貴婦人と犬

夕方、街の形相が毒々しく美しく変わる頃、総悟は制服のままで川向うに街を望む堤防のそばに佇んでいた。




既に屯所へ戻る時刻は過ぎていたが、常からそういうったことを厳密に守る方ではないということは周知の事実なので、あと少しはいいだろうと思っている。

汚れているはずの川面は薄暗がりの中では汚れを暗闇の下に塗りこめてしまい、傾いた陽のきらめきを化粧して、物悲しいように美しい。
一面に広がる枯れた葦の原が、冷たい風にあおられて蠕動するように波打っていた。

総悟は、もう半時以上、そこに佇んでいた。刀の柄を無意識に握る手や、靴の中のつま先が冷え切って痺れているが、本人は気付いていない。

こうしていると、背の高い葦を掻きわけて亡くなった肉親がふと現れるようで、ぞっとする。
先ごろ亡くなったばかりの、大人しい姉が、あの楚々とした所作と発声で

「総ちゃん」

と呼びかけてくるような気がする。

あんなに別れたくなかったのに、一旦向うに行ってしまうと、もう恐ろしく感じるというのはどうしてだろうと総悟は思った。
昔、駄菓子屋のババァが話してくれた昔話に出てきた、こっちとあっちを分かつ川には、どんな水が流れているんだろうか。

近くにある水門は開いており、勢いよく水が放出される音が震動とともにどこか遠く伝わってきていた。




翌朝の新聞が楽しみだ。
一般紙は『度重なる不祥事』程度に、スポーツ紙あたりは『またお手柄』などの皮肉をもって書きたてるんだろう。

総悟は、自分が組織に向かないとは思っていない。
むしろ向いている。
あのくそったれ野郎みたいにお行儀よくはないが、多少やんちゃをする者としての、お行儀のいいやんちゃの範囲を自分はよく心得ていると思う。
適度な批判の対象、適度な道化ぶりは、我ながらあざとく感じるほどだ。

こういう毎日はきらいじゃねェさ。
何しろ、近藤のために働いている。自分を近藤のために切り売りしている。
総悟にとってこれほどの幸せはなかった。

近藤に会って初めて自分という存在が対象化された総悟にとって、近藤は初めての世界であり、そしてその後も世界は近藤を通してのみ総悟に触れてきた。
総悟にとって、近藤は世界そのものだった。

別に閉塞はしてねェよ、狭窄はしてるかもしれねェが。

「他の世界なんて要らねェさ」

総悟は鼻で笑って、握っていた柄から一瞬手を放し、次の瞬間には再び柄を握るや、光のような速さで抜き打った。
鼻の先に伸びてきていた葦が束になって千切れ、風に煽られて見る間に散る。
目前の葦が刈られて、開けるかと思った視界は、その向うにも無限に茂る葦に邪魔されて結局は開けなどしなかった。

俺は何も見えなくていい、俺は盲目の地虫みたいに近藤さんの内に潜んで、その中でだけ小器用にやっていればいい。
というか、永遠にそうしていたい。
それ以外にやりたいことなんか、なんもねェんだ。
それ以外にどうすればいいかなんて、考えたこともねェんだ。

あの土方の野郎がこの俺を、事あるごとに貴婦人に抱かれた咬み癖のあるマルチーズを見るみたいな目で見やがらない限りは、俺はそれでよかったのに。
マルチーズが貴婦人に抱かれてないと移動できねェことを引け目に思ったりもしなかったのに。

「てめえだって、首に鎖つけられてないと不安で移動できねェんだろうが。畜生。バカヤロー」

もう一度、葦を薙いでやろうとした瞬間

「総悟」

と呼ばれた。
ぎょっとして、首の後ろの毛が総毛立った。

「お前、何してんの。何時だと思ってんの」

姉とは見間違いようのないでかい男だ。

「…近藤さん」

「しょうがねぇなぁ、お前は。一緒に帰ろう」

近藤が、総悟の肩を車を待たせてある土手の方に軽く押した。
長い時間動かなかった総悟の足は、いとも簡単にそっちの方向に動いた。

…俺ァ、やっぱマルチーズだ。




車の中で待機していた神山が、最初に総悟を見つけたのは自分であるとしきりに主張し、褒めて欲しそうにしていたから、総悟はあからさまに無視してやった。
神山はその処遇に何故か満足気だった。

川を越えるための橋を渡る。

日は暮れきっており、川面は闇に飲まれていた。
車は軽々と川を横断し、完全に毒々しく変態してしまった街に吸い寄せられるように向かう。

冷え切った総悟は、先ほどからしきりに背中に悪寒が走っている。風邪でもひいたかもしれない。

「ねえ、近藤さん。お願いがあるんでさ」

「なんだ」

「…あんたの膝に座ってもいいですかい」

近藤と、運転している神山が同時に目を剥いた。

俺は今のこの状況が一番心地いい。だから、その状況を楽しめばいい。と総悟は思う。

「いいですかい」

二度目を聞きながら、断られても座ってやろうと総悟は内心ほくそ笑んでいた。









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