何をしている時が一番幸せか?

 そう問われればヘーベはすぐに答えられない。
 オリンポスで神酒[ネクタル]を注いで回るのは誇らしく思うし、粗暴者と言われる兄の湯浴みを手伝うのもなんだか楽しいし、気難しいらしい兄の世話を焼くのも楽しい。オリンポスと馴染みにくい兄たちだがヘーベにとっては只の兄でしかないのがちょっとだけ嬉しかったりもする。勿論、姉と他愛ないこと話しながらお茶をするのだって大切な時間だ。みんなみんな幸せな時間だ。敢えて一番を選ぶとするのならこうして母の髪を梳っている時かもしれない。

 ヘーベの母――ヘラは豪奢な服を着てもそれがとても似合っている――誰かが生まれながらの女王と言ったがまさしく――そんな美しい少女の姿をして白いドレッサーの前に座っていた。側にはヘラの侍女であるイリスやホーライたちも侍っている。しかしヘラの髪を結うのはヘーベなのだ。
 どこか鮮やかささえ感じる艶やかな黒髪。細くて真っ直ぐでさらさらとしていて櫛を入れると先まですぐに通ってしまう。ヘーベは丁寧にヘラの髪を梳かして、少し編み込んで、リボンを結う。繊細なレースのついた紅いビロードのリボンだ。コサージュとヴェールをそっと差し込む。それでおしまい。
 ヘラが振り返る。愛らしい少女の顔で、美しい女王の顔でヘラは満足げに微笑んだ。

「ありがとう、ヘーベ」
「いいえ、こちらこそ。母様」

 ヘーベもにっこりと微笑み返した。その顔立ちは母に似ているのだとひとは言う。


 実のところヘーベには自覚がなかった。ヘラは美しい。それは間違いない。娘のヘーベでさえ、母の美しさに溜め息を漏らすことがある。その母と自分が似ているなどとは到底信じられなかった。否、似てはいるのだろうが、母のような美しさを持っているとは思えない、と言った方が正確だ。ヘーベが司るのは〈青春〉という人の生の輝かしい瞬間だ。特別容色が劣るとは思わない。だけれど特別美しいとも思えない。だから母と似ていると言われると奇妙な気持ちになる。
 そんなことを兄姉たちに漏らしたことがある。

「そっか? んー…充分可愛いと思うぞ俺は」
「そうね、私もヘーベは母様に似ていると思うわ。違うというなら着飾らないからじゃないかしら」
「だよな。母上みたいなドレス着て化粧すれば…、って、母上もそんな化粧してないけどさ。とにかく髪伸ばして母上っぽくしたらめちゃくちゃ似てると思う」
「ちょっとメイクしてみる?」

 笑いながらふたりが言った。兄と姉が言うならそうなのかもしれない。だがどうにも釈然としなかった。その時、それまで黙っていたもうひとりの兄が静かに言った。

「似ているというのは同じということじゃない。似ているからといって価値を高めるものじゃないし、逆に貶めることでもない。そういうことだと思うよ、私は」

 よく、解らなかった。

「それ答えになってねぇよ」
「ふたりは母子で似ている。それだけでしょう」
「それは…ふたりは似ているとは…はじめにヘーベも言いましたわ、兄様」
「そうだね。だからもう答えは出ている。母上は母上。ヘーベはヘーベ。ってこと」
「やっぱり答えになってませんわ。ねぇ、ヘーベ?」

 ヘーベは頷きかけてやめた。
 ただ胸にほんわりと残る温かさを言葉にする。

「ありがとう。姉様、兄様たち」

 それは紛れもない幸せの発露だ。





<2011/08/18>



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