日付もとうに変わり、所謂丑三つ時を迎える頃。誰もが寝静まった空坐町は、月明かりによって仄青く照らされていた。満月が近いのであろう。完全ではないほんの少し欠けた月に、ふいに人影が映った。 すた、と民家の屋根に着地した青年は、漆黒の袴を身につけ、腰には刀を差していた。本来ならば銃刀法違反なのだが、今の彼の姿を 死神、と彼は、いや彼らは称される。といっても、この青年は死神代行、つまりは自らの生きている肉体があるのだが。 漆黒の髪に、月の光をそのまま写し取ったかのような かの青年の名は、苗字名前といった。 名前はその場でぐるりと辺りを見回し、ふう、と息を吐いた。 「今日はもう、いないかな」 名前は死神代行として、尸魂界に認められた存在だ。故に、虚を狩ることも許されている。というより、虚を狩ることも仕事の内なのだ。死神の仕事は、代行である名前にもこなす義務がある、というべきだろう。浦原によって無理矢理力をこじ開けられた中学二年の時から、こっそりと虚退治をやっていたのだが、名前の存在が尸魂界に露見してからは堂々と行っていた。 名前のふわふわとした猫っ毛が風に乗って踊る。その漆黒は月光に照らされ、 漆黒の衣をひらひらと風に遊ばせ、とん、とん、とまるで階段を下りるかのように、軽やかに屋根から屋根へと移動している。 自分が暮らしているマンションの部屋のベランダにすた、と降り立ち、閉めてはおいていたが鍵などかけていなかった戸をからからと開けた。 後ろ手に戸を閉め、かしゃんと錠をかける。ベランダに面した部屋は寝室となっているため、部屋の隅にはベッドが置かれている。セミダブルの大きめなベッドの上には、魂魄の抜けた名前の体が横たわっていた。 ベッドに歩み寄り、そのまま倒れ込んで体に戻る。閉じられていた瞼を押し上げ、何をするでもなく天井を見上げる。Tシャツにスウェットといった一般的な部屋着を身に着けていた名前は、足元でもじゃけていた掛布を引き上げて瞳を閉じた。 翌日、いつものように学校へ行き、変わらぬ“日常”を過ごす。 彼らが虚だの死神だのといったことに関して知る事はない。視えぬのなら、知らぬ方が良いのだ。彼らが死神の存在を知るのは、天命を迎えて躰が朽ち果てた時でいい。今、知る必要は無いのだ。故に、名前は何も知らぬふりをして彼らと共に笑うのだ。彼らを護る為に、ほんの少しだけ彼らを遠ざけるのだ。 そう。今は、これでいい。この偽りが彼らを護る。その偽りは知らぬ方が良いのだ。 自宅のマンションに帰宅し、エナメルバッグをどさりと床に落としてベッドにダイブする。枕に顔を埋めて深く息を吐く。日が落ちれば名前も虚狩りに行かなければならない。悪霊の類のせいか、奴らは闇を好む。それによって、名前の睡眠時間は削られていくのだ。睡眠時間は短い性質だが、いい加減休ませてほしい時、というものもある。 今の内に眠ってしまおう、と名前は瞳を閉じ、襲い来る睡魔に身を任せた。 ――名前 …誰? ――名前 誰だい?静かにしてくれよ… ――名前 僕の名を呼んでいるのか?頼むから寝かせて… 「名前!」 瞬間、まどろんでいた僕の意識は覚醒した。瞼を押し上げると同時にがばりと体を起こす。 耳元で「うわっ」と聞こえたのでそちらを見やれば、妙に仰け反った体勢のルキアがいた。その黒曜石のような大きな瞳は見開かれている。 「…僕の部屋で何してるんだい?ルキア」 「名前!き、急に起き上がるな!驚いたぞ!」 「え?あー…ええと、ごめん?」 …僕、何かしたかな。 寝起きでうまく働かない頭を出来る限りフル回転させ、今の状況を把握しようと試みるが、なんやかんやとルキアが捲し立てるので諦めた。 喋り続けるルキアを制し、つい先程した問いかけをもう一度口にする。 「…で?僕の部屋で何をしてるんだい?ルキア」 「おお!そうだった!」 忘れるところだった、なんて言いながらルキアは微笑む。そんなルキアを見て、名前は思わず溜息が出た。滅多なことではとらない惰眠という名の睡眠を邪魔されたあげく、叩き起こした本題を忘れられるなど、名前としては堪ったものではない。 というよりも、今までのルキアらしくない行動のせいか、思わず義魂丸のチャッピーが入っているのでは、とじろじろ見てしまった程に動揺した。 しかし、そんな名前の様子に気付かなかったのかそれとも華麗にスルーしたのか、何も無かったかのようにルキアはさらりと言葉を発した。 「いつもなら既に町内を見回っている時間だというのに、珍しくいなかったからな。何かあったのかと心配しておったのだ」 「…それ、だけ?」 「それだけだ」 それだけの為だけにわざわざこんな所まで来て、ついでに言わせてもらうと家宅侵入までしてくれた訳だ。心配をかけてしまったことには申し訳なく思うが、家宅侵入してくれた件でプラマイゼロにしても構わないだろう。盛大に溜息を吐いた僕にぐちぐちと文句を言うルキアを横目に、いつの間にかすっかりと慣れてしまった感覚と共に魂魄を身体から抜く。 からりとベランダへ通じるガラス戸を開き、宵闇の空へひらりと身を躍らせた。空は鈍色の雲に覆われ、大粒の涙を流している。その雫に打たれることなど気にせず、屋根から屋根へと移動する。己の後ろをルキアが追ってきているのを霊圧で感じながら、ふと口元を緩ませた。 嫌な夢を、哀しい夢を見ていた気がする。張り裂けそうな慟哭を打ち砕いたのがルキアだったのだ。 |