ふと気が付くと、僕は暗闇の中にいた。 すぐ近くに在る筈の己の掌さえ見えない、冥く塗り潰したかのような空間だった。 己以外の何かを探して、僕は闇の中を歩く。 真っ直ぐに進んでいるのかすら判らぬ中、唯一僕に触れるのは足元の地面らしきモノだけだった。 裸足でいるらしい僕の足裏に触れる闇だけが、辛うじて僕に定義された上下を教えてくれた。 どれだけ歩いたのだろう。動かし続けていた足が脳に疲労を訴える。 足から伝わる倦怠感が全身を包み込んだ。休息を求めている。 僕はその欲求に逆らうことなく、とさりと腰を下ろした。 何となく、僕は己の掌に視線を落とす。 やはり、目の前に在る筈なのに見えなかった。 手を前に伸ばそうとも横に伸ばそうとも、何にも触れることは叶わない。 僕が触れられるのは、さっき地面と定義した部分のみのようだ。 「…埒があかないな」 何一つ見えもしない空間について考えたところで、時間と労力の無駄だ。 僕は今いる闇についての思考を放棄し…唐突に其処に至った。 僕は…誰だ? 己を「僕」と定義してはいるが、「僕」を…自己を形成すべき「記憶」が欠けている。 己がどんな姿形をしているのか判らない。 己の性別すら判らない。 僕は…誰なんだ? 当然己の名前も判らない。 記憶が欠如している。…だが、全ての記憶が「消えた」訳では無いようだ。 言葉を、僕は知っている。 それに、躰の記憶、とでもいうのだろうか。何年生きたのかは判らないけれど、それまで積み重ねた経験は残っている。 無意識の内に覚えた筋肉の動かし方が躰に染み付いていたからこそ、今此処まで歩いていたのだ。 今までの経験は消えてはいない。消えてしまったのは、思い出。 僕を僕と定義するための記憶。 …ああ、またしても、 「埒があかないな」 判らないことだらけだ。 僕が有する記憶の中で、己の名を含めた思い出に関することのみが消失している。 生きていくには支障は無いけれど… …そういえば、眠気は少々感じるけれど、空腹感や排泄感は全く無い。 この空間は、其れを感じさせないのか…。あるいは、この空間にいることにより、必要としないからなのか… ああ、謎は深まるばかりだ。 (其処には何も無い) (僕の記憶でさえも) |