4,000円

「服部先生」




呼ばれて服部は、応えるべきかどうか一瞬逡巡した。
この、テンション低く抑揚なく空気の抜けた発声は間違いなくあの先生の発声だと思ったからだ。

服部はあの先生がキライだった。
別に嫌うほど親しくしたこともないが、なんかキライだった。

「…なんですか坂田先生」

聞こえなかったことにするには距離が近すぎたので、服部は諦めた。
服部は諦めるのがわりと上手かった。

「服部先生、あの件なんですけど」

あの件。

「個人的には大したことではないと思うんで、放置でいいと考えてるんですが」

あの件。大したことではないあの件。
あの件。あの件。

なんだっけ。

「服部先生もそう思われてるんでしょ。いや、いいですいいです。時間なかったから仕方ないっすよ。実際、時間なかったしねぇ」

時間なかったから仕方なかったあの件。

「あのすいません、何の事かわかりません」

「またまた。意外と冗談とか仰るんですね服部先生は。日本史とかやってると冗談ひとつ言えない人間になるんだとばっか思ってましたよ僕は」

「…あのすいません、ほんとに何の事かわかりません」

「ああ、わかってます。服部先生がそういう方向性で行くつもりなら、僕も勿論従いますよ。僕も、言ったとおりあの件についてはスルーの方向ですから」




服部は、どうしよう、と思った。
どうしよう、あの件がなんだったか全然思い出せない。

ていうか、ほんとにあの件って存在する件なのか。存在しない件のような気もする。
この先生の場合、存在しないことをあたかも存在したかのように話すみたいな事すごくしそうだ。

でも、ホントに何かあったんだったらどうする。
思い出しておかないと、今後いろいろと支障出るんじゃないだろうか。

「あの坂田先…
「服部先生、スルーとは言っても、筋だけは通しておきたいんで」

服部は、あの件が何なのかはっきりさせておきたいと思ったが、諦めた。
服部は諦めるのがわりと上手かった。

「はいこれ」

4,000円。

なにこれ。

渡されたクッチャクチャの紙幣。

服部は考えた。
坂田先生に、対価として4,000円を請求するような事実があったか。

いや、ない。

と思う。

「…いや、もらえないっすよ」

「いやいや、そんなこと言われたら困ります。お釣りはきちんと受け取ってもらわないと。フェアじゃないです」

お釣り?釣りなのか?

こっちが請求したんじゃなくて、あっちが請求したの?
4,000円のお釣りという事は、10,000円渡して4,000円のお釣りか?5,000円渡して4,000円のお釣りか?
あの件とは、6,000円あるいは1,000円相当の事実なのか?

というか、10,000円も5,000円も払った覚えない。やっぱ嘘話してんじゃねーのこの人。

いや、しかし、嘘話の補完のために4,000円も出すだろうか。

「あの、受け取れないっすよ。…よくわかんないですけど、こういうことはお互い様ですから、次の時に埋め合わせしてくれればいいですから」

「あそうですか」

坂田があっさり引いて、内ポケットに素早く4,000円をしまうのを服部はぼんやりと見ていた。

あの件、が何かは不明だが、とりあえず金の授受は避けられたようなので、なんかこれでうまくこの場は切り抜けたような気持ちになった。

授業もあるので、いつまでもこのなんかキライな坂田先生に構っていることはない、と思った。

「あの、じゃあ私もう行きますんで」

「ちょ、待って下さい」

「なんですかもう、忙しいんですけど」

「服部先生、お釣りは次の時の埋め合わせにってことは、あなた後4回分貯金あることになるわけですよね」

4回。4,000円で4回。じゃあ単価1,000円。


ていうか単位は1回2回なのか。


「金のことっすから、きちんとしたいんです。次いつにします」

「や、金はいいっすよ、いつでも」

「そうはいきませんよ。仮にも教職に就くものがあんた、そういう事うやむやにしたらいかんでしょうがぁ」

「も、いいですったら」

「いかんです、はっきりさせましょう」



はっきりさすのはお前だろうが!すべてが曖昧だお前の言う事はぁ!



「ていうか、マジ俺覚えてないから。何、1,000円て!知らねーし、そんなん知らねーし!」

「嘘ぉ!マジでか服部先生!あんた、忘れていいことといかんことがあるぞ世の中にはぁ!」

「知らねーよ!何なんだよ何があったんだよ!」

「そりゃ時間なかったからスピード勝負だったさ、雑だったかも知らんさ、けどあんた、すごいすごいってあっという間によぉ!テメー、人が大人の気遣いで触れないでおいてやったっつうのに!」

「なにそれ何の話?!」

「あんた人にチンポしゃぶらせといて、そりゃないだろがぁ!」




「服部先生ェ、銀八にそんなもんしゃぶらせたんですかィ」

「…沖田くん、教室に戻りなさい」

「へーい」




素直に教室に戻る沖田の後ろ姿を見送りながら服部は絶望していた。

「喉の奥まで犯したくせによォ」

犯してない。

「あんた痔だっていうから、ケツは我慢してやったのに。そんなに俺は下手でしたか?金いらんから、もうしたくないくらい下手でしたか?」

坂田は、徐に内ポケットにしまった4,000円を再び取り出し、服部の顔面にきつく投げつけた。

服部は、なすすべなく、それを顔面で受けとめた。

「もうわかった。言うとおり釣は返さねぇ。これは支払いだ。…テメー同僚だと思ってちょっと優しくしたら付け上がりやがって。覚えとけよ服部先生。絶対やってやるからな。お前をチンポ大好物の肉奴隷に改造してやるから」

なすすべがなかった。
顎を掴まれて、至近距離でそんなことを囁かれ、服部はなすすべがなかった。

しかも、坂田先生のフェラは1回1,000円、自分の後ろは1個4,000円なのだった。
安いような気がしたが、今更どこから訂正すればいいかわからなかった。

始業のチャイムが鳴った。

坂田は服部をバックスイング付きで乱暴に解放すると、よろめく服部の尻に容赦ないキックを一発入れ、

「あ、痔だった。忘れてたごめん」

と言い捨てて、立ち去った。




踞る服部。

這いつくばった視界に、女生徒の足が見えた。




「あ…猿飛」

「私の先生を汚しやがって。この、雌犬が」




顔面に唾を吐かれ、服部は、困ったことになったなーと思った。

思ったが、服部は諦めるのがわりに上手かったので、もうどうしようもないなー、とすぐに諦めた。









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