虫食い

銀さんの印象は透明だ。


僕の意識の中で、銀さんがいるところは綺麗な透明になっている。

何故かはよくわからないけれど、とにかく銀さんのあるべきところが僕の意識の中で透明になっていて、後で銀さんを思い出そうとしてもよく思い出せない。
思い出せないけれど、それがあまりにも潔く透明なので、モザイク状の僕の意識の欠片の中、無視できないくらいに際立つ。
無視できない僕は、目を凝らしてそれが何なのかを見極めようとするけれど、どうしたって透明なので、結局何なのかよくわからない。


僕にとっての銀さんはそういうものだった。





「じゃ、ごくろうさん。」

と言って、銀さんがこっちを見もせずに手だけ上げて別れの挨拶をした。
僕は、窓からの夕日で黒く抜かれて影になった銀さんを見て、はい、と返事をする。

窓の反対側にある玄関の戸を開けると、外は薄暗い夜になっていた。

外付けの階段を降りながら、僕は今日の銀さんのことを思い出していた。
今日は別に仕事もなくて、銀さんは神楽ちゃんと並んで終始ごろごろしていた。
昼ごはんは銀さんが雑な麺類を作った。切れない包丁で無理に人参を切ろうとして、かわりに指を切っていた。
電話は2件あった。つまらない用事だった。
僕が雑誌とか新聞をビニール紐で括るのを見て、その括り方にケチをつけてきた。
仕舞っていた着物を虫に食われて穴が開いたと言っていた。
神楽ちゃんにせがまれて、彼女の髪を下手くそな三つ編みにしてやっていた。
爪を切っていた。昼に切った指の傷が痛いと言っていた。
こっちを見もせずに挨拶をした。


僕はその時々の銀さんがどうだったか、やっぱり思い出せなかった。
表情や、声や、姿や、体の細部がどうだったか、思い出せなかった。意識の中からそれらが抜け落ちて、透明になってしまっていた。
僕は僕の意識の中の、その透明部分がどうしても気になる。
これは何なのか、どういうものなのか。

空は残照で青と紫の中間の色をしていた。
複雑な色の空には、やたら目立つ星が一つっきり出ているばかりだった。

僕は何も考えずに、降り切った階段を引き返していた。





「何よ、お前。」

室内には照明が付けられていた。
銀さんは、怪訝な声を出して僕を振り返った。
白く明るい室内では、銀さんの姿がよく見えた。
髪とか、皮膚の色とか、表情とか、体の形とか。
僕は明りの下で、忘れていた銀さんの諸々を確認したけれども、それだけでは物足りなかったので、背中から羽交い絞めにして、その後頭部に鼻先を埋めた。
体温や感触や匂いを僕は確認した。
銀さんはもう一度

「何よ、お前。」

と言った。
今度は怪訝な声ではなかった。
しかし、声を聞いてもやっぱり銀さんが何なのかを見極められなかった僕は、このまま離れればまたすぐに確認した事を忘れてしまうのだろうと思った。





「参ったな。」

銀さんが昼間、虫に食われたと言って騒いでいた着物を持ち上げている。
虫が食った穴から、向うにある照明の光がぽつんと洩れていた。
さっき見た星みたいだった。

「あんたの始末が悪いから、そんなことになるんですよ。ほつれる前に縫ったらどうですか。」

「面倒くせぇから、このままでいい。小さいから目立たねぇだろ。」

と、銀さんは言って、着物の向うから指先で穴を塞いだ。
照明の光が銀さんの指で遮断されて、その間、穴が無くなったように僕には見えた。


その時、急に、僕は、銀さんはこの虫食いの穴みたいなものなんじゃないだろうかと思った。
銀さんは透明な何かなのではなく、そもそもが僕の意識に開いた穴みたいなものなんじゃないだろうかと思った。
だから、見極めようとしても何も見えないのかもしれない。
僕に見えているのは銀さんではなくて、その時々の向うにある何かだから。


僕は着物の穴を塞いでいる銀さんの指を着物のこちら側から掴んだ。

「痛ぇな。何すんだ。」

昼に切った傷のことだ。
この指のように、僕の意識の向うにあるものも簡単に掴めればいいのにと思う。


着物の穴は小さくて、爪の先ほどだった。
銀さんは気にならないと言うけれども、僕にはとても目立って見えて、気になって仕方ない。

銀さんの始末が悪かったせいで開いた穴だ。
面倒臭いから縫う気もないらしい。


僕は、それに僕の指をねじ込んで、そこから着物をいっそ引き裂いてやろうかなどという物騒な事を顔色も変えずに考えていた。









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