【赤ペン先生 2】
その人は、予備校にいた。
その人は、予備校の先生だった。公務員試験を受けるための、僕が大学の帰りに通っている予備校の、先生だった。
女子にすごく人気がある先生だった。
何故人気があるかというと、かっこいいからだ。
年齢は30代半ば〜後半、背がすらっと高くて、骨格は結構がっしりしているけれども肉はあまり付いていない、どちらかというと痩せ型で、髪や肌の色が薄くて清潔感があり、声が俳優みたいなイイ声で、通常の会話や授業中の質問に対する受け答えの端々などに隠し切れない知性がにじみ出る感じで、そのくせ性格は物静かで控え目、しかし気弱な印象はなく、人を拒んでいると感じさせない程度の絶妙な無口、以前はどっかの大学の研究室にいたけれども身体を壊したために退職して予備校の非常勤をやっているとかいう噂があって、だからなのか時々軽く咳き込んだりして、そのくせ煙草を吸っていて、そしてもちろん顔は当然のように男前とかいう、そういう先生だった。
女が騒いでも仕方がない感じだった。
かといって男に嫌われているかというとそうではなく、『あの人、いい人だよな』って、大体の奴が言うのだった。だから男子にも人気があるのだった。
そしてそれは僕も例外ではなく、僕もあの先生を、いい人だよな、って思っていた。だから僕の中でもあの先生は人気があるのだった。
そういう先生と、帰りが一緒になった。
予備校は駅前のでかいテナントビルの9階にあったので、僕と先生は同じエレベーターに乗った。
エレベーターの中で先生は言った。
「彼女いんの」
先生は無口だったが、こういう密閉空間で二人だけになった時に気まずくならないよう、軽い会話を切り出せるくらいのそつのなさを持ち合わせているのだった。大人なのだった。
僕は、相変わらずかっこいい声だぜ、羨ましい、かっこいい、と思いながら、います、と答えた。
嘘ではない。本当にいる。いるにはいるが、最近悩んでいる。
デートのたびに、わけのわからん雑貨屋みたいなとこに連れて行かれ、陳列してあるブリキで出来た猫が自転車漕いどるようなわけのわからんオブジェをカワイーとか言う彼女にカワイイねと言ってあげ、ただの輪ゴムに布のひらひらが付いとるだけで1500円もするようなものを買ってあげたりしなくてはならなかったりするのが、最初はよかったが近頃は苦痛になってきていた。豆乳で作ったプリンみたいなもんばっか出てくるカフェとか、もう行きたくなくなっていた。エッチの代償にそんな苦行が強いられるというのなら、僕はもう出家してもいいとすら思いつつあった。
そのような事をかいつまんで先生に伝えると、先生は
「それは、お前はその子の事が、もう、好きじゃないんじゃねぇのか」
と、やはりかっこいい声でゆっくりと言った。
言っているのは別に気が利いているわけでもないありふれた言葉だったが、そういうかっこいい声で言われると、そうかと素直に納得してしまう。
これが大人の魅力というやつか。僕は、エレベーターの壁に軽く肩で凭れて立つ、かっこいい先生の顔を斜め後ろから尊敬のまなざしで見詰めた。
先生は、例の軽い空咳を何度かした。
僕が大丈夫ですかと気遣うと、先生は僕の問いかけには答えず、
「別れちまえよ。そんなもん」
と、変わらないゆっくりの口調で言った。
僕は、はあ、とか曖昧な返答をしながら、女に対してドライでクールなそういう感じも大人の渋さって感じでかっこいいぜ、とアホみたいに憧れた。
エレベーターが1階についたので、僕と先生はエレベーターから降りた。
エレベーターがあるホールから正面のロビーまでは狭い通路になっていて、途中、ジュースの自販機と喫煙室と、あとトイレがあった。
その一角にさしかかった時、先生が急に立ち止まった。なんだろう煙草かな、と思い、
「どうしたんですか」
と先生の背中に声を掛けた瞬間、いきなし振り返った先生に腕を掴まれ、
「え?…え?」
とか言っているうちにトイレの個室に引きずり込まれていた。
そして、
「もが」
両肩をがっしり掴まれて、上から覆い被さるようなキスをされていた。
「もがが」
僕は一体何が起こったのかと混乱し、そしてそれ以上に、自分よりでかいものにされてしまうキスなどというかつてない体験に、なんかもう、わけわかんなくなった。
前触れもなくいきなり口の中いっぱいに突っ込まれた舌が、遠慮会釈なく口の中じゅうを舐めまわしてきて、僕は、身動きが取れないかわりに体の横にぶら下がった両手の先の爪で、トイレの壁をガリガリ掻いた。
びっくりして見開いたまま固まった目には、先生の同じく開いた目が見えたが、それは笑うでも怒るでもない、ちょっと眠そうな風情のいつものかっこいい先生の目なのだった。
やがて先生は僕の口から舌を抜くと、擦り合わせるようにして唇を離し、おまけにアホみたいに開いたままの僕の唇をべろっと舐めてから、僕の顔から顔を離した。
「久しぶりだな」
と、先生は相変わらずいつもの眠そうな風情の表情で言った。言いながら、僕のジーンズのボタンフライのボタンを上から外している。
「え?久しぶりって?え?なんですかこれ?なんなんですかこれは?え?え? …えええええ?」
えええ?となる僕に構わず先生は着々とボタンを外して、外しきった。そして、でかい乾いた掌を僕の腰っつうか既に尻に近い部分に沿わせながら、ジーンズを摺り落とした。ジーンズは僕の両膝の下で蟠って、僕はますます身動きが出来なくなった。
しかも、目の前にあるかっこいい顔と腰っつうか尻に近い部分に触るでかい乾いた掌が脳内で繋がった瞬間、あろう事か、僕はなんか激しくぞくぞくしてしまった。ぶっちゃけ、勃った。
え?え? …えええええ?
「2年も離れたことなんかなかったからな。寂しかっただろ」
先生はぶっちゃけた僕のそこを見て初めてニヤッと笑い、僕の肩を掴んでいた手を離すと、かわりにそこを下着の上から妙に優しく撫でた。
そしてまた軽く咳き込んだ。
「あっ、ちょ…。に、2年?離れた?なんですかそれ?何の事ですか?」
「ふっ、とぼけんなよ」
別にとぼけていないのに、ふっ、とかかっこつけて言われると、どうしたらいいかわからなくなる。
しかも、かっこいい憧れの先生がトイレなんかの床に膝を付き、僕の下半身を抱え込むようにして、僕のぶっちゃけているそこに下着の上から痛くないくらいの力っつうか気持ちいいくらいの力で歯を立てているのとかを見せられて、どうしたらいいかわからなくならないはずがなかった。
何故だ。僕は何故逃げない。
イヤならば、どうすればいいかわからなくなったりせずに、逃げるなり大きな声を出すかするかなりするはずだ。何故僕はそうしないのだ。
え?あれか?も、…もしかして、イヤじゃないのか?そうなの?
彼女との関係があれなせいで女にうんざりしてるから無意識的にそっちに逃げようとしてんのか?それとも先生のかっこいい顔とかに騙されてんのか?
「せん…せんせ」
握り締めた先生の髪が手の中でくしゃっと音を立てた感じがした。
先生のかっこいい口が僕のを咥えて舐めているのだった。
かっこいい大人の先生にそうされると、彼女にしてもらうのとは全く違う気持ちになって、なんかもう、ナチュラルに変な声とかが出てしまうのだった。男としての気負いとか虚勢的なものもひっくるめて、僕を全部あげるので貰ってください、みたいな気持ちになってしまうのだった。
ああ何故だ。何故こんな気持ちになる。何故僕はイヤじゃないんだ。
「あっ、あっ、ぁ、せん、…せんせえ、もう」
いく、と喚くと、先生は僕の前で前後させていた頭の動きを止め、そして、舌の先を裏側の筋を辿るみたいに押し当てながら、口の中から僕のを出した。
エロすぎるテクニックに、何だこの先生は…明らかにちんこしゃぶったの初めてじゃねえだろ…、と若干引いたが、いきかけて力が抜け座り込みそうになる僕の身体を、素早く立ち上がりざま二の腕を掴んで引き寄せることで無理矢理立て直した力強さに、また僕はぞくぞくしてしまったのだった。
脱力した僕を引き寄せ、そのまま抱き締めた先生は、間近にある僕の耳たぶに唇をつけんばかりにして言った。
「正直、高校講座が終わった時はどうしようかと思った。学生時代のバイトでお前を見付けてから14年と5ヶ月、お前は俺が育てたんだからな。それなのに、時の流れが俺達を引き裂くのかと」
高校講座?
ていうか、喋りながらこの人の指は何をしてるんだ。
「や、…ァ、ちょ。ど、どこになにをしてんですか、ダメです、ダメですって」
「一旦は、このまま美しい思い出になってしまうのも仕方ないと思った。だが、俺の情報網が、お前がなんか予備校に行こうとしてるって事を掴んでな。それで俺は」
情報網って何。
いやそれよりも指が、いや、ていうか、ていうか。
「ていうか、まさか、あんたは…」
「まさか?何がまさかだよ。わかってんだろ?…ああ、言わせたいのか。仕方ねぇ奴だな」
仕方ねぇ、とか言いながら僕の中に指を3センチ相当も入れた先生は、ひ、と息を飲んだ僕の鼻先まで顔を近付け、そのかっこいい声でゆっくりと言ったのだ。
「俺は、お前の、お前のためだけの、赤ペン先生だ新八…」
僕は、その言葉と、先生の指がなんかわかんないけど僕の中のとんでもないところを押したのとで、いきかけた。
黒歴史として封印していた僕の妄想。
的確な指導のかいあって受験に成功し、胸が潰れるような思いで終わらせた通信教材の事を、僕は進学した大学でデビューし彼女を作ったりなどの浮かれた生活を始めた事でケロッと忘れていた。というか忘れたつもりでいた。
「そんな…。マジだったんですか。僕は、てっきり、あんたなんて、僕の、ア、妄想かと、僕が作った、あっぁ、幻だって、ぁ、思ってたのに。マジ、だった、んか」
「感じる?」
「か、か、か。…かんじます」
先生は僕の身体を裏っ返しにして僕をトイレの壁にすがらせ、その背後から僕を抱き抱えるようにして、僕の胸とか局部とかの思いつく限りのエッチな部分を弄りまくった。
こんなとこがこういうふうに感じるなどという事をいきなり教えられた僕は半泣きになって、それから逃れようと身体を捩らせた。
「ハ、せ、先生、マジでずーっと僕の添削してたの?」
「してた」
「どうやって…?」
年齢が上がるごとに内容の変わってくる添削を、教材会社が一人の人間に担当させるとは思えなかった。
先生は休みなく僕の身体にエッチな事をしながら、
「あらゆる手段を使って」
と事もなく答えた。
あ、あらゆる手段。
「あのう、それはもしかして、先生は、ストー」
カー、までは言えなかった。先生が、僕の乳首を弄っていた手でいきなり僕の口を覆って塞いだからだ。口どころか鼻まで覆われて息苦しい僕がもがもが言うと、先生は更に僕の口を覆う手に力を込めて、
「それは犯罪者の事だ。ストーキングやセクハラは、される本人がイヤがってる時に言うんだよ。お前はイヤじゃねぇだろ?だから、違う。…わかるな?」
と、聞いた事もない低い、迫力のある声音で言い、そして
「わかるな?」
と、念を押してきた。
僕は先生の言は尤もだと思ったが、それよりも、今なんか口答えをしたら殺されるのではないかという気がして、窒息しかけて涙目になりながら何度も首を縦に振った。
「俺が黒板に書く字を見て、お前が興奮してたのは知ってんだぜ?」
していない。
本当に全く何にも気付かなかった。
確かにあれだけ入れ込んだ通信教材だったが、大学デビューして彼女も出来た僕はあれ自体を黒歴史として葬ってきれいさっぱり忘れていたので、書かれた字とかに興奮する癖はなくなっていたから、別に予備校の先生が黒板にどんな字書こうと特に興味もなかったし、そもそも全然真面目に授業受けてなかったからあんたの字なんかろくに見ていませんでした。
しかしそう言ったら多分殺されるという気がしたので、僕は口を塞がれているのをいいことに黙っていた。
僕が14年間恋していた先生は、ストーカーで犯罪者だった。
顔や声がかっこよくて、時々咳き込む様子がセクシーで、そしてその指は長く、僕の中のありえない部分を的確に触ってくれる犯罪者だった。
でも僕は、先生が犯罪者でも別にそんなもんどうでもいいと思っている。
だって、もともと先生は僕の妄想だった。先生は僕の幻だった。だからその実体は、ストーカーとか犯罪者以前に、僕の、僕だけの先生なのだ。
先生の字だって、確かにきれいさっぱり完全に忘れていたけど、僕の深層は密かに覚えていたのかもしれない。
だから僕は、こんなことされてもイヤじゃないのかもしれない。
わかんないけど、きっと、そうなのかもしれない。
いるのかいないのかもわからなかった人が本当にいて、そしてその人だから、なんかこんなエッチな事されてもイヤじゃないのかもしれない。
いや、かもしれないじゃない。
先生だからイヤじゃない。
「先生。僕、先生の添削で何回もしました」
「へえ。なにを」
そんなもん何で持ってたんだと思わずにはいられない、計画的に今日やるつもりだったのかと思わずにいられない、甘ったるいフルーティな匂いのするローションを使われて、何本かの指を出し入れされるそこが、信じられないような音を立てていて、僕はもうこれはそこに指ではないなんかを入れてもらわなければ収集が付かないなと思っている。
「先生の添削見て、自分で」
あ、あ、みたいな声が勝手に喉から漏れ出て、膝が震えて立っていられない。僕は、素っ気無い白い壁に肘から先で必死にすがって恥ずかしい告白をしながら、同時に、ああ僕はつまりこの犯罪者に14年以上もかけて着々と仕込まれていたのだなぁ、と朦朧とする意識の端っこで思った。
14年以上もかけて着々とこの人を好きになったのだなぁ、と思った。
「ずっと、会いたかったんです」
犯罪者が背後で笑った気配がして、そのせいでまた少し咳き込んでいた。
咳が残った声でかっこいい僕の犯罪者は言った。
「入れてって言え」
「……ば、バカヤローこの変態!いれて!」
怒鳴った僕の後頭部が指の長い掌に勢いよく押さえられ、額をトイレの壁に擦り付けられた。
「ぃ、痛」
後頭部を押さえる動作は乱暴だったが、挿入は丁寧だった。
丁寧だったが痛いもんは痛かった。情けないけど涙出た。
あんまり痛くて腹が立ってきた頃、背後で荒い息を吐きながら動いている先生が
「手出せ」
と言った。
「手?なんでですか…」
涙目で先生を振り返ると、先生は胸のポケットにささっていた赤ペンを引っこ抜いて、キャップを外していた。
「添削…?」
14年余り見続けた、機械的な人間味を全く感じさせない添削を思い出した。
しかし僕は、その中に、たまらなく有機的な人間の息遣いを感じていた。
先生は僕の中に挿入したまま、壁にすがる僕の手を掴んで固定した。そして、手に持った赤ペンの先を、固定した僕の手の甲に押し付けた。
赤いインクが皮膚の表面に微かに滲んで、それを引き摺るようにペンが文字を書いた。
ぬ って。
そのぬは間違いなく僕が焦がれ続けていたぬだった。
紙の上に痕跡を見るだけだったぬが、リアルタイムに、しかも僕の皮膚の上に書かれる。先生に挿入されながら。
ねこの背中が丸まっているようなカーブ、ぶたのしっぽがくるってなってるみたいな感じの、あのいやらしいぬが、ペン先の少し濡れた感触と強めの筆圧を伴って、僕の皮膚の上に。
挿入されてる先生の感触と、あのいやらしいぬが書かれる感触が、さっきと同じように脳内で抗いようもなく繋がった。
たった一人の、僕が幼児の頃から僕のプリントに赤ペンで添削し続けてきたその人は、確かにここに存在していた。
「………っ」
僕は、しっぽがくるってなってるとこを先生が書き終えるのとほぼ同時に、声すら出せないくらいにいった。
同時に先生が、僕の後頭部の髪の中に鼻先を埋めて息を詰める。
ぬって書いた僕の手の甲を、間に赤ペンを挟みながら強く握り締めていた。
先生。今後は郵送でのやり取りはやめて下さい。
こうやって、僕に直接添削して下さい。何回でも。
便器の蓋の上に僕を座らせて、先生はその脇にしゃがんでいる。
脱力する僕の手を取って、赤ペンで何かを書いていた。
見ると、さっきぬって書いた下に、続きを書いている。何か、簡単な絵も描いている。
「よし」
と言って僕の手を離したので、見たら、
ぬこ(=^・^=)
って書かれていた。
「先生…」
僕は手を腹に置いて、手の甲のぬこを見下ろしながら言った。
「なに」
なんで僕が ぬ で感じるって知ってたんですか
と、言おうと思った。本当は。
勿論他にも、なんでぬこなんですかとか、彼女とは別れますとか、言おうと思った事はいっぱいあったが、一番言いたかったのはそれだった。
でも、その理由を聞くのがなんとなく恐かったので
「…このぬこ、カワイイですね」
と言っておいた。