金魚

「旦那、忙しそうですね」

と言うと、旦那は目を閉じたまま顔をしかめた。
俺の影が日差しを遮って、旦那の体は俺の身幅だけ分断される。

「わかってんなら話しかけないでくれる。忙しいんだから」

忙しいわけない。午前11時から公園の芝生で寝ているような状態を忙しいとは言わない。これで忙しいなら屯所で飼ってる金魚の方がまだ多忙だ。
しかも金魚は最低限目を開けてるが、この人の場合目も開いてない。金魚以下だこの人は。

「忙しいとこあれなんですけど、ちょっと聞いてもらいたい話があるんでさ」

「何」

「少々込み入ってんですけどいいですかい」

「だから何」

「おや、聞いてくれるんですかい」

「どうせ聞くまで付きまとうんだろ。早く終わらせて消えてくれない。あと、出来るだけ聞こえない位の小さい声で話してくれる。今忙しいんだから」

旦那は目を瞑ったまま背中で這いずって、俺の身幅分の影の中に体が収まるようにした。
俺は俺の身幅分の影の中に納まった旦那をじっと見つめた。
旦那は目を閉じて手足を広げて脱力していて、それはまるで濡れたものを床に置いた時みてえなべしょっとした様子だった。



じゃあ遠慮なく、と前置きをしてから俺は話し始める。

「俺、ガキのころ金魚飼ってましてね。金魚すくいですくったやつ。姉上と一緒にしたんでさ。初めてやったもんで全然うまくいかなかったんですけど一匹だけすくえたんです。嬉しくてねえ」

「ああいうとこですくったやつってすぐ死ぬもんですが、そいつは全然死ななくて、ずっと生きてた。それだもんで結構愛着が湧いてきて、俺、一生懸命世話したんでさ。元気なくなったら塩入れてみたり、水槽もいつもきれいにしてました」

「そのうち、俺が水槽の縁叩くと寄って来て水面でパクパクするようになって、微妙に気持ちも通じてるのかなって感じになってきましてね。まあ、完全に主観ですけど」

「じっと見てると不思議な気持ちになりました。ずっと水槽の中に浮かんで何とも関わらないで食って寝てるだけ。生きてるだけ」

「そういうのってどういう生活なんだろうって。もしもこいつが、川か池かでずっと生きたらどんな奴になってたんだろうって。もしも川か池かで生きていたら、こんな水槽の中なんかには収まらない奴になったんだろうかって」

「みたいに、いろいろ考えたわけでさ。でも奴は俺の妄想なんか知ったこっちゃないわけで、相変わらず水槽の中で何とも関わらないで、俺とも関わらないで勝手に生きてました。金魚だから当たり前ですけど」

「そんで、ある日、梅雨時にすごく水槽が汚れたことがあったんです。雨降ってたもんで、外で水換えするのが億劫だった俺は、洗面所で換えることにしたんでさ。それが今でも悔やまれるんですけど」

「洗面所狭くて、金魚を一時的に入れてた小さいバケツを洗面台の縁に置いてたんですが、俺、ヘマやらかしましてね」

「バケツひっくり返しちゃった。あっと思った時にはもう遅くて、金魚、排水口から流れちゃったんでさ」

「ものすごい喪失感ですよ。俺、大泣きしちゃって、寝込んでた姉上がびっくりして走ってきたくらい泣いちゃいましたね。でもいくら泣いたって流れてったもんは戻ってきやしません」

「その夜は眠れませんでしたね。金魚、あんなとこから流れてすげえ苦しかっただろうなって、やっぱ死んじまったのかなって。マジで苦しかっただろうなって」

「そう思うと泣けて泣けて堪らなかったんですが、何かそのうち、おかしな感じになってきたんでさ」

「何か、むずむずするっつうか」

「流しちゃった金魚のことを考えると可哀想で悲しいはずが、何でかそのうちに、俺の中の後悔や悲しみの感情が、むずむずするっていうかもやもやするっていうかの、そういう肉体的な感覚に変わってきちまったんでさ。万引きがバレた時になんでか小便行きたくなるような感じになるでしょう。あれに似てる感じですねい」

「流しちゃった金魚の苦しみや、金魚にあるのか知らないですけど恐怖、金魚を失った俺の後悔や悲しみ、それから、俺が金魚に対して抱いていた愛、あったかどうか知りやせんけど金魚が俺に対して抱いていた愛。そういうなんもかんも全てが、俺のつまらねえ過失で、洗面台の真ん中でぽっかりと黒い口を開けた小さな排水口に吸い込まれて行った。ああ、あの行き先は海ですかねい、下水ですかねい。俺と金魚の全ては一体どこに行っちまったんでしょう」

「そんな事を考えれば考えるほど、万引きバレた時みてえな小便したくなるみてえなむずむずした感じが強くなってきて、布団の中で何度も寝返りを打ちました。生まれて初めての感覚だったもんでその時はわからなかったんですがね、本能は知ってやした。俺ぁ、かわいい金魚の苦しみを思いながら、」



突然身体を起こした旦那に向こう脛を蹴られて、俺は脛を押さえてその場に踞った。
前に、旦那んとこのチャイナに折られたとこと同じとこだった。



「なにすんですか、折れるじゃねえですか」

「凄まじく不快になった!真昼間になんつう話しやがんだ!頼むから消えてくれよ!あと、お前の目覚めはマニアックすぎるから、二度とよそで話さない方がいいよ!」

旦那は手のひらで耳を塞いで、枯れた芝生の上にまた寝転がった。手足を丸めて俺に背を向けた。

「もう日傘は必要ねえですか」

「うっせんだよ!」

「じゃあ日傘は帰りますけど。…ちなみに旦那の目覚めは何ですか」

「俺の目覚めは『のび太と鉄人兵団』のリルルが消えたとこ!ていうか、お前が消えろ」

「リルルたぁ、また、旦那もロマンチストですねい」

リルルは生まれ変わって天使になった。
俺の金魚もどこかに生まれ変わって天使になっているかしら。



耳を塞いで俺に背を向ける旦那の顔を覗き込むと、旦那は眉間に皺を寄せて唇を引き絞り頬を硬くして、まるで苦悶するみたいな表情をしていた。

手足を縮めて身体を丸めて、苦悶の表情を浮かべる旦那を見ているうちに、俺は思った。
あの金魚は排水口から流れていく時、もしかするとこんな様子だったんじゃねえかな。


金魚のような旦那を見ながら、俺は、いつか旦那を流してみてえなァと思った。


別に言うような事じゃないから言わないけど。









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