ファタ・モルガーナ

今までに2度だけした。

この人と出会ってから8年ほどだが、その間に2度だけした。
出会って2年くらいの頃に1度と、今から2年くらい前に1度。この8年間、その2度以外にそういう感じになった事はない。
何故2度しかそうならなかったのか、或いは、何故2度そうなったのかはよくわからない。
いや、違う。わからないわけではない。自分の中で論理立てた整理がなされてないだけで、感覚としてはきちんと筋道がついている。だから、わからないというよりは、言葉で説明できないというのが正しい。

2度した、その2度は2度ともがとても幸せな記憶として残っている。自分は死ぬまでこの記憶を胸の中で大切にして、死ぬときは持って行くつもりでいる。死んで、自分がただの有機物として土の中で分解される時、この記憶も一緒に分解されて一緒に土の中に散らばるのだ。

それ程の幸福が、何故2度だけなのか、2度だけで済んでいるか。もっと享受すればいいのにと誰もが思うだろう。
だが、2度でいいのだ。
8年間で2度。これでいい。
不自然な100を貪るよりは、自然な2を享受する方がいい。



寝てるのか、と思ったら起きていた。
少しだけ開いた目がこちらを見ていたので驚いた。驚かすなと言うと、顎が外れそうな大欠伸をして返した。それから両手脚を突っ張らせ、ううんと伸びをした。
椅子がぎしとひとつ軋んで、僕はのけぞって晒された銀さんの顎の裏を見る。

「どしたよ」

伸びきった形のまま椅子の上に脱力した銀さんが、窓の外を見ながら言った。外は雨だ。そして、少し肌寒い。

「どしたよ、って何がですか?」

「何がって、お前。何しに来たの?」

銀さんが半分寝ながら言う。聞いているとこちらまで眠くなるような口調だが、言っている事は薄情だ。

「生きてるかな、って思って」

確認しに来たのだ。
僕は、たまにそういう事をしたくなる。以前のようにべったりくっ付いて生活しているわけではない僕と銀さんは、離れている時間分それぞれ別個の事情を抱えるようになっている。だから、僕の知らない事情がもしかしたら彼を殺す事だってあるかも知れないと思うのだ。

「生きてるよ」

銀さんは窓の外に向けていた顔を僕の方に向けて言った。見ない内に伸びた髪が目蓋の上にかかるようになっていた。僕の知らない銀さんの事情は、彼を殺さなかったけれど彼の髪を伸ばした。

「無事でなによりです」

髪が伸びる間、取り立てて語るような事件は起こっていない。それくらいなら知っている。なのに僕はふざけてわざとそういう言い方をし、そして彼の伸びた前髪に触れた。
御身お大事に。
という、僕が銀さんに求めるただ一つの事は、実はとても困難で危うい。だから触れた髪の感触は、そのついでに触れた額の感触や頬の感触と共に、危うく儚かった。
こんなにふてぶてしい感じの人なのに、触ってみるとなぜか今にも消えちゃいそうだ。触れる指が向こうにすり抜けそう。

銀さんは胸を反らしてのけぞり、僕の指から逃げた。

「なんだよ。気持ち悪ぃ」

例えば僕が愛したのが幻だとする。
追いかけても追いかけても掴めない、掴んだと思って掌を開いたら消えてしまうような、そんな儚いもんだとする。
ひとは僕を憐れむだろうが、幻を愛してしまった僕は、僕の事なんかよりむしろその幻の事を考える。
儚い、掴めない存在である幻に、もしも意識があったら?自らが、儚く、何ものにも掴まれない存在であると知っていたら?それはどんなにか恐ろしく、孤独である事だろう。

可哀想な僕の幻。
僕は多分、この幻を守る為に生まれた。



ところで蜃気楼は

暖かく緩んだ海の上に浮かぶあの幻は、実のところ、架空の夢の世界からやってきたような不可思議なものではない。緩んだ空気のせいで屈折した光が、海岸に実在する何の変哲もないものを歪めて映し出したという、少しも不可思議でない現実の道理に則したものだ。

僕は8年の間に、銀さんという幻が、蜃気楼的な幻であると悟った。
この幻は夢の世界から来たわけじゃない。どこか知らない海岸に実在する銀さんが、緩んだ空気に不思議に歪んで僕の目に映っているものだ。
僕が愛した幻は、そういう幻だ。



気持ちが悪いと嫌がられた僕は、そんな風に嫌がった銀さんを別段恨めしく思ったりする事もない。
僕が触れたのはあくまでも海に浮かぶ幻であって、海岸に実在する銀さんではない。だから実在する銀さんがそう言うのは当然なのだ。僕が見る銀さんは不思議に歪んだ海上の幻で、そして実在する銀さんは海岸にいて僕が自分の幻に触れるのを見ている。
そりゃあ気持ち悪くもなるだろう。

「ちょっとの間、目を瞑ってて下さい」

「何でだよ」

「できれば耳も塞いで下さい」

僕は僕の可哀想な幻を守る為に生まれた。
だが、人が生きる理由はたった一つではない。人によって差はあれど、それは必ず幾つかある。
そうだとして、そうだとしても、これは幾つかある僕の生きる理由の内の、偽らざる一つだ。

「お前のスイッチが、いつ入るのか、何で入るのか、俺には全然わからねえ」

銀さんは椅子に脱力したままそう言った。
僕は脱力した銀さんの着衣をそうっと、儚い幻が消えてしまわないよう出来るだけそうっと開きながら思う。

銀さんにわからなくとも、僕にはわかる。言葉では説明できなくとも、感覚でわかっている。
この8年が、僕の感覚を、ただの観客から研究者に育て上げた。
蓄積した膨大なデータと正確な計算で、僕の感覚は蜃気楼がいつどのような時に現れるか、よくわかっているのだ。

「あんたはわからないでいい。僕がわかってるからいい。そして、僕はそれを見逃さない。だから、いいんだ」

ひとは幻を愛する僕を憐れむだろうか?
もし憐れむのなら、僕はそのひとに言うだろう。

僕は蜃気楼が本当の幻ではないと知っている。
美しく歪んだ幻の向こうに、何の変哲もない実在があると知っている。蓄積した膨大なデータと正確な計算によって、幻を映し出す実在の本当の位置だってもうわかっている。
僕は幻を愛する事で、海岸にある実在を確かめている。
それが、今日も生きているかどうか。

それは一体虚しい事ですか。

「…俺は失敗した。お前がそんなになるなんて想像もしてなかった」

銀さんの一番の不幸は、彼自身が、自らを可哀想な儚い幻だと思っていた事だった。
彼は僕がこうなるまで、自分の実在を知らなかった。
だから彼の実在を世界で最初に発見したのは、本人でなく、勿論他の誰かでもなく、僕だったのだ。

どこか知らない海岸にあって、誰にも知られないでいた実在を、僕は映し出された幻を愛する事で知った。
そして幻を通して実在を見据える僕の眼差しで、あんたは自分が可哀想な幻なんかじゃない、何の変哲もない実在である事を知ったのだ。

あんたは、この行いの一体どこが虚しいと言うんです?



8年で2度。
気候、天候、時間帯、全ての条件が合致した時だけ現れる稀有な幻。
外は雨が降っている。そして、少し肌寒い。
これが3度目だ。

蜃気楼が儚く美しいのは、それが滅多に現れない希有なものであるからだ。だから僕は、8年で3度、これを少ないとは思わない。



銀さんの軽く握られた拳が、机の上を叩いて小さくはない音を立てた。
薄情な言葉を吐いたり、嫌がってみたりするのと同じに、あんたはその音を立てる事で、その音を立てた自分の実在をありありと知る。
目を瞑らない、耳を塞がないあんたは、ありありと知るのだ。



可哀想な僕の銀さん。
そして少しも可哀想なんかじゃない僕の銀さん。

恨むなら、僕をただの観客からいっぱしの研究者に育て上げた自分自身を恨むがいい。









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