人は何故生きているのだろう。
ふと、僕は思う。
幼い頃の願いを叶えて、希望に満ちて生きる人。
現実の非情さを突き付けられながらも、必死に生きる人。
変わらない日常に虚無感を覚え、自ら命を絶つ人。
絶えず仕掛けられる理不尽な仕打ちに存在理由を見失い、やはり自ら命を絶つ人。
生き方は人それぞれだけれど、自分の生きる理由を見つけられる人は、ほんの一握りしかいない。
その掌から零れ堕ちた人は、その命の灯火が消える時まで存在理由無く生きる。
それに堪えきれなくなった人が、自ら命を絶つ。
恐らく僕は、どれにも当てはまらないのだろう。
僕は生きる理由なんて無いけれど、自ら命を絶とうとも思わない。
流れる時の中で、無感情に無感動に、ただ生きている。


人は死ぬことを恐れる。
常に死を恐れる。
病を持つ者、老いた者は特に、日々近づいてくる死の影に怯えている。
死んだら終わり。
そんな言葉を時々耳にするけれど、何故死が終わりだと決め付けるのだろう。
死のその先など、誰も知りはしないというのに。
僕にとっての死は、終わりなんかじゃない。
僕にとってというより、万物共通だと思うけれど。
死は、始まりだ。
人は、死ぬために生きている。
死という始まりに向かって、人は生き続けている。
僕達は生まれた瞬間から、死へ向かって歩み始めるのだ。
たった今、過ぎ行く一分一秒、僕たちは死へと歩を進めている。
誰も逃れることなど、出来はしない。


人は不死を求める。
死ぬことを恐れ、不死を求める。
人は不老に憧れる。
老いることを恐れ、不老を求める。
本当に不死の躯を持つ者は、死を求めるというのに。
本当に不老の躯を持つ者は、老いることを求めるというのに。
終わる事の無い命を抱え、朽ちる事の無い肉体を抱え、流れゆく時の中で、ただ独り立ち尽くす。
周りが時の流れに身を委ね、ただ独り、時に逆らって生きる。
変化の無い肉体は、何処かに長く留まる事を許さない。
やがて彼らは居場所を見失う。
時を刻まぬなど、哀しく虚しいだけだというのに。






◇      ◇






「ねぇ」
「何?」
「死後の世界ってあると思う?」


僕はその問いに、否と答えた。
人は死んだ後、何処へ逝くのだろう。
躯が朽ちたとき、魂は黄泉へと向かう。
ならば、黄泉が死後の世界なのかと訊けば、そういう訳でもない。
魂は黄泉へと逝き、魂に刻まれた記憶を閉じる。
新たな躯に宿る、その時が来るまでの長い時をかけて、刻まれた記憶を閉じていくのだ。
そして、記憶も経験も何も持たぬ真っ白な状態で、胎児の躯に宿る。
だが、極稀に色を残したまま、胎児の躯に宿る魂が在る。
物事の覚えが多少周りから遅れていたり、小さいくせに妙に大人びた考え方をする幼子は、過去の生まれてから死ぬまでの記憶が在る可能性が極めて高い。
過去の記憶を持つことを異端だと認識していれば良いが、そうと判らずに迂闊に誰かに話せば、その幼子は異端児だと忌み嫌われることになってしまうのだろう。
心を閉ざしてしまった幼子の半数は、恐らくはこれが原因だろう。
けれど、過去の記憶を持っていようがいまいが、子供であることに変わりはないのだ。
やがて心を閉ざし、やがては死を望むのだろう。


この世に永遠など無い。
不老不死の者は、この世の理から外れてしまった者。
この世とは違う理の中で生きているのだ。
そんな彼らも、いつかは朽ち果てる時が来るのだろう。
永遠に続くものなど、無いのだから。
けれど、魂は廻る。
記憶の有無などは関係無く、魂は廻り続ける。
この輪廻は果たして永遠なのだろうか。
人は何故生きるのだろう。
人は何を想って死んでゆくのだろう。
生まれて死ぬ。
その輪廻に、果たして意味などあるのだろうか。
その全ては、神のみぞ知る。

















(生まれて死ぬ)
(魂は永遠に廻り続ける)