取り返しのつかない失敗をした、と当初は数十分前の自分をひたすら責めた。あわよくばこれが夢であってほしいとか、数十分前に戻りたいだとか、そんなことばかり考えていた。まあでも今は、現状を良いか悪いかで問われると悪くないとは思う。




「ただいまー」
「おかえり」

 アルバイトですっかり遅くなったわたしを迎え入れてくれるのは、異性の、友人。前述の「取り返しのつかない失敗」の結果だった。

 元々、高校のときの先輩とルームシェアをさせてもらっていたのだが、その先輩が就職の関係でこの部屋を出ていくことになり、わたしは新しい住人を探していた。もちろん、同性の。手当たり次第友人に提案するもことごとく玉砕。そんな中、わたしは宛先を間違えてメールを送るといううっかりにもほどがある失態をおかした。それでも断られれば良かったのだ。むしろ断ってほしかった。しかし現在の同居人の黄瀬涼太はあろうことかわたしの提案を了承したのだった。「ちょうど部屋探してたんス!なかなか良いところ見つかんなかったんで、スゲー助かる!」との言葉に、ごめんなさい、間違いですなんて言えなくなった。それから、かれこれもう半年弱ほど私生活をともにしている。多少の不便はあるものの、意外と掃除はしてくれるし簡単な料理も作ってくれるしで悪くはない。これで女の子だったら、完璧だった。


「お風呂の準備はバッチリっスよ、入ってきたら?」
「うん」

 こういう気配りも出来るし、異性にしてはずいぶん条件のいい相手だとつくづく感じる。こんな人と恋人になって同棲できたら、いいよなあ。
 それじゃあもう寝るから、と自室に入っていく黄瀬におやすみとだけ声をかけて、バスルームに向かう。入浴を済ませていそいそと疲れた体を癒すべく眠りについた。







 けたたましく鳴り響く目覚まし時計の音で、いやでも現実に引き戻されていく。鈍重な動きで上体を起こす。しばらくそのまま座り込んだ状態でいると、コンコンと扉をノックする音と黄瀬の声がわたしをさらに目覚めへと導いた。


「起きた?」
「んー」

 朝にしては高らかな黄瀬の声が、ドア越しにくぐもって聞こえた。わたしが唸るような返事をするので、黄瀬はもう一度本当に起きてるかと尋ねてくる。それにも唸るような声を絞り出すので、黄瀬は悩んだ末の決断なのか数秒経ってからわたしの部屋の前から離れた。
 のそのそと着替えて、洗面所へと移動しメイクやら髪のセットやらを済ませていく。ベーコンの香ばしい香りと卵を割る音、その他もろもろがわたしの脳を刺激して意識がはっきりしてくる。今日の朝ごはんもおいしそうだ。感謝しなきゃなあ。


 支度を済ませてリビングに入るとちょうど朝ごはんが出来たようで、テーブルに並べた二つのお皿に黄瀬がスクランブルエッグを盛り付けているところだった。こちらに気づいた黄瀬はさわやかな笑顔でわたしを迎えた。朝の挨拶を交わして、着席する。そう時間が経たないうちに黄瀬もわたしの向かいに着席。そして合掌。


「今日もありがとう」
「おいしい?」
「うん」
「良かった」

 純粋な笑顔に、ついつられて口角があがる。和やかな雰囲気のまま、今日のお互いのスケジュールを明かしあった。何時に帰るとか、晩御飯の話とか。テレビから流れるニュースについても少し。こんなのどかな朝を迎えるのはもう何回目だろう。悪くない、むしろ快適。


「ねえ」
「ん?」
「俺さ、この生活結構気に入ってるんスよ」
「うんわたしも」

 咀嚼の合間にお互い言葉を交わしあう。テレビに目を向けながら返事をしていたわたしは、しばらく彼の目の焦点が自分に定まったままだと気づかなかった。牛乳を飲もうと頭を戻した瞬間、その視線に固まった。端正な容姿の人間に見つめられるのは心臓に悪いと、黄瀬との生活で思い知った。
 あえてその視線に口出しせず、牛乳を喉に流し込む。冷たいものが喉を通りぬけていく感覚が気持ち良いはずなのに、なぜか今はそれを感じなかった。奴が変なことをするから。目を合わせる気は無かった。


「だからさ」
「うん」

 だからわたしはそれでもテレビを見ていた。今は黄瀬の視線よりニュースの方を気にするべきだ。ふとテレビの端に映る時刻に目をとめると、あと少しで家を出る時間になっている。最後の一口となるハムエッグを口内に押し込んだ。くつろげるほどではないが、ゆっくり噛みしめて食べるには十分な時間があった。味わって食べていると、なかなか黄瀬の次の言葉が聞こえないことに気づく。どうしたのかともう一度黄瀬に向きなおると、ばちりと目が合う。わたしが一瞬固まったのを狙ってなのか、たまたまなのか、黄瀬はようやく口を開いた。


「できれば、これからもずっと二人で一緒に住んでいきたいなって」

 それって、という言葉はハムエッグと一緒に呑みこんだ。妙な切迫感が襲ってきて、息苦しさを感じる。ハムエッグが喉を通りきらないせいなのか。つっかえたそれを下そうと、牛乳を流し込んだ。なんとか胃に落として、傍から見ればわざとらしいであろう咳払いをしてから席を立った。目を瞬かせる黄瀬を横目に、時間だからと言い訳をして食器を片づけていく。わたしの態度で、話を続けることを諦めたのか溜息が聞こえた。心中では悪いとは思いつつも、朝なんて忙しいときに言うもんじゃないととがめた。

 鞄を肩にかけて、いざ出かけようとしたとき、後ろから名前を呼ばれる。ぎこちなく振り返ると、気まずそうな笑顔を浮かべる黄瀬がいて、余計に居心地が悪くなった。そして追い打ちであるかのように、謝罪。ますます応えなかった後ろめたさがわたしに襲いかかってくる。だからと言って、どう返答すればいいかも分からず言いあぐねるばかりだ。いやじゃない、黄瀬はいいひとだ。長いあいだ思案したせいでずいぶんと重くなった唇を、なんとか動かして静まり返った玄関に声を響かせた。


「や、やりなおし…。もっとかっこよく言ってくれたら考える」

 そう言って出て行こうとした瞬間、視界の端に映った、弧を描いた唇に敗北感。ああ、つかまった。

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テーマ「人外ファンタジー」
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