夜のチェシャ猫
パー子さんの性格は最悪だ。
「うるせぇんだよ、ブス」
と言って、パー子さんが同僚のオカマの顔面を平手で張っているのを見ながら僕は思った。
張られたオカマは鼻血を吹いて、ひどい、と言って泣き出した。
僕も、ひどい、と思った。
なんていうひどい性格だろうか。
「よくそんな不細工な面して生きてられるよな。死ねよ早く」
パー子さんは、蹲って泣くオカマを見下ろして、更にひどい台詞を吐いた。オカマはもっと泣いた。
見かねた他のオカマが、パー子さんを諫めに入ろうとしているのを見て、僕は、いけない、と思った。
今のパー子さんに何かを言えば、パー子さんは余計調子に乗って、大喜びで更に状況を悪くするだろうと思った。
「パー子さん」
僕はパー子さんを呼んだ。
「帰りますよ」
パー子さんは振り返って僕を見た。
そして崩れかけた化粧の顔で、にやっと笑った。
みなさん、すみません。すみません。
僕はそこにいた全ての人たちに何度も頭を下げる。パー子さんがこんなんで、すみません。
パー子さんに殴られて鼻血を出したオカマにハンカチを差し出したが、泣いてばかりで受け取ってくれないので、横座りの膝の上にきちんと折り畳んだそれを置いた。すみません、すみません。
「ぱっつぁん、帰ぇるぞ」
パー子さんが突っ立ったまま鼻をほじりながら、状況に全く配慮のない間延びした口調で言った。
僕は慌てて、はい、と答えて、パー子さんの雑に物が詰め込まれてやたら膨らんでいるバッグを拾い、もう一度そこにいる全ての人たちに頭を下げた。
パー子さんの、鼻をほじっていない方の手が、甲を上に向けてだらりと僕に差し出されている。僕はそのでかい手を一人前のレディのそれをそうするように丁寧に取った。
「帰りましょう」
パー子さんは僕の声を聞いて、またにやりと笑った。
僕はパー子さんの手をそっとしっかり握っていたが、パー子さんの手は握り返して来ないで、脱力して僕に握られるままだった。
また何度か頭を下げてからドアを閉めると、パー子さんは僕に握られた方の手を乱暴に撥ね退けた。
怒ったのかと思ったが、撥ね退けたその手をパー子さんは僕の腕にするすると回してしがみつき密着すると、僕の頭の上に頭をのせた。
腕にパー子さんの嘘胸と、頭の上にパー子さんの耳と頬っぺたがあたっているのを感じながら、僕はパー子さんが怒っていないとわかって安心した。
僕は、何をおいても、パー子さんに怒ったり悲しんだり辛い思いをしたりしてほしくないのだった。
「パー子さん、あんまりひどいと、皆さんに愛想を尽かされますよ」
「うるせぇな。お前が俺に説教すんな」
説教すんな、とか反抗的なことを言っておきながら、パー子さんの体はより僕に密着してきた。
パー子さんに密着されて、縺れるように狭いエレベータに入る。
僕は片腕に膨れたバッグ、片腕に膨れたでかいオカマを抱えて荷が重く、息切れがしそうだった。
息切れがしそうな僕に嘘胸を押しつけながらパー子さんが言った。
「胸、揉んでみるか?」
何を言っとるんだこのオカマは、と思った。
思ったが、僕はパー子さんの幸せのためなら奴隷になる覚悟はとうの昔に出来ている。揉んでみるか、と訊いてきたということは揉んでほしいということなので、僕は素直に、はい、と言って、丁度僕の二の腕に乗っかっている感じの嘘胸をあらん限りの握力で鷲掴みにすると、めちゃめちゃに揉みしだいてやった。
パー子さんは
「ア」
とか言って喜んだ。
何にも感じていない癖に「ア」とか言うパー子さんは、とことん僕、というか世の中をバカにしているのだと思ったが、パー子さんがそれで喜ぶのなら僕の方は全く問題ない。パー子さんの喜びは僕の喜びなのだった。
「ぱっつぁん、ぱっつぁん」
興がのってきたパー子さんは、僕の肩を頼もしい腕で身動きできないくらいの力で抱き寄せて、僕の名前を何度も呼ぶ。
僕は身動きがとれないまま、唯一自由になる掌でパー子さんの嘘胸を乱暴に揉み続け、パー子さんに呼ばれる度に、はい、はい、と律儀に返事をしてやった。
「俺は、本当はいい人なのに」
と、1階に着いてもエレベータから出ないで、僕に嘘胸を揉ませながら、パー子さんは言った。
「本当の俺をみんなに知ってもらって、好かれて、可愛がられたい」
そう言うパー子さんの眼差しは寂しげで憂いを含んで濡れていて、青いマスカラが流れかけていた。
僕はパー子さんの袖口から手を入れて、パー子さんの嘘胸の下に指先を忍び込ませた。厚い胸板の上に乗っている乳輪を探り当てると、その真ん中で米粒のような冗談みたいな乳首が健気に勃起していた。
「寂しいよ、ぱっつぁん」
パー子さんは僕に胸を愛撫させながら、僕の体を抱き枕のように全身で抱き締める。僕は窒息しそうになりながら、それでもパー子さんがこれで安心するのならと思って耐えた。
「寂しくないですよ」
パー子さんの乳首を雑に撫でながら、同じ調子で、自動的に開こうとするエレベータの扉の『閉』ボタンを連打した。
「だって、パー子さんが本当はいい人だって僕は知ってるから。
僕がパー子さんはいい人だって知ってて、好きで可愛がってるから。
みんなに知ってもらわなくてもいいんです。僕が知ってるから。
だから寂しくないんです。わかりましたか」
僕の言葉を聞いたパー子さんは、殆ど持ち上げるようにして僕を抱き締めた。そして僕の口の中に酒臭い舌をねじ込んだ。
建物から出ると、青白い朝日が辺りを薄く照らしていた。
青白い光を浴びたパー子さんは急に洗いざらしたように、憑き物が落ちたようになった。
僕は、その気配を感じて、夜が明けたのだな、と思い、
「銀さん」
と呼んだ。
銀さんは僕を見下ろし、そこだけまだ夜が残っているような顔で、にやっと笑った。
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