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剥がれかけた塩ビの床は、歩く度に粘ついた音を立てた。足が重いのはそのせいだ。
平素、新八は銀時の後ろを歩く。しかし『仕事』の時に限っては、新八は彼の前を歩いた。
自分は共犯なのだ、と思う。積極的に加担する共犯なのだ。
「…聞いてねぇぞ」
新八の背後から、銀時が剣呑に発声した。
「僕も聞いてません」
前を向いたまま新八が答えた。
仕事を持ちかけてきた男が、立ってこちらを見ている。その後ろで、更に2人の男が腰掛けに座っていた。
銀時が仕事に使う場所は、この古い安ホテルに決まっている。
ここの主人は普段からの知り合いで、つい先日には、飼っている犬が逃げたので探してほしいと依頼をしてきた。犬は頭にリボンを付けた人懐こい黒色のトイプードルで、犬を抱き締めて返したくないと駄々をこねる神楽を宥めるのに骨を折った。
その犬が、先ほど通り過ぎたカウンターの向こう、訳知り顔で銀時に鍵を渡した主人の腹の下から顔を出して新八を見ていた。まん丸で真っ黒な、何も映していないような無垢な目玉だった。
安ホテルの3階の奥、非常階段の脇が狭苦しいピロティになっている。隅にはみすぼらしい合皮の腰掛けが置いてあり、その向かいに扉があった。
この扉の部屋を銀時はいつも使った。客とはこのピロティで待ち合わせる事になっている。
ピロティには3人の男がいた。
「どういう事だ?」
銀時が、立っている男に言った。
男はすっ呆けた風に
「こういう事だ」
と笑う。
「聞いてねぇ」
「そうか?俺はそこのガキに伝えたつもりだったが」
冗談ではない、全く聞いていない。新八はカッとなった。
「嘘言うな。聞いてない」
鋭く反論する新八の胸に銀時が掌を置いた。ゆっくりと後ろに押しやられる。
「3人か?」
「学校で数の数え方を習ったろう」
「俺ぁ劣等生でね。3人だな?」
「そうだよ、万事屋さん」
悪びれもせずに答える男に銀時は、小さく鼻で笑った。
「そういうのはオプション扱いだ」
銀時は新八が取り付けてきた額に増えた人数分を加算し、それを1.5倍した金額を提示した。
なんで銀時が金になるのか、新八には理解できない。全く理解ができなかった。
銀時は、それらしい様子もない、がさつな、人並みの体格と容貌を持ったただの男だ。それがなぜ、そう安くもない金銭の対象になるのか。
「中古にしちゃ高いな」
男は銀時を中古と言った。
新八は、銀時が金になるのが理解できない。しかし銀時が低く見積もられるのは許せなかった。
そもそも、半年ほど前まで男は頻繁に銀時を買っていた。お前は銀時を中古にした張本人の一人だろうが。
「関係ねぇな。払えないなら交渉不成立だ」
銀時は何でもなく言い、どうするのお客さん、と首の後ろを掻いた。首を掻く銀時の指の間から、赤い情痕が見えた。
「わかったよ」
男は笑い、懐から財布を出した。
新八は内心の苛立ちを隠して男に歩み寄り、男が差し出した金を受け取った。
皺だらけの紙幣を数える。紙幣を弾く指は的確だった。
「うまいもんだ。どっかバイトで教わったのか?」
見ていた男が新八の札勘を誉める。新八は答えず、最後の紙幣の音を立てた。
札勘は銀時から教わった。ファミレスでのバイトではどうしても上手くならなかった紙幣を数える動作は、銀時に習うと呆気なく身に付いた。
紙幣の総額は、銀時が提示した額と相違なかった。新八は無言で銀時を見上げた。
銀時は新八の視線を受け、袂に入れていた部屋の鍵を取り出す。鍵と部屋番号のプレートを繋ぐ鎖が無感動な音を立てた。
「交渉成立だな。金の分はきっちり働いてもらうぜ」
男が卑しい調子で言った。
銀時は聞き流して扉に向かい、無造作に鍵を鍵穴に差し込んだ。
この一連の流れを、相手を変えてもう何度繰り返したかわからない。新八は慣れてしまっている。慣れて、細かい感情などは擦り切れてしまっている。
しかし、銀時が扉に鍵を差し込むこの瞬間、これだけはどうしても慣れる事がなかった。怒りなのか悲しみなのか、何かはわからないが強い感情が湧き上がって、視界が狭まるようだった。
今何かのきっかけがあれば、それは爆発するだろう。なりふり構わず銀時の背中にすがりついて、それから地面に引きずり倒し、馬乗りになって何度も殴り付けるような気がする。
新八は奥歯を噛んで銀時から目を逸らした。この、馬鹿野郎。
腰掛けに座る男の一方が、様子を見て腰を上げた。粗末な腰掛けのスプリングが軋んで、まだ座っているもう一人の男の体を不安定に揺らす。
「…何でも屋だとは聞いてたが、こんなもんまで売ってるとはな」
立ち上がった男は半ば本気で呆れるような口調で言い、そして俯いて座っているもう一人の男に短い声を掛け促した。
促された男が、俯いていた顔を上げる。
まだ若い。その顔は全体的に腫れていた。口の端には明らかに殴打された痕である青い痣が大きく残っていた。
新八は男の顔を見た瞬間、硬直した。身体も、思考もが、凍り付いたように硬直した。
それは、あの日、銀時を撃った男だった。
*
胡座をかいた太腿の上に銀時を載せ、その男は上下に腰を使っていた。
男の両肩の上から背中に回された銀時の手は、もがくような動きをし、次第に指を強く握り込んで拳を作った。
「ふッ、ゥ、アッァ」
銀時は、揺さぶられる動きに合わせて小刻みな声を上げている。
男の腰を挟む脚の両膝が、痙攣を起こす熱病患者のように震えた。握り込まれた手も同じように震えていた。
銀さん。
一体、何でこんなことになってんですか。
新八は男の肩越しに見える銀時の歪んだ顔を見詰めながら、口には出さず質問した。音のない質問に当然答えは返らなかったが、銀時の虚ろな視線は彷徨う道程で一瞬だけ新八を掠めた。それはほんの僅かの間で、新八がそこから何らかの情報を読み取る前に、逸らされてしまった。
「 」
銀時が微かに何か言った。しかし、喘ぎに潰れて聞き取れない。何を言ったのかわからない。新八に言った言葉なのか、男に言った言葉なのかすらわからなかった。
銀時に被さる男が、銀時の左耳の下に顔を埋めた。酷い音を立てて、強く吸った。
「ひっ」
吸うと同時に激しく突き上げる。安物のベッドがしきりに、やかましく軋んだ。
「あっあっ、ァ、うっ……アァッ!」
銀時は呼吸を詰まらせた悲鳴を上げ、体を竦ませた。爪先が断続的に空を蹴った。
次いで男の背中も震え、不規則に震える銀時の身体を圧し潰すように抱き込んだ。
男の身体からはみ出す銀時の手足は弱々しく、無様だった。新八や神楽を庇うあの腕や脚と同じ物とは思えなかった。
震える喉が大きく晒されている。
さっき一瞬だけ新八を掠めた目が細く引き絞られ、どこでもない、どこか明後日の方を見ていた。
何でこんなことになってんだろう。
新八は目を閉じて、今度は自問した。
自分の中からも答えは返ってこなかった。
この街には珍しい淫売がいる。
髪が根元まで白く、目が赤い。
そして、よく躾られた小さな番犬を、その場に付き添わせる。
*
「銀さん」
新八は扉を開けた銀時の二の腕を後ろから掴んだ。
「何だよ、でけぇ声出すな」
振り返った銀時の腕を掴んだまま、そのまま引きずって、扉の開いた部屋と男達から距離を取る。
「あいつ、この前の」
と、例の男を目線で示す。
首を捻じ曲げて新八の目線を辿った銀時は、ああ、などと軽く言う。特段、興味を示した風ではない。
新八は地団駄を踏みたくなった。
「…ああ、じゃねぇだろ馬鹿。あいつ、ついこの前あんたを殺そうとしたんですよ」
「だから何だよ」
わからないのか、わからないふりなのか。新八は理解に苦しんだ。
この、馬鹿。この馬鹿野郎が。
「そんな奴にやらせんのかよ」
「なんか問題あるか?何、また殺そうとするってか?…やってる最中に?」
丸腰にも程があるだろ。
間抜けな光景を想像したのか、銀時は下卑た表情を浮かべた。そして
「やり殺すならともかく」
と付け加えた。
新八は銀時の腕を一層強く掴んで俯いた。
口の中で、違う、そういう事じゃなくて、違う、と不確かに繰り返した。
あいつは愚かな奴だ。
愚かで無力な奴だ。仲間に押さえ付けられ、地面に這い蹲り、まるで虫けらみたいだった。
虫けらのくせに銀時を殺そうとした。
そして、今度は犯そうとしている。
あんな奴が僕の銀さんを。
「あんな馬鹿にやらすんですか」
金を貰ったから?
新八は理由が欲しい、と思った。何でもいい。嘘でもいい。
そうでなければ、掴んだこの腕を離せないと思った。
「痛ぇな」
銀時が呟いた。
新八はハッとして、反射的に銀時の腕に食い込ませていた指から力を抜いた。脱力した新八の手は、白い着物の袖の上をずるずると滑って落ちた。
離せない、と思ったはずの手は、銀時の簡単な呟きごときで呆気なく力を失った。
銀時が俯く新八の旋毛に向かって、なあ、と呼び掛ける。
呼び掛けられた新八はのろのろと顔を上げた。
銀時は笑うでも怒るでも哀れむでもない表情で、新八を見下ろしていた。
そして、表情そのままの、酷く平坦な口調で
「キスでもしてやろうか」
と言った。
新八は脱力していた手を振り上げ、銀時を殴った。
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