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左耳の後ろから鎖骨にかけてを繋ぐ真っ直ぐな筋が皮膚の下で強く張っている。
その筋の上、左耳の耳朶の端から指3本分下がった位置に薄赤い痕がある。
情痕だ。
その時の銀時の様子を、どうしてか忘れることができない。
震える喉を大きく晒して、しかし細めた目はどこか明後日の方を見ていた。
網膜に焼き付いたように、鮮明に記憶している。
*
「馬鹿だろ。マジで馬鹿だろ」
神楽が洗濯機に柔軟剤と間違えて漂白剤を入れた。
万事屋の洗濯機は二漕式だ。洗濯物を脱水漕に入れかえようと中を覗いた銀時は
「白っ」
と声を上げたきり、洗濯機の前に立ち尽くした。
洗濯漕に浸かるシャツ、靴下、バスタオル、神楽のブラウス、神楽のズボン、銀時の着物など全ての洗濯物が、白からアイボリーに至る色調へと変わっていた。
あいつのバカはどうしたら治るだろうか。いいものでも食わせたら治るのか。
「何食わせたら治ると思う?」
白い物ばかりになった洗濯物を干しながら銀時が訊いた。午前中の明るい太陽が白い洗濯物をより白く光らせていた。
新八は洗濯バサミでタオルの端を留めながら
「蟹」
と答えた。
*
あの日、銀時の背中に向けて発砲された銃弾は、撃ち手の意思を裏切り銀時の着物の裾を掠めただけで無為に地面にめり込んだ。
顔色を変えた周囲の者が撃った男を取り押さえ、立ち上がったばかりだった男は再び地面に押し付けられた。強く押さえ込まれた男は弱々しく頭を庇い、仲間の叱責をただ受ける惨めな姿を晒していた。
新八の中に今さっきまであった男に対する憐憫は消え失せていた。
既に話は終わっていたのに、事は収まっていたのに、この男はそれをぶち壊した。しかも収束の切欠を作った銀時をこの男は撃とうとした。一番最初にやられたくせに。敵を叩く事に徹底的な銀時がこの男を殺さなかったのは、あれが単に儀式だったからだ。それなのに、この男は銀時を撃とうとした。馬鹿だ。信じ難い愚か者だ。
乱闘を傍で眺めたせいで新八は興奮している。もともと血が上っていた頭は簡単に沸騰した。男に対する哀れみは、そのまま怒りに変わっていた。
地面に這い蹲る男の姿は虫けらのようだった。この上なく惨めだった。
そして男の姿が惨めであればあるほど、新八の怒りはいや増した。
この虫けらのような愚かな男は、虫けらの分際で、銀時の命を取ろうとした。
新八は手に持った男の所有である凶器を握り締め、男を睨み付けた。
ぶっ殺してやりたい。
「…あっぶねぇな」
銃弾で抉れた足下の舗装を見下ろした銀時はそう呟いて、止まった足を何事もなかったようにまた歩かせた。背後から掛かるやくざ達の謝罪と弁明には振り返りもせず、忘れる、とだけ応えた。
その一言で男の行動は呆気なく不問に付されたが、新八は許す気になれなかった。
だるそうに近付いてくる銀時に駆け寄る。腕を掴むようにして立ち止まらせ、何事かと目を丸くする本人を余所に弾が掠めた辺りを確認した。
弾は、着物を破きさえしなかった。その辺りが少し焦げて繊維がささくれているだけだった。
「あいつ、信じられないバカだ」
安堵したものの腹立ちを抑えられない新八が低く呟くと、銀時は何を今更と薄く笑い、
「この街の奴らはみんなバカだろ」
新八の肩を軽く押し退けた。
銀時はそのまま歩いて行ったが、新八は銀時とは反対の方向へ進んだ。
地面に這い蹲る惨めな男の前に立つ。男は額を地面に擦り付けるように顔を伏せていた。
男を抑え付けるやくざ達が見守る前で、新八は手に持つ歪に減った刃物を、物乞いに小銭をくれてやるように男の頭の前に投げて落とした。
*
両手で広げた着物の向こうから、太陽光が透けてくる。
神楽が入れた漂白剤は裾の模様を脱色したが、弾道が作った焼け焦げは消さなかった。透けてくる白い光が、小さな茶色い焦げを際立たせて見せていた。
「あの男、どうなったんですかね」
「誰」
銀時はしゃがんで、脱ぎ方が悪いせいで片足だけ裏返った神楽のズボンを直している。これも漏れなく漂白されて、鮮やかな赤がごくごく薄い褐色にくすんでしまっていた。
「銀さんの事を撃った男」
「さあなぁ。どうなったかな」
「指くらい詰めたかな」
日向の物干し紐にかけた着物が春先の風にそよいで、その度に新八の顔に淡い影を作ったり光を当てたりした。
「そりゃないわ」
「なんで。勝手な事して迷惑かけたやくざはそうやって責任取るんでしょ」
「お前、俺の事なんだと思ってんの。俺ぁただの万事屋で、VIPでも何でもありませんよ」
しゃがんだ銀時が、神楽のズボンを手渡してくる。新八は受け取ってハンガーに引っ掛けた。
納得がいかない。
あの男は酷い目に合うべきだ。相応の報いを受けるべきだった。
この街が銀時をどういう位置に置いているかはこの際関係ない。この街がどうだとか、万事屋がどうだとか、そういう事ではない。
新八の心情に応じた報いを受けさせたかった。
下手をすれば、あの時銀時が撃たれてしまった方が良かったとすら思う。そうすればあの男を正当に酷い目に合わせてやれただろうから。
本末転倒している。だが感情が先走ってどうにもならなかった。
「…なあ」
眉間に皺を立てて考え込む新八は声をかけられて我に返った。
しゃがんだままの銀時が、たった今洗濯紐にかけた神楽のズボンを指さしていた。
その指が示す先を辿った新八は、瞬間言葉に詰まった。
新八には姉がいる。生身の女の生活は、彼女を通して意外と新八の身近にあるものだ。
片足だけ裏返った状態で漂白された赤いズボンは、布地の寄れた部分だけ塩素の影響を免れた。そこだけ、真っ赤な色が残っている。
裾の縁取りに小さな花の意匠がされた少女らしい造りの服が、まるで経血に汚れたようになっていた。
「なんか…微妙な感じに…」
ど、どうしますか。
変にどもりながら銀時に訊くと、銀時は喉の奥でうーんと唸り
「もっかい漂白するしかねぇだろうなぁ」
と、罪の無い様子で揺れている洗濯物を見上げた。
空は快晴だった。
洗濯物はいくらでも乾くだろう。
*
金がいるからですか。
新八が尋ねると、銀時は、理由がいるのかと逆に質問を返した。
新八は、いる、と断言し、そして心の中で、当たり前だ馬鹿、と銀時を罵った。
それから大分時間が経ったが理由は未だ示されていない。
理由がいるのだと言った新八は、理由を与えられないままに、ただそれに慣れていった。
自分でも慣れた事が信じられない。到底、慣れられるような事ではないはずのそれに新八は慣れていった。或いは自己防衛が働いたのかとも思う。慣れなければ正気でいられなかったかもしれない。
しかし慣れたという事はそれだけで罪だ。それに対する嫌悪を磨耗させたという一点で十分に罪だった。
新八は慣れるという形で銀時を幇助し、しかも積極的に加担しさえした。
明らかに善意の第三者ではない。完全な共犯だった。
この事実は日常のふとした拍子にさり気無い形で、しかしありありと新八の前に突き付けられる。
例えば、首の鬱血痕のような形をとって。
*
銀時が机の上に覆い被さってうたた寝している。
締りのない寝顔は横を向いていて、首が不自然に捻じれていた。
新八はその捻じれた後ろ首に赤い痣を見る。
いつまでも消えない、と思う。
「銀さん」
机に被さった銀時の手は前に伸ばされていた。机の端からは指先が落ちている。
新八は銀時の名を呼びながら、机から落ちた指先に触れた。
背中を日差しで暖められているせいで、指先までが温もっていた。さっきまで洗い物をしていた新八の手は冷たい。体温を貰うように、親指と小指を除いた三指の第二関節までを握った。
「銀さん」
二度目の呼び掛けで重たい目蓋が細く開く。
新八は少し身を乗り出した。そして銀時の耳に口を近付け、落とした声で言った。
「仕事です」
新八の手に入っている温かい指が、少し動いた。
別に申し合わせたわけではないが、共犯関係の中でいつの間にか出来上がった、これは合図だった。
手を掴んで仕事、と言う。
手を掴む事で、それではない仕事との区別をする。
金がいるからなのか。
もしも今、そうだと答えを貰ったとしても新八は何一つ納得できないだろう。これは、そのような単純な回路で導き出せる結果ではない。
最初に訊いた時にそう言われていれば、それに対して反発でも何でも出来たかもしれないが、今そう答えを与えられたところでそのような簡単な反応は出来ないと新八は思っている。
そうするには、共犯を累ね過ぎた。知り過ぎたのだ。
見聞きしたあらゆるものと、それから生じた感情が、そして何より共犯関係を結んだ自分の選択が、新八に単純な反発をさせなかった。
「知ってる奴か」
机に突っ伏したまま動かずに、銀時が言う。
その横顔を見下ろしながら新八は、目線がどこに向いているのかわからない、と思った。寝起きで目が虚ろなわけではない。既にしっかり開いた銀時の目は、どこか明後日の方を見ていた。
銀時の指を握る力を新八はほんの僅か強めた。
「半年程前までよく来てた人です。名前は、」
告げられた名前に銀時は覚えがなかった。新八はその人物の大まかな年齢や風貌などを説明した。
それで思い当たったらしく、ああ、あいつね、とだるそうに呟く。
呟くなり大きく息を吸うと、机の上に伏せていた上体をゆっくり起こした。椅子が軋んで音を立て、新八が握っていた指が、銀時の動きに合わせてゆっくりと手の中から擦り抜けていった。
「あいつ、下手クソなんだよ」
起き上がる時に吸った息を使って、溜息を吐くように銀時が言った。
息で掠れた銀時の言葉を聞きながら、新八は、単に金だけの話であるならどれだけいいかと思う。
銀時は体を売っている。
新八はそれを手伝っていた。
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