極限で似るものの家
※R18銀新(しかもショタ受け)からのR18新銀(しかもショタ攻め)を筆頭にありとあらゆる危険要素満載です。出てくる人間がみんなクズです。クズしか出てきません。


1.新八

新八は私生児だった。
新八は都会のワンルームマンションに新八を産んだ女と住んでいた。新八を産んだ女は新八に自分をおねえちゃんと呼ばせていた。
おねえちゃんは若い頃からずっと水商売で生活していて、日が暮れると仕事に出かけ、朝方戻り、日中はほとんど寝ていた。そういう生活の中で、彼女は新八を産んだ。このワンルームマンションの風呂場で、独りで産んだ。
彼女は、産み落とした信じられないくらい小さく弱弱しい生き物を見て、これはすぐに死んでしまうだろうと予想したが、生き物は全く死ななかった。彼女がこれまでにこの部屋で飼った犬や猫などの生き物があっという間に死んでしまったのに比べ、生き物は驚くほど死なず、すくすく育ってそのうち立って歩いて口をきくようになった。彼女はこの頑強な生き物に新八と名前を付けて溺愛した。溺愛はしたが、生活は変えなかった。

新八は基本この部屋から出ずに大きくなった。気が付いたときには子供の歯が抜けて一番初めの大人の歯が出てくる年になっていたが、新八は幼稚園にも小学校にも行った事がなかった。そもそも、新八はどこの戸籍にも名前が書かれていない子供だった。
新八はおねえちゃんが仕事に行く頃に寝て、帰ってくる頃に起きる生活をした。帰ってきたおねえちゃんは概ね酔っ払っていてすぐに寝てしまう事が多かったが、時には起き出した新八の手を引っ張って、24時間営業のスーパーへ買い物に行った。新八がマンションを出るのは唯一その時だけだったので、新八はマンションとスーパーへ至る道程とスーパー以外の空間を知らなかった。
自分が行った事がない色々な空間があるのだ、という事は知っていた。新八は昼間ひとりでいる間、ずっとテレビを見ていたので意外に物知りだった。幼稚園や小学校、スーパー以外のお店、海や山や草原や砂漠や南極、繁華街や地方の商店街や東京証券取引所やアメリカ、紛争地域や宇宙といった、およそテレビに映る機会がある場所は、どこにあるかは知らないにしろ、殆ど知っていた。ただ、教育番組の人形劇やアニメに出てくる場所も、幼稚園やアメリカなどと同等に存在するものだと思っていた。新八の頭の中には、現実と虚構を差別する仕組みがなかった。
部屋に置かれた、ぺったんこのソファベッド。そこが新八の寝床だったが、機関車トーマスのパーシーがプリントされた毛布にくるまって眠る新八が、ある朝おねえちゃんの帰ってきた気配で目覚めると、ソファベッドの背凭れの向こうにベランダの物干しと朝焼けの空が見えた。濁った紫色の空には、数本の電線が撓んでいる。新八は毛布を頭から被ってベランダに出て、手すりから少し乗り出して電線を見た。いつもスーパーに行くために進む方向とは反対側の方向を見た。電線は分岐したり合流したりしながら、ずっとずっと、見失うまで続いていた。このベランダの前にある電線は、幼稚園や小学校や海や山やアメリカや宇宙の前まで、きっと繋がっているのだ。
それからの新八は、テレビの時間を半分にした。残った半分の時間は、電線を眺めるのに費やした。

また別の日、おねえちゃんが言った。
「あかちゃんが産まれるの」
おねえちゃんは、風呂上りに薄い下着だけをつけて、広げた脚の間に新八を入れて小さい頭を臍のあたりに抱き込みながら、新八の手を取ってそこを撫でさせた。
「男がいい?女がいい?」
おねえちゃんは息子であり弟である新八に、まるで自分の男に訊くように訊いた。
新八は
「おんながいいです」
と答えた。いつも見ている人形劇に出てくる恐竜の女の子の所には、男の子の赤ちゃんが来た。自分は男の子だから、来るなら女の子の赤ちゃんだと単純に思ったのだ。
「11月くらいに産まれるわ」
「ほんとう?」
新八はとてもワクワクした。赤ちゃんが来たら、昼間おねえちゃんのいない時間が少しは楽しいものになるかもしれないと思えて、嬉しかった。やって来た赤ちゃんと一緒に電線を眺めて、その先にある幼稚園や小学校や海や山やアメリカや宇宙について話そうと思った。
「あかちゃんは、どうやったらできるんですか」
「セックスするとできるわ」
「せっくす」
「気に入った奴とするの。そしたら時々できる。あんたもそうやって生まれたの」
カレンダーの11月を大きな丸で囲んで、新八は赤ちゃんがやって来る日を待った。
しかし、赤ちゃんは結局来なかった。大雪が降ったとても寒い日、帰ってきたおねえちゃんがシャワーを浴びながら悲鳴を上げて、びっくりして見に来た新八を突き飛ばし、急いで服を着ると濡れた髪のまま、帰ってきたばかりだというのにまた出て行った。そして、夕方頃に戻って来ると、椅子に座ってたべっこ動物を食べていた新八に抱き付いて、赤ちゃんは来ない事になった、と告げて泣いた。
新八はとてもガッカリした。せっかく赤ちゃんと電線の話ができると思ったのに。とても諦めきれない。新八はたべっこ動物を食べながら少し考えて、それから座っている自分の腰にしがみ付くおねえちゃんに思いついた事を提案してみた。
「また、せっくすすればいいじゃないですか」
おねえちゃんは新八の提案を聞いて顔を上げた。そして、新八が椅子から転げ落ちるほど頬を張った。

それからしばらくはいつも通りの日々が過ぎて行った。おねえちゃんはもうすっかり機嫌を直していて、新八を叩いた事などきれいに忘れて今までのように新八を可愛がった。しかし新八は赤ちゃんをどうしても諦め切れなかったので、おねえちゃんに言った。
「ぼく、やっぱりあかちゃんがほしいです」
その夜はお店がお休みだったので家にいたおねえちゃんは、布団の中で年の割には小柄な新八の身体を抱き締めて、新八がもっと小さかった頃のように薄い乳房を弄らせていた。そうすると新八は安心して早く眠り、おねえちゃんは自分の時間が取れるからだ。
「なあに、そんなにきょうだいがほしいかったの?」
「きょうだい…。ぼく、あかちゃんがほしい」
「ふうん。赤ちゃんは可愛いものね。あんたもとても可愛かったのよ、今も可愛いけど」
「あかちゃんは、せっくすするとできるんでしょう」
「そうよ。気に入った奴とね」
「じゃあ、ぼくとすればいいです」
せっくすがどういうものかは知らないが、気に入った奴とそれをするとできるというなら自分とすればいいと思った新八がそう言うと、おねちゃんは大きな口を開けてアハハと笑った。大きく開いたおねえちゃんの口の奥で、付けっぱなしのテレビの光に銀歯が反射してちかちかと新八の目を刺した。
「それは駄目よ」
「どうしてですか。おねえちゃんはぼくが気に入りませんか」
「気に入っててもあんたは駄目よ」
おねえちゃんは食い下がる新八を抱っこしたまま大笑いした。新八は何故笑われるのか理解できず哀しくなって泣きそうになった。新八は泣き始めるとしつこい。せっかく早く寝そうだったのに泣かれては困ると思ったおねえちゃんは、子犬が唸るような声を出し始めた新八の背中を優しく叩いて宥めた。
「そんなに赤ちゃんが欲しいの」
「ほしいです。かわいい、おんなのこの」
「おんなのこ?ああ、あんたももうおっきいものね。彼女が欲しいのかしら」
「かのじょ?ぼく、あかちゃんがほしい」
「はいはい、わかったわよ」
「あかちゃん、また来ますか?」
「来るわ。だから泣かないで寝てちょうだい」
「ほんとう?」
「本当よ」
おねえちゃんは、社会的には甚だしく問題のある女だったが、嘘だけは吐かない女だった。というか、新八はおねえちゃんを信じるしか生きていく術がない。おねえちゃんが本当だと言うのなら本当なのだと新八は思い、それで一旦安心して涙を引っ込め、それからすぐに眠った。
そしてその何日か後、夜中に新八が目覚めると、いつの間にか帰ってきていたおねえちゃんが新八のソファベッドに隣接して置かれたパイプベッドの上で知らない人に組み敷かれていた。おねえちゃんも知らない人も裸で、おねえちゃんは苦しそうにしていた。新八は、おねえちゃんが酷い事をされていると思い、すぐさま起き上がっておねえちゃんの上に乗っている人の脹脛に噛み付いた。
おねえちゃんの上の人は悲鳴を上げて新八を振り返り、怒って新八を踵で蹴った。新八は泣き喚いた。それを見たおねえちゃんは、笑った。
「新ちゃん、大丈夫よ」
「だって」
「これ、セックスよ」
あんたの赤ちゃんを作ってるのよ。
おねえちゃんはそう言い、まだ怒って何かを言っている人の腰に構わず裸の脚を巻き付けた。
「だから心配しないでさっさと寝てちょうだい」
「でも」
「聞き分けのない子のところには赤ちゃん来ないわよ」
それは困る。新八は慌ててソファベッドに戻り、パーシーの毛布を頭の上まで被って静かにした。知らない人とおねえちゃんの短い会話や、聞きなれない声や物音が毛布の向こうから聞こえて落ち着かなかったが、新八は赤ちゃんのために我慢して、いい子で眠った。

おねえちゃんが帰ってこなくなったのは、それからすぐだった。
おねえちゃんが二、三日帰ってこない事はよくあったが、こんなに帰ってこなかった事はなかった。新八は、冷蔵庫の中やお台所の開きの中にある食べ物を食べておねえちゃんの帰りを待ったが、毎週水曜日にテレビでやっているアニメを2回見てもおねえちゃんは帰って来なかった。24時間スーパーに行かないから補充されない食べ物は、日を追うごとに少なくなっていった。
やがて残っている食べ物が、たべっこ動物たった一箱だけになった頃、玄関のインタホンが鳴った。
「新八君だね」
背が届かない新八が椅子を使って覗き込むモニタに、きれいな顔をしたお兄さんが映っていて、新八の名前を口にした。
「………」
新八は、おねえちゃんのいない時には誰かが来ても相手にするな、玄関を開けるなと躾けられているので、答えなかった。
「僕は、たえちゃんの事で話があって来た。開けてくれないか」
おねえちゃんは、お店には嘘の名前で勤めている。おねえちゃんの本当の名前を知っている人間は、おねえちゃんの本当のお友達だけだった。何より、その人の『たえちゃんの事で話があって』という言葉に、新八は躾けに反してすぐに玄関のドアを開けていた。
チェーンを外すと、そのきれいなお兄さんは優しい顔で新八に言った。
「ああ。君は、君のお母さんにそっくりだね」
お兄さんは、新八がおねえちゃんの弟ではなく子供だという事を知っていた。
「あなたはだれですか」
「君のお母さんの恋人だよ」
恋人というのは、気に入っている人の中でも一番気に入っている人の事だ。意外と物知りな新八はその人の言葉を聞いて嬉しくなった。
「おねえちゃんとせっくすするひと?」
「そうだね」
「おねえちゃんとあかちゃんをつくるひと?」
その人は新八の二番目の質問には答えず、どこか寂しそうな顔で微笑んだだけだった。
「…君のお母さんは、ちょっと長い旅行に行ったんだよ」
「ぼく、もうたべるものもないし、さびしいです。おねえちゃんは、どれくらいりょこうなんですか」
「当分の間」
難しい言い回しを理解できない新八がぼんやりすると、その人は新八の頭を撫でた。
「食べるものや住むところは心配いらない」
その人は、おねえちゃんが持っているのと似てはいるが明らかに違う、立派な鞄をテーブルに置いて中身を新八に見せた。
ヴィトンのボストンバッグの中には、帯封がされた紙幣の束が10個も入っていた。
「おかね?」
24時間スーパーでおねえちゃんが使うお金は、皺だらけの折り目がいっぱい入った紙きれだったが、今、新八の前にあるのは折り目のない、きれいな、本屋さんの店先に積まれている新品の本のような姿をしていた。同じものとは思えずに新八が呟くと、きれいなお兄さんは
「たえちゃんは、金などには換えられない存在なのは勿論わかっている。だが、僕が誠意を見せるとしたらこんな方法しか思い付かないんだ。許してくれ」
と言った。新八はますますわからなくなった。
「おねえちゃんは?ねえ、おねえちゃんはどこにりょこうなんですか」
「悪いのは全部僕だよ。僕が赤ちゃんを作れないから悪いんだ。あんな男なんかとやるなんて頭がどうかしてしまったとしか思えないけれど、よく考えれば、きっと僕が悪かったんだ」
きれいなお兄さんは、新八のわからない事を一人でどんどん話し続けた。
おねえちゃんは旅行。どこに行ったかはわからないが旅行で、そしてすぐには帰ってこない。新八はそれだけを理解して、そしてそれ以上を理解するのを諦めた。諦めて、バッグの中に入っている珍しい札束を取り出すと、それを積み木にしてテーブルの上に壁と屋根だけの小さな家を作った。
札束で組み立てられた小さな家を見たお兄さんは、新八が理解できない独り言をふと止めると、札束の家を見詰めながらぽつりと言った。
「君も、お母さんの行った所に連れて行ってあげようか…」
「ほんとう!?」
かすかな呟きを聞いた新八は弾かれたように顔を上げて大きな目をきらきらさせた。弾みで組み立てられていた家が倒れて、テーブルの上に札束がぺしゃんこに広がった。
お兄さんは、
「嘘だよ」
と、言うと立ち上がり、カラーボックスの上にあるおねえちゃんの写真が入った写真立てを手に取ると、断りもなく自分の懐に仕舞った。
「元気でね」
もう二度と会うことはないけれど。
そのきれいなお兄さんはそんな別れの挨拶だけを残して玄関のドアを開け、出て行ってしまった。
新八は閉められた玄関のドアの前で、どうして、ぼくもおねえちゃんのところにつれていってください、とお願いをしたが、ドアが再び開く事はなかった。

新八はそのままそこに、夜になり朝が来るまで蹲っていた。
蹲った形でいつのまにか眠ってしまった新八は自分のくしゃみで目を覚まし、肌寒さと変な姿勢で眠ったせいで痺れた身体を起こした。
寝覚めのかすむ目であたりを見回す。テーブルの上に札束、そして、ベランダの向こうの紫色に濁った空には電線が撓んでいた。
あれの先には、幼稚園や小学校、スーパー以外のお店、海や山や草原や砂漠や南極、繁華街や地方の商店街や東京証券取引所やアメリカ、紛争地域や宇宙がある。新八の行ったことがないそれらがある。
必ずあるのだ。

新八は痺れた足を我慢して立ち上がり、お出かけの支度を始めた。
暖かい服を着て、耳あてをつけてマフラーを巻いた。お台所から水筒を出してきた。大好きなパーシーの水筒は、スーパーにしか出かけない新八には必要のないものだったが、スーパーの日用品売り場で見つけてどうしても欲しくて買ってもらったものだった。初めて使うそれに、新八はポカリスエットの粉を入れて水を入れた。
最後に、お出かけの時にいつも背負うリュックに、テーブルの上でぺしゃんこになっているお金を全部入れて、きちんとチャックを閉めてから背負った。リュックはぱんぱんになり、とても重かったが新八は我慢した。
ティッシュペーパーの箱を裏返して、おねえちゃんがもし帰ってきたとしても心配しないように伝言を書いた。

『でんせんがどこにいくのかみてきます』

こうして新八はスーパー以外の場所への生まれて始めてのお出かけに出発し、そして、二度とここへは戻らなかった。




2.神楽

神楽が父親に会ったのは16の時だった。
神楽にはずっと母親しかおらず、写真すらない父親の顔は見たこともなかった。自分には父親というのはいないものだと彼女は思っていた。勿論、神楽も有性生殖で生まれた人類であるのだから、どこかに母親に自分を産ませた人間がいるのだろうとは思っていたが、そういう人間が不在であるのが神楽の当たり前の生活であったから、別段不自由を感じるでもなく生活していた。

状況が変わったのは小学校2年生の運動会の日で、その頃仲良しだったお友達のお父さんが運動会を見に来ていた。神楽はかけっこでお友達を抜いて1位になり、お友達は2位になった。負けず嫌いの神楽は嬉しくて飛び跳ねて喜び、お友達は悔しくて泣いていた。その泣いているお友達のところに、お友達のお父さんが来た。そして、泣いているお友達を黙って抱き上げて背中をぽんぽんしたのだ。
背中をぽんぽんされるお友達は、抱き上げられたお父さんの肩に顔を擦り付けて、まるで赤ちゃんみたいに泣いていた。教室にいる時にはそんな甘えた様子を見せたことのないお友達が、まるで赤ちゃんみたいに。
神楽は目の前に繰り広げられるその光景を呆然と見上げ、そして思った。
私の人生は欠落していたのだ。
家に帰って母親に訊いた。
「なんで私にはお父さんいないの」
母親は
「私とそりが合わないから」
と言った。
神楽は憤慨した。母親とそりが合わなくても、私とは合うかもしれないのに。神楽は母親に、父親に会いたいと言った。会って、お友達がされていたようにぽんぽんされたい。
母親は、あんたがもう少し大きくなったらね、と答えた。神楽は一刻も早く大きくならねばと思った。

それからの神楽は、お父さんという存在に強く拘った。実際に見かける他人のお父さんや、いろいろなものの中に出てくる架空のお父さんなど、世の中に点在するありとあらゆるお父さんという概念を蒐集しまくった。
お父さんは優しくて強くて時に厳しくて、神楽を護ってくれて、神楽を一番に考えてくれて、そしてぽんぽんしてくれる。
お父さんに会うために一刻も早く大きくならねばと思っていた神楽はぐんぐん大きくなった。そして、周囲の友人達がカレシがどうの、と言い出す年齢までを図太く生き延びた。ただ偏に、お父さんに会うために。
友人達はカレシカレシと言っていたが、神楽はそんなものには全く興味はなかった。
お前達は何故そんなものが必要だと考えるのだ。そんな存在のどこにそんな魅力を感じるのだ。なんだかんだいって、そんなものはお父さんになる前段階の、お父さんの幼生に過ぎない。そんな未成熟な存在に、私は何の魅力も感じない。
半生をかけて神楽が蒐集し続けたお父さんという概念。それに近い存在にしか興味を持たない神楽は、10以上年の離れた、神楽が積み上げた概念に近い年齢の男ばかりに焦点を当て続けたが、近いのは年齢ばかりだった。年齢がお父さんという概念に近かろうと、結局そいつらは皆ただの男だった。そいつらは最終的には神楽にいやらしい目を向けてきて、そしてその度に神楽は幻滅した。神楽はお父さんに憧れるのと同じくらい男を嫌いになった。
神楽は極真空手をずっと習っていたので、とても強かった。物凄い不良であるお兄ちゃんに『お前は素手で人を殺れる』と褒められるくらいだったので、何度汚らしい男にいやらしい目を向けられたとしても、神楽の貞操は危うくならず、神楽はいつまでも少女のままだった。
こんなもんはお父さんじゃない。神楽は血塗れの拳を水道で洗いながらそう思った。
お父さんは優しくて強くて時に厳しくて、神楽を護ってくれて神楽を一番に考えてくれて、それでいて性欲を帯びない高潔で清浄な愛だけで神楽に触れてくる。お父さんとはそういう存在だ。
神楽はそういう存在にぽんぽんされたかった。

ある時親友のそよちゃんが言った。
「神楽ちゃんの思うお父さんって、お父さんという概念には納まりきらないと思うの」
そよちゃんが言う事は難しかった。
「どういうこと?」
「神楽ちゃんが言うお父さんは、いわゆるお父さんじゃないわ。神楽ちゃんの言うお父さんって、まるで天使みたいって思うのよ」
そよちゃんはお嬢様で、そよちゃんのおうちはクリスチャンだった。
「天使って、羽の生えた裸んぼうの赤ちゃんでしょ?」
「天使にもいろいろいるのよ。…神楽ちゃんはきっとお父さんに、天使とか、神様とか天国みたいなものを求めているんだわ」
神楽ちゃんは、お父さんという概念の中に、天使や神様や天国みたいなものを入れているのよ。
そよちゃんはそう言って、神様や天国はどれだけ探しても地上にはないのだから、いくら神楽が探しても神楽のお父さんは絶対に見つからないだろう。と予言した。

ずっと病弱だった母親が、死ぬ2週間くらい前、神楽の手にメモ紙を一枚渡した。
今まで見たこともない、神楽の母親に神楽を産ませた人の連絡先だった。
会うか会わないかは神楽の自由だ、と言い残して母親は2週間後に灰になり、神楽は誰もいない市営住宅の破れた襖の前に座り込んでメモ紙を見下ろした。
母親が死んで、神楽は一人になった。本当は神楽の上にお兄ちゃんがいたが、お兄ちゃんは人を刺して刑務所に入った後、仮出所して保護観察がついている時に保護司の人をまた刺して、その後は行方不明になった。
つまり、このメモ紙に書かれている人間が、神楽に残されたたった一人の家族、そして神楽の『お父さん』であるのだ。
神楽は寂しかった。そして、自分が『お父さん』に対して過剰な期待を持っている事も理解していた。
だから、多少理想と違っても我慢しよう。そよちゃんの言うとおり、私が思うお父さんは天使みたいなもので、現実のお父さんとはまた別のものなのだ。16歳の神楽はそう思って、メモ紙に書かれた住所宛にハガキを出した。
『お母さんが死にました。お兄ちゃんは行方不明です。私は一人です。 神楽』

私は一人です。
そう神楽がハガキに書いた一週間後、神楽は夕暮れの下町を、自宅である市営住宅までの帰り道を、髪の薄い冴えない見かけの中年男と手を繋いで歩いていた。
男の掌は神楽の掌をすっぽり包んで、温かだった。

16年目にして現れた神楽のお父さんは、神楽の事を『神楽ちゃん』と呼んだ。
「神楽ちゃん。すまねぇ。お父さんが悪かった」
と言って、初対面のお父さんはファミレスで向かいに座った神楽の手を握って離さなかった。
神楽は
「パピーは、悪くないよ」
と答えた。神楽はお父さんを『パピー』と呼んだ。パピーの事は、多少髪は薄かったが嫌いではないと思えたし、血を分けた自分の父親である事に疑いを抱いているわけでもなかったが、神楽が背中をぽんぽんされたい『お父さん』はもっとずっと高いところにあるものであったので、現実にこの髪の薄い中年男をお父さんと呼ぶにはどうしても抵抗があった。
間違いなく私のお父さんであるパピーをお父さんと呼べないなんて、変なの。と思って、神楽はパピーに繋がれた手をわざとぶんぶん振って歩いた。

襖の破れた市営住宅に住む二人は、神楽ちゃん、パピー、と呼び合って仲良く生活した。
概ね、半年ほどの間。
蜜月が薄まっていき、やがてそれが終わってみると、パピーは神楽のお母さんと別れた時のような家に寄り付かない自分勝手な男に戻っていて、神楽はパピーと出会う前のような不満だらけで理想とプライドだけが高い女子高生に戻っていて、そしてそんな二人が仲良く暮らせるわけがないのだった。

神楽は通学路の途中で、歩道の端ぎりぎりの所に立ち、下を見下ろして言った。
「私には、パピーじゃない、本当のお父さんが、きっとどこかにいる」
土木作業員であるパピーは、安全第一と書かれたヘルメットを被って配管を通すための窪みを掘っていて、パピーの目の高さには丁度神楽の黒いローファーが見えていた。パピーはそのローファーの先に付いた、尖ったもので抉られたような傷を見ながら言った。
「本当のお父さん?そんなもんはいやしねぇよ神楽ちゃん。本当のお父さんや、…或いは本当の娘、そんなもんはな、どこにもいやしねぇのさ」
パピーはいつかの日に親友のそよちゃんが言ったのと同じような事を言った。
「そんな事ない。どこかにいる。パピーは探していないだけ。探そうとしないだけ!」
カッとなって言い募った神楽の言葉に、パピーは表情を強張らせた。
「神楽。お前は、俺に、お前の他の誰かを探せってのか」
パピーは怒っていた。神楽は、初めてパピーを怒らせた、と思った。
「だって、本当の娘なんてどこにもいないんでしょ?私は本当の娘じゃないんでしょ?」
パピーは怒りながらスコップを使って穴を掘り続けた。掘り続けながら言った。
「本当かどうかなんて、俺はどうでもいいんだ。お父さんや娘や、その他の何でもいい、何でもそうだ、そういうもんはな神楽ちゃん、最初から『そう』あるもんじゃねぇんだ。そういうもんはな、みんな後から『なる』もんなんだ。俺がお前のお父さんかどうかなんてわかりゃしねぇよ。お前はあのアバズレの腹から出てきたガキだからな。でも俺はそれでもいいと思ってここに来たんだ。俺はな、神楽ちゃん。お前のお父さんになろうと思ってここに来たんだよ」
日に焼けたパピーの肩に大粒の汗がいっぱい浮いていた。それを見ていたら、神楽の目に何故だか涙が浮かんできた。
「パピー」
神楽はパピーを呼んだ。パピーは言った。
「なんでお前は俺をお父さんって呼ばねぇんだ」
神楽も言った。
「パピーこそ、なんで毎日ちゃんと帰ってきてくれないの」
私の背中をぽんぽんしてくれるのは、この人ではない。

神楽はぼんやりとしてしまって、学校に行く気もせず、公園にあったぞうさんの形の滑り台の前足の下でお弁当の代わりに買ったチーズ蒸しパンを食べた。
チーズ蒸しパンの表面に焦げで表現された北海道の形をきれいに残そうと、神楽が密かな挑戦をしている時、向こうの砂場の方から鋭い叫び声のようなものが聞こえた。ギャーともヒーともつかない、とにかく異様な声だ。びっくりして立ち上がった神楽の耳に、次々と悲鳴が届いてくる。何度か聞いているうちに、神楽はそれが動物の悲鳴だと気付いた。そして、ピイピイと鼻を鳴らすような哀れな鳴き方から、その声を上げているのは犬だと確信した。
「何しんてんのよ」
小さい白い犬が砂場に、頭だけ出して体全部を埋められていた。鳴き声はその犬のものだった。砂場から出された犬の頭は、不貞腐れて学校をサボる中学生達が投げる石の的になっていた。
犬の可愛い丸い目の上から血がいっぱい出て、白い毛が赤黒く汚れていた。
「何てことすんのよ」
不良のお兄ちゃんに『素手で人を殺れる』というお墨付きを貰っている神楽は、暴れたい気分だったのもあって、中学生達が二度と小動物を苛めようという気を起こさないようにしてやった。
中学生達が動かなくなると、神楽は犬を砂から掘り出してやった。小さい白い犬は神楽の掘った穴から自力でよじ登った。そして、頭を撫でようとした神楽の手を素早く避けると、そのままぴゅっと走って茂みに逃げ込んだ。
「わんこ、わんこ」
ケガしてるのに。
神楽は何度か呼んでみたが、恩知らずな犬はいなくなってしまった。

神楽は決めた。
決めた神楽は市営住宅の破れた襖の前に座り、ティッシュの箱を裏返した底にマジックで字を書いた。

『本当のお父さんを探しに行きます』

それから『パピーの本当の娘がいつか見つかりますように』と、余白の部分に書き添えようかと思ったが、少しだけ考えてやはり止めた。

雑誌の付録についてきたビニールのトートバッグに思いつくものを適当に詰めて家のドアを閉め、市営住宅の狭い階段を下りた神楽の真直ぐ正面で、大きな夕日が沈もうとしていた。
神楽はその夕日に向かって歩き出した。家出をしようとしているはずの少女の足取りは、とても堂々として自信と確信に満ち溢れていた。
その足元に、小さな柔らかいものがまとわり付いた。見下ろすと、先刻助けてやった犬だった。石をぶつけられた傷は、血が止まってもう固まっていた。

そよちゃん。
神楽はしばらく会っていない親友に心の中で呼びかけた。
神様や天国は、そよちゃんの言うとおり、この地上にないものだから絶対に見つからない。
でもね、天使は違う。天使は、神様や天国が地上に遣わすものなのだから、探せばきっと見つかる。
この地上に必ず見つかるのだ。



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