そして、全てが始まる | ナノ
五月初め頃のある晴れた日。なんの変哲も無いいつもの日常が始まるはずだった。
この日を境に、とある青年の人生が変わる…









そして、全てが始まる








桜の花弁も完全に散り、木には青々とした葉が芽生え始めている。初夏の兆しが見られ始めたと共にじめじめとした空気が感じられ、梅雨に入った事を思い知らされる。
すっかり葉桜となった木々が幾本も植わっている広々といた庭の中心に、人々を魅了する堂々とした屋敷が鎮座していた。
その屋敷に幾つも用意された部屋の一つに、彼はいた。静かなその部屋から突然強烈な電子音が鳴り響き、その音が鳴り止むのと同時に強烈な破砕音が聞こえた。


「…あの、弥代さん…。一つ、伺っても?」
「ああ、今の音ですね。気にすることはありません。言ってしまえば、あれは冴弥様の癖ですよ」
「癖…ですか」


その部屋のドアの右手側に、二人のメイドが立っていた。一人は部屋の主の専属メイド。もう一人は入ったばかりの新人だ。
新人メイドの真木野は、音からは想像出来ない、想像したくはない部屋の中の状況に口元を引きつらせ、隣に立っている弥代にか細い声で尋ねた。
すると、弥代はああ、と吐息のような声を漏らし、何処か遠い目をしながら話し始めた。


「冴弥様は寝起きがものすっごく悪いんですよ。低血圧なんじゃないかしら。
そんな時に耳元で騒がしく鳴る目覚まし時計は、さぞかし不愉快なんでしょうね。毎回壊してしまわれるのよ」
「こ、壊しちゃうんですか…」


若干血の気が引いているのを自覚しつつ、就職早まったかな、なんて真木野は軽く後悔する。
数分後、少々荒々しく扉が開かれた。その扉から出てきたのは、少々寝癖がついた紅い髪につり目の紅い瞳を持った長身の青年――というよりは青少年と呼ぶべきだろうか――だった。
道行く十人が十人、振り返ってしまうと言っても過言ではない整っているその顔は歪められていて、一目で不機嫌だと解った。形の良い柳眉も顰められている。
今朝こうして起きて制服を着ることも乗り気では無かったのだろう。低血圧からくる苛立ちもあってか、思いっきり着崩された制服からそれも窺い知れた。


「おはよう、弥代」
「おはようございます、冴弥様。いつも以上に機嫌がよろしくないようですが、どうかなさいましたか?」
「今夜のパーティーに出席するはめになってな…。ただでさえ土曜にわざわざ学校に行くのに、帰ってからまたパーティーなんて面倒だ」


彼はぶっきらぼうに挨拶をして、適当に留めただけのボタンを直しながら舌打ちをする。仮にもマフィアに所属している自分が、一般人――といっても上流階級の人間――として生活していることが、彼は気に入らないらしい。
そんな彼に苦笑しつつ、弥代は首からぶら下げられていたネクタイをきゅっと締め、窘めるように言った。


「仕方ありません、社交辞令ですから」
「それは解ってる。だが、継ぎもしない会社のパーティーに、社交辞令だからと出席してる俺は結構偉いと思わないか?」


首元まできっちり締められたネクタイを軽く緩めながら、彼は自嘲するように笑った。
ふう、と小さく息を吐き、彼は手櫛で簡単に寝癖を直そうと試みていた。しかしそれはあまりうまくはいかず、未だに所々ぴんぴんとはねてしまっている。まさに無造作なその髪型さえも、容姿が整っているとセットしたように見えるのだから、美形は得だ。


「弥代」
「はい」
「俺が壊した時計の処分、頼んだぞ」
「それでは、また新しい物をご用意いたします」
「どうせまた壊すし、いらねえよ」
「かしこまりました」


どう考えても爽やかな朝の会話とは思えない彼と弥代の言葉のやり取りを、目の前で繰り広げられてしまった真木野は思わず呆然としてしまう。と言うか、また壊してしまうと解った上で、彼は今まで新しい物を用意させていたのだろうか。一見どうでもいいようで結構気になる疑問が、ふと真木野の胸の内に生まれた。


「それと…そいつは新人か」
「はい。先週此方に来た真木野さんです。真木野さん、冴弥様にご挨拶して」


それを考えていたせいだろうか。話しかけられたことに気付かずに、反応が遅れてしまった。


「えっ、は、はいっ!えと、先週から此方に仕えることになりました真木野です!よろしくお願いします!」


突然のことに声が裏返ってしまい、羞恥に駆られながらもそう一気にまくしたてて、勢いよくお辞儀する。気のせいだろうか、小さく笑われてしまったように感じて、ますます顔に熱が集まる。彼に頭を上げるように言われ頭を上げるけれど、恥ずかしくて目を合わせることが出来なかった。


「知ってるだろうが、俺は梶原冴弥。表面上は梶原グループの跡取りで、実際はボンゴレのヒットマンだ。まあよろしく、真木野」


彼――冴弥は小さく微笑みながら、握手を求めるように真木野に手を差し出した。




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