきたすことはないようだが、決定的で致命的な欠陥だ。敵の懐に踏み込めない。咄嗟の回避ができない。斬りつける時に必要な足元の踏ん張りや腰の捻りもままならない。本来ならそれだけで勝敗は火を見るより明らかだ。

 しかしアテナはそこを突かない。
 だからこれは戦いなどではない。
 アテナはただその決定打を加えずに、ただヘパイストスとの“決闘ごっこ”に興じているだけだ。そしてヘパイストスとて初めからそれを承知してアテナの領分でどこまで足掻けるか試みているのだろう。尤もニケにはどちらにも意義を見出だすことが出来なかったが。


決闘遊戯


 そんなごっこ遊びだからできるのがヘパイストスの装備だ。両の手のものを合わせて八振りもの剣。幾多も佩いた剣は本来なら邪魔にしかならない。だが彼にとっては脚がそうなのだ。彼は不如意な下半身を既にそういうものとして扱っている。機動性を早々に棄てている。だからこんな出鱈目を重ねることが出来たと言えよう。

 アテナはにこりと笑って、攻撃に転じた。
 ヘパイストスが向けた剣を弾いて、一合、二合、と打ち合う。

 白刃の軌跡はまさに流麗。まるで舞うような、しかし鋭く無駄のないアテナの剣技は、きっとその圧倒的な技量こそが美しさの本質だ。彼女が手にする武器というより寧ろ美術品のような細身の刀も同じで、剰りにひとを斬ることに特化し、完成した一級品。だからこそ美しいとさえ感じる。

 ヘパイストスはそれをアテナとは対照的な不恰好さでぎりぎりに凌いでいるが、その“ぎりぎり”はアテナが敢えて作り出した間隙だ。
 必至。
 激しく散る火花。もう二十合は刀を合わせたろうが、このまま続ければ数合もせずにヘパイストスは決定打を受ける。ニケはそう推測した。恐らくアテナが思い描いている勝利も、ヘパイストスが予感している敗北も変わりない筈だ。
 しかし。
 その瞬間が訪れるより早く、ヘパイストスの片膝が突然に沈む。アテナの攻撃に耐えかねたのではなく、恐らくは脚の不如意が発作のように浮かび上がっただけなのだろう。
 ヘパイストスの表情が強張る。
 膝を着くより速くアテナは決定的な一打を見舞えただろうが、そうはしなかった。アテナは刀を下ろし、距離を取る。仕切り直しだとでも言うように。

 それを見たヘパイストスが先刻より余程渋い顔をする。それを見たアテナは朗らかに笑む。尤も見る者が見れば、眼の底に冷徹な打算があれど油断はなかった。

「ああ、気を害したならすまない。今の貴兄に打ち込むのは気が引けてな」
「態々やり直させてくれると」
「ああ。今のまま終わらせたのでは私とて不本意だ。そんな弱点を突かなくとも勝つのは私だからな」
「それはお気遣いどうも…!」

 言うや否やヘパイストスは右手の剣を投擲し、間髪入れずに左手の剣をも投擲する。そこに先刻までの必死そうな表情はなく、全くの無表情だ。闘志も殺気も根本的な何かを削ぎ落としたような貌で肩から上だけを使った予備動作の殆どない投擲はしかし不意打ちならば完璧だった。
 それをアテナは刀の峰で弾き、柄で叩き落とす。亜音速に及ぶ剣をこれ以上望みようのない力点的タイミングで防ぎきるアテナの一切の狼狽のない迎撃は、ヘパイストスの行動を予期していたかのようだ。否、恐らくは先程までの剣舞と同じ、全て必至の手を導いているに過ぎないのだろう。
 アテナは間合いを詰める。
 ヘパイストスの鞘を払うより速くアテナが斜めに斬り上げれば、ヘパイストスは右手に逆手に半ばまで抜いた剣でどうにか凌ぐ。鍔迫り合い、ヘパイストスがアテナを撥ね除けるが、数瞬早くアテナは飛び退って、ヘパイストスの剣は空を掻く。アテナは一刀振りかざし、ヘパイストスは崩れた体勢から左手で鞘を払うと同時に投擲する。アテナは降り下ろす寸前に刀の軌道を不可能じみたことにもかかわらず容易に押し曲げ、剣を叩き落とす。胴を薙ぐヘパイストス。あと一歩深く踏み込めていたならばあるいは。しかしアテナは容易くその一撃を美しい太刀筋で防ぎきる。一際甲高い金属音。防ぎきるとは飛んだ見誤りだった。アテナの痛烈な一撃にヘパイストスは剣を取り落とした。
 これで半分、アテナはヘパイストスから剣を奪ったことになる。

 アテナは切っ先をヘパイストスに向ける。向けているだけで構えてはいない。しかし構えていないからこそ次の一手はどちらにでも打って出ることが出来る。そんな状態なのだろう。

「まだ続けるか?」
「………」

 アテナの問いにヘパイストスは双剣を抜くことで答えた。
 アテナはただ満足げに笑んで刀を鞘に納める。
 ヘパイストスの足元でざりと音。
 刹那。アテナが間合いに踏み込み、一閃、鞘から刀を抜き放つ。
 抜刀、居合い斬り。刀が鞘走り、最速の一撃。
 躱せるはずがない。しかしけりを着けようとするアテナが狙うのは急所、肋骨の間を縫って狙う軌道は精緻であるが故、ヘパイストスがアテナの動きを見るより先に構えて剣で受ける事は可能だった。
 衝突し、一瞬にも満たない間、拮抗し、アテナはヘパイストスを弾き飛ばした。ヘパイストスから剣が離れ、アテナが刺突による二撃目を繰り出す。
 ヘパイストスは身を捻って切っ先を掠めさせながら躱し、右手にアテナの腕を掴む。引き寄せて同時に掌底で顎を狙う。
 アテナは流石でそれが実現する前に刀を手放し空いた手で逆にヘパイストスの腕を掴み取み、もう片手で掌底を弾き、更には肘鉄を鳩尾に極める。
 ヘパイストスが苦鳴を漏らす。だがヘパイストスは口の端に微か笑み。弾かれた左腕は既に柄を握っていた。
 空手となったアテナに防ぐ術はない。腕を掴まれ後退も出来ない。自ら仕掛けた攻撃の制動のため咄嗟に躱すことも出来ない。だからアテナは、最後に残ったヘパイストスの剣を逆手に掴む。
 振り抜いたのは同時。近すぎる間合いは十全に力を発揮できず鍔迫り合う。
 ヘパイストスは悔しそうな顔でアテナを半ば睨んでいた。対するアテナはふわりと笑う。
 均衡が崩れた。正確にはアテナが力を抜いて崩した。
 ヘパイストスの腕が撥ねる。全身で拮抗していたために体勢を崩す。アテナはヘパイストスの肘の内側を斬りつけ、ヘパイストスが剣を落とす前に顎を蹴り上げていた。互いに掴んでいた腕を放し、ヘパイストスが倒れる。

「貴兄の敗けだ」

 アテナは言ってヘパイストスの顔のすぐ横に剣を突き立てた。

「……あーあ。私頑張ったと思うんだけどなぁ」

 ヘパイストスは倒れたままアテナと空を仰ぎながら残念そうな声音で言った。その表情はここからは見えない。
 アテナが手を差し出す。ヘパイストスはその手を取って上体を起こし、後の介助は要らぬとばかりに刺さった剣を杖代わりに立ち上がる。

「ああ、十分過ぎる程だ。アレスより余程苦労したぞ」

 ヘパイストスは瞠目し、そして嫌そうに目を細めた。

「それはすぐに終わらないようにするのが苦労したってこと?」
「その通りだ。貴兄は理解が速くて助かる」
「貴女って本当………いや、何でもない」

 この戦いですらないごっこ遊びにどれ程の意義があるのかニケには理解し難い。が、苦り切った様子のヘパイストスも、ひとの悪そうな笑顔を作るアテナも何処か晴れやかだ。




<2011/12/31>



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