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大手門前の堀端で佇む長谷川の手には、小さく破り取られた紙切れが握られている。季節は秋も深まった11月の初頭で、水端を歩くには肌寒い。堀沿いに並んでいる柳の枝を微かに揺らす微風が、濁った水を湛える堀の表面を撫で、さざ波を立てていた。
日本中どこでも司法官庁というのは概ね藩制時代の城址付近に存在し、そしてその周りに巣食うように法律関係の事務所が密集している。弁護士、司法書士、土地家屋調査士など、見上げれば至る所にそれら法律系の事務所の看板が上がり、一種異様な雰囲気を醸し出す。
その一大コロニーの中に単身乗り込むと、謂れなく己が異物であるかのようで不安を煽られる。
長谷川はバーバリーのコートの前で腕を組むようにして、心細さと肌寒さから身を守った。




妻が家出した事に気付いたのは、妻がその旨を記したメールを寄越した日から数えて3日後の事だった。仕事に多忙な長谷川は、姿の見えない妻についてまた友人達と旅行にでも行っているのだろうと勝手に思っていた。それだもので妻が差し出し人であるそれを開封せず放置していたのだ。
こうした事はかつてよくあり、今回も例に洩れずそうしていた長谷川は業務的な十数件のメールの下部に追いやられた妻からのメッセージを職場のデスクでコーヒーを飲みながら何気なく開封して呆然とした。呆然とし、そして動揺した。動揺のあまり震えた左手がコーヒーの紙コップをひっくり返した事にも、それがプリントアウトしたばかりの書類の束に滲みた事にもしばらく気付かなかったほど動揺した。

「…ウソォ。」

それはあたかも職場内で遣り取りする事務連絡のように端的で、あらゆる感情を削ぎ落しきった短い文面だった。反面、極端に事務的な分、その裏にある蓄積されて淀みきった感情を連想させてあまりあるものだった。
長谷川は震え上がった。
そのメールから伝わる妻の感情と、自分の失態への後悔と、それを寄越された事に伴うであろう現実に、である。

自分は愛妻家であると思っていた。
事実、困難を乗り越えての恋愛結婚であったし、その後も間違いなく人生の伴侶として妻以外には考えられないと思い続けてきた。
思い続けてはいたが、それは妻には伝わっていなかった。
伝わらなくて当たり前だった。長谷川が伝えていなかったのだから。
『実家に戻ります。離婚届を自宅宛て送りました。捺印頂けない場合の連絡は私でなく代理人弁護士の…。』というメールを見たのが、発信されて3日後だったという事実にそれが如実に現れている。
仕事に打ち込んでいたといえば聞こえはいい。しかし正確に言えば仕事に耽溺していた、というのが正しい。いわゆる逆玉婚であった長谷川は、妻の父の口ききで就いた仕事が順調であり、その上、かつての自分が夢想もしなかった権力というやつを持つようになったことに浮かれていたのである。という事に妻からのメールを見て今更気付いた。
気付いた時には全ての形が出来上がっていて、後はどれだけ急ごうと全てが遅延という事になってしまったのだった。




長谷川は切り取られた紙切れに汚い鉛筆書きで記した文字を眺める。

大手町○−○○、坂田法律事務所、TEL○○○−○○○○、※TELの上訪問。

この汚いメモが現在の長谷川の蜘蛛の糸だった。
今まで自分が築き上げてきたもの全ての基盤が、妻とそれに繋がるものから、いわば貸与されていただけの長谷川にとって、それを断ち切られたとなると頼るものは実際何一つない。
呆然としている長谷川を憐れんだ同僚の一人が紹介してくれたのが、このメモに記載されている代言屋だった。
向こうが代理人を立てたなら、こちらも専門家に相談しておいた方がいい、と同僚は言い、それから『大変だな』と言って、長谷川の屈んでしまった背中を叩いた。この同僚は3度も離婚経験があり、長谷川はこの男と飲んで酔いが回った時に、夫婦生活とは信頼関係だ、などということを言って、自慢と非難を同時にした事がある。この状況に至って、長谷川を励ました時の同僚の目が微妙に笑っていた事が長谷川を深く傷付けた。
しかし、紹介者と自分の関係はともかく、少なくともそういった事の経験者が紹介してくれた事務所である。
突然暗闇にぶち込まれた長谷川にとっては、これは淡いながらも確かな光なのだった。というか、そうであってくれないと困るのだ。
長谷川は水辺の寒さで固まりかけた足を軋ませて、電柱に記された番地を頼りにメモの所在地を目指して歩き出した。




1階が飲食店になっている狭苦しい雑居ビルの裏側にある階段を使って2階へ上がると、薄暗い通路の奥まった所にプラスティックのプレートが貼り付けられたドアが見えた。プレートには、紙切れにあるのと同じ事務所名が記載されていた。
随分うらぶれている。
長谷川は不安を抱かないではなかったが、弁護士も最近は規制緩和だ何だで世知辛くなって、やっていくのは大変だと小耳に挟んだ事もある。まあ町弁なんてこんなもんだろう、と自分を納得させドアの傍に付いているインタホンを押した。古臭い呼び出し音が鈍く響く。

「ハイ。」

ややあってから返答があった。若い女の声だ。

「あの、お電話しました長谷川と申しますが。」

「伺ってますネ。」

ドアの向こうで、急ぐでない足音の近付いて来る気配があり、『早くしろよ』と思いかけた所でドアのロックを上げる音がした。
恐る恐るノブを回し、少しずつ開いていく隙間から中を覗くようにした長谷川は、突然向こうから容赦ない勢いでドアを引かれて、次の瞬間、つんのめるようにして中に転がり入った。
つんのめった両手が中に敷かれていたドアマットに付き、膝をタイル張りの三和土に打ち付けた。抱えていたブリーフケースが落ちて口を開け、中身がはみ出した。最後に、手に握っていた紙きれがひらりと長谷川の頭に乗る。

「アレ?」

先ほどのインタホンの声の若い女、というか少女のような小柄な事務員が、

「だいじょぶアルますか?」

と言い、それから四つん這いになったままの長谷川の目の前に何事もなかったかのようにスリッパを並べた。並べられたスリッパは、短針と長針の根元が離れている2時45分を差していた。

「…あ、いや大丈夫です。すいません。」

膝を払いながら立ち上がった長谷川は何故か自然に謝っていて、何で俺は謝るんだ、と至極まっとうな感情を抱いた瞬間に、

「ハイ、これ。」

と、落としたバッグを渡され、

「あ、すいません。」

理不尽にもまた謝っていた。




事務所の中はやはり狭く薄暗くうらぶれた感じだった。
エントランスともいえない入口で靴を脱ぎスリッパに履き替えると、目の前は真っ直ぐ短い廊下になっていて、どん詰まりに小さい窓がある。窓の向こうは隣のビルの壁だった。短い廊下の左右にドアがあり、小柄な事務員は長谷川を右側のドアの方へ案内した。左側のドアが恐らく事務室になっているのだろう。
長谷川は廊下に置かれたコピー機と積まれたコピー用紙の束を避けるようにしながら、案内された応接室に入る。

応接室の中は、応接室とはいえないほど雑然としていた。申し訳のように置かれた粗末な応接セットだけが辛うじてここが応接室であることを教えていて、それがなければただの倉庫同然だった。コードをガムテープで束ねた古いコピー機が隅にでん、と置かれ、その周囲に寄りかかるように綴られた書類の束やファイルが山を作っている。室内の壁は全てが棚になっていて、そこに六法やそれに類する辞書、判例専門誌、それからまた大量のファイルが詰め込まれている。一つだけある窓は、その棚に邪魔されて半分以上が隠れていた。

固いソファに座ってぼんやりと室内を見回しながら、長谷川は妻の事を考えた。
正直な話、仕事にかまけて妻を顧みなかったのも確かに原因の一つだろう。まだ妻の代理人とは連絡を取っていないから、妻がどういう理由でこの結論に至ったかについては確証が持てない。しかし、たった一つだけ、長谷川には身に覚えがあった。自分に顧みられていないと感じていた妻が、ここまで踏み切ってしまう、たった一つの原因。

…そうだ、あれだ。あれに気付かれたのだ。そうとしか考えられない。

そこまで考えていた時、突然ドアが建てつけの良くない音を立てて開き、長谷川は飛び上がりかけた。
ブリーフケースを抱えるようにしてドアの方を見ると、入って来たのは学校を出たてのような若い男だった。見かけはまるで少年だ。着ているスーツが就職活動みたいに見える。
長谷川は『マジでか、ガキじゃん』と思い、ここに来てからの不安が大きく増幅される思いがしたが、少年の後すぐに別の年嵩の男が付いて入って来たので、ほっと胸を撫で下ろした。そっちも長谷川よりは大分若いが、ガキよりはマシだ。

しかし、その後から来た男を見た時、何故か長谷川は軽い違和感を感じた。何故かはわからないが、どこかに何かが引っ掛かるような妙な感じがする。

「どうも、弁護士の坂田です。」

軽く会釈して向かいに腰掛けた『坂田弁護士』は、セルフレームの眼鏡をかけて今時風の軽そうなスーツを羽織った軽薄な印象を受ける身なりの男だった。
長谷川は、妙な違和感はその弁護士らしからぬ軽薄そうな外見によるものだろう、と思い

「長谷川です。どうぞ宜しくお願いします。」

と、挨拶をしてから名刺を取り出し、自然に坂田と交換した。
交換する際に、彼の左胸についている弁護士バッヂをそれとなく見ると、金メッキが曇って輝きが少し失せていた。弁護士バッヂは、授与されたばかりの時は真っ黄色に輝いている。基本的に交換などされることはないため、授与されてからの年数が経てば経つほどメッキが剥げて色が落ちてくる。最終的には銀色に変わってしまうらしい。つまりバッヂの色合いでその弁護士のキャリアがわかるのだ。
例の同僚が面白がって教えてくれた事を目の前の弁護士のバッヂで確かめた長谷川は、若くはあるが、まあそうそう経験がない弁護士でもなさそうだ、と密かに思った。

「お電話頂いて、おおまかなお話はお聞きしましたが、今日は今後の方針についてのご相談も兼ねるとのことですので、もう少し詳しくお話を聞く必要があります。プライバシーに関わる事もお聞きしますが、私どもは案件に関わりのないことは一切お聞きしませんので、出来る限りお話下さい。当然、守秘義務がありますので他に洩れることは一切ありません。ただ、どうしてもお話したくないという事でしたら無理にとは言いませんので、その時はそう仰って下さい。」

決まり文句なのだろう、慣れた口調で坂田弁護士が言う。

「彼は、」

と、隣に座る就職活動まがいを手の平で示し、

「司法修習生です。司法修習生というのは、司法試験合格後、実際に弁護士になるまでの研修期間のようなものです。身分は国家公務員に準じていますので当然守秘義務を負っています。今回、同席することになりますが、私にお話しするのと同じようにお話なさって頂いて構いません。」

滑らかに説明した。

形式通りの説明なのかもしれないが、弁護士の挙措は落ち着いており、口調は確実で内容は明瞭だ。長谷川は、一連の接触によって最初に事務所に入った時の不安感や、この弁護士に抱いた妙な違和感が拭い取られて、妻からのメールを開封して以来初めてのほのかな安心感を得られたように感じた。

「何かご質問があれば、遠慮なくどうぞ。」

そう言いながら、坂田弁護士は穏やかな微笑を浮かべた。
表情は穏やかだが眼鏡の奥の目は笑っておらず、鋭く光っている。口調も相まって、なかなかに切れそうな印象だった。




長谷川の自宅の土地建物は全て妻の父名義である。長谷川自身の財産といえば、車と貯蓄と僅かばかりの有価証券くらいだ。
しかし今問題なのは、そんなものではない。
長谷川にとっての最大の財産は妻なのだ。妻のためなら、その他の僅かな財産などいつでも投げ打っていい。
何が妻にそうさせたのか、妻に訊きたい。妻の気持ちを知りたいのだ。

「家庭裁判所から調停申立書は届きましたか。」

弁護士はペンを指の上で回してから紙に何かを短く書き込むと、長谷川にそう尋ねた。
そういったものはまだ届いていない。
長谷川が、まだだ、と答えると、

「代理人弁護士を立てられた、という事なら、おそらく奥さんは調停を考えておられるでしょうね。」

と言い、更にまた何かを紙に書き込んだ。
調停。いわゆる離婚調停というやつだろうか。長谷川は改めて目の前の現実に肩を落とした。

「あの、私は妻と別れるつもりはないんです。何でこんなことになったのか…。私としては本当に青天の霹靂で、離婚調停なんてことまで妻が思い詰めた理由が全くわからない。」

「青天の霹靂ねぇ。」

坂田弁護士は若干含みのある言い方をして、それから少し目線を反らして横に座る修習生をちらりと見る。修習生はそれを無視するように、前を向いたまま無表情で眼鏡の銀縁を押し上げた。

「…まず、離婚調停というものはありません。奥さんが申立てられるとすれば夫婦関係調整調停というものになります。夫婦間の問題を調停委員が間に入って話し合いで解決する、というものです。離婚届が送られて来ているわけですから、奥さん側は当然離婚を主張されるでしょう。あなたがそれに不満があるのなら、その調停の席上で離婚したくない旨を主張すればいいわけです。」

「私の主張が通らなかったらどうなるのでしょう。」

「調停に強制力はありませんよ。あなたと奥さんの主張が合意をみないのなら、調停は不成立になるだけです。不成立になった結果、それでも奥さんの離婚の意思が固いというなら、奥さんは訴訟を起こされるでしょう。裁判になると裁判官が判断して判決を出す。判決には強制力がありますから、その通りにしないといけない。」

「そ、そこまでいってしまうものでしょうか。」

「それは奥さん次第ですねぇ。今の時点では何とも言えません。」

「その、調停というのは、私がしなければならないんでしょうか。私には法的な知識も何もありませんし、妻は弁護士を立てているということですし、非常に不安なのですが。」

「調停は両者が直接話し合うことはありません。先ほど申し上げたとおり、調停委員というのが第三者の立場で別々に両者の言い分を聞きますから。ですからあなたが直接弁護士と話をする、ということはありませんし、法的な知識がないと不利だという事もない。あなたは離婚したくないならしたくない、とはっきり主張すればいいだけですよ。」

「そうですか…。」

そう言われても長谷川は不安だ。
極めて私的なものであった妻との関係が、弁護士や裁判所などという厳めしいものの俎上に乗るということの不安でもあり、妻が突然に自分との直接の接触を絶ってしまったということの不安でもある。
不安そうな長谷川の前で弁護士が、また穏やかな微笑を浮かべた。

「大丈夫ですよ、長谷川さん。少なくとも調停は『夫婦関係調整』の調停なのですから。あなたが離婚したくないのなら、素直にそう主張すればいい。あくまでも今はまだ強制的な判断が下される段階ではないのですから。私への委任も、調停が不成立になって裁判になった時でいいんです。あまり大袈裟に考えず、落ち着いていらっしゃるといい。」

「はい。」

長谷川は、あの野郎、と思った。
あの、離婚3回の同僚。奴ならこのくらいの事は知っていたはずなのに、何が『弁護士に相談した方がいいぜ。』だ。事を大きく見せて人を不安にさせやがって。そりゃ確かに自分の家庭円満を自慢したのは悪かったかもしれないが、こんな人を弄ぶようなやり方をするなんて卑怯だ。そんなんだから、3回も離婚するはめになるのだ。

「とりあえず、しばらく待ってみて、奥さん側の代理人からの連絡、もしくは調停申立書が裁判所から届いたら私にご連絡下さい。調停について、可能性としては夫婦関係調整調停のほか、婚姻費用分担調停というのも申し立てられるかもしれないですね。とにかく調停申立書が届いたら私に見せて下さい。また改めてご相談にのります。」

「わかりました。」

しかし、あの同僚は憎たらしいが、この弁護士を紹介してくれたことに関してのみは感謝すべきかもしれない。
まだ若造だが中々に頼れそうな弁護士ではないか、と長谷川は、目の前で両手を軽く組んでいる男を改めて見た。
銀髪の癖毛の、レンズの向うの眼光が鋭い少しタレ目…。

あれ、と長谷川は思った。

最初にこの男を見た時の違和感が、また蘇ったのだ。
どこかに何かが引っ掛かるような、何かを思い出しかけていてそれが出てこないような妙な感じ。
これは何だ。何故こんな変な感じがするのだ。

「ちなみに長谷川さん。」

「は、」

ぼんやりと弁護士の顔を見ていた長谷川は、突然声をかけられたせいで喉に詰まったような返答をしていた。
弁護士はソファの背もたれに背中を付け、多少くつろいだ姿勢になって長谷川を見ている。何を言われるのだろう、とぽかんとする長谷川に弁護士が言葉を続ける。隣の修習生が横目でそれを見て何か言いかけたが、結局何も言わない。

「一応、聞いておきたいんですが。」

「はぁ…。」

「あなた本当に全く身に覚えがないんですか。」

「…。」

「まあね、家庭を顧みないっていうのも理由としては頷けるは頷けるんですけども、仕事とはいえ自分に構わない夫に愛想を尽かした妻が、それだけの理由で離婚届まで送ってくるっていうのはあんまりないもんですから。大体は煮詰まった奥さんがキレてしまう、起爆剤のような理由が別にあるもんなんです。」

「そう、でしょうか。」

「そうですね。大体は。まあ、酒とかギャンブルとか暴力とか、一番多いのが女ですね。」

長谷川は酒は好きだが常識を超えた飲み方はしない。ギャンブルも結婚してからは全く手をつけていない。暴力なんてとんでもない。むしろ、妻に盆で頭を殴られた事が一回だがあるくらいだ。
残るは一つ。

長谷川に思い当る、たった一つの原因。
それが、それだ。
気付かれてはいないだろうとタカをくくっていた。そして、そうタカをくくって過ちは一度では終わらなかった。
金も、遊びの範囲ぎりぎりを少し出るくらいに注ぎ込んだ。
気の小さい自分が、その過ちを繰り返している期間、妻に対しての罪悪感を隠し通せていたとも思えない。
言われてみれば、妻の態度がその頃から微妙になり出していたような気もする。

「お話になりたくなければ結構ですよ。ただ、ご相談を受ける側としては、多少の事は知った上でお受けした方が身のあるものになると思っただけです。」

「…いや、実は。恥ずかしながら。」

俯いた長谷川は、頭のてっぺんに弁護士の視線を感じながら白状した。

「半年ほど前の事なんですが。期間にして一年ほど、あの、そういう関係を持った相手がおりまして…。妻には気付かれていないと思っていたんですが。こんな事をしてくるとしたら、もう、それに気付かれたんだとしか思えない。」

「女性というのはそういう事に鋭いですからねぇ。」

「お恥ずかしい限りです。」

「それで、相手というのはどういう女性ですか。…いわゆる素人か、プロか、という意味ですが。」

どういう女性か。
素人か、プロか、といえば、まあプロだろう。
しかし問題はそこではないのだった。そんな次元ではないのだった。

「…プロです。ですから、まあ変な言い方ですがビジネスライクな関係で、決してこじれるようなものではなかったんです。実際、切れて半年このかた何事もなく平穏だったんです。」

そういえば、あれに引き合わせたのもあの同僚だった。
あの時、酔っぱらった俺を引き摺るようにあの同僚はあそこへ連れて行き、そして俺はあいつに出会ってしまったのだ。

「平穏。平穏ねぇ。」

坂田弁護士はそう言うと、喉をくっと鳴らし、それから肩を揺らせて笑い始めた。
笑いは次第に大きくなり、弁護士は肩だけでなく上体全てを揺らし、終いには両足を持ち上げ蹲るようにして横に座る少年に寄りかかった。
何事かと思い顔を上げた長谷川を弁護士はバカの真似ごとをする芸人でも見るような目で見ている。
怪しむ長谷川に構わず弁護士は更に笑い続け、それを修習生が肘で突いて諌める。

「…だってよー、ぱっつぁん。」

「ぱっつぁんじゃないです志村です。」

「悪ぃ悪ぃ、ぱっつぁん。けどよ、こいつさー。」

「ちょっ、何なんですか!いくらなんでも失礼じゃないですか!」

さすがに激した長谷川が声を荒げると、弁護士はようやく笑いをおさめ、それでも時折ぶり返す腹筋の痙攣に苦しみながら長谷川に向き直る。そして言った。

「長谷川さん。申し訳ありませんが、もし調停が不成立になり、奥さんが訴訟を起こされたとしても、私は委任を受けられません。」

「なんで…。」

弁護士が、おもむろにかけていたセルフレームを外した。

かちゃん、と音を立てて応接セットのテーブルに投げ出されたそれを何事かと見下ろした長谷川の前に、弁護士が身を乗り出す。
そして、両手を耳のそばに持ち上げ、そのあたりの髪を掴んでツインテールの形を作って、言った。




「パー子でぇす。長谷川さん、お・ひ・さ。」




「…。」




そこには、あの同僚に連れて行かれたオカマバーで出会ったパー子がいた。
酔っぱらった長谷川を『ホテル ニューかぶきちょう』で散々に責め立てたドSネコの、ネコというかトラの、パー子がいた。
純真だった長谷川をいいように弄び、金と平穏を奪い取って行ったパー子が。

「…ウソォ。」

「パー子、長谷川さんの浮気の相手、すなわち当事者なのでぇ、長谷川さんの委任は受けられませぇん。」

「…ウソォ。」

「嘘じゃないもん。パー子、弁護士だけじゃ食えなくて、頑張って夜のお勤めもしてるんだもん。ていうか、気付かなかった?バカだねー。」

呆然とした長谷川は、思わず助けを求めるように、パー子の隣の少年を見る。
彼は長谷川と目が合った瞬間、物凄く嫌そうな顔をしたが、やがて一つ溜息を吐くと言った。

「…パチ恵でぇす。」

長谷川は両方の目から何の抵抗もなく大量の涙がさらさらと流れ落ちるのを感じたが、体が硬直してしまってそれを拭う事ができなかった。

「どうしますか長谷川さん。よろしかったら私の知り合いの弁護士をご紹介しましょうか。…桂っていうんだけど。」

それ、あれだろ。てめーといつも一緒にいたヅラ子だろ。




長谷川は、この弁護士がパー子だという事を知った上で自分に紹介したに違いない同僚の底知れぬ悪意を呪った。
しかし、放り投げた眼鏡をかけ直して澄まして座る坂田弁護士を見ている内に、なんかもう全てがどうでもよくなってしまった。

どうでもよくなった長谷川は滴る涙もそのままに、

「あの、じゃあヅラ子先生の連絡先を教えて頂けますか。」

と、ここに来る時握り締めていた紙きれを取り出した。









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