「やあ、いたいた。副長」

けたたましい子供の泣き声に何事かと階段の上を見上げた山崎は、そこに探していた上司の姿を見付けた。
来い、と言われはしたものの、どこに来いという指示がなかったため正直なところ困っていたのだ。近藤を迎えるホームがどこかは聞いていたので、とりあえずそこに向かってみたが、正解だったらしい。
そうした安堵から山崎の口調は呑気だった。

「あ、局長も。お久しぶりです。ちゃんと出会えたんですね」

階段上部には近藤と土方、そしてもう一人。泣き喚く子供はそのもう一人が抱いている。
山崎は、もう一人の人物の姿を見て、白目がちな目を丸くした。
そして、意外そうに

「あれ?万事屋の旦那じゃないですか」

と言った。



「…ああ、やまざきくん。久しぶり」

男は土方に据えた視線を固定したまま、階段を上がってくる山崎に口だけでそう挨拶した。

「なんだー。泣いてたの神楽ちゃんかあ。ちょっと見ない間に大きくなりましたねえ。新八君も元気?幼稚園はどう?」

てれてれと上がってくる山崎は、思わぬところで出会った知り合いに親しげに語りかけ、にこにこと笑っている。



土方は立っていられなくなった。
壁に縋る背中をずるずると擦りながらその場に崩れ落ちる。わななく顎が、喉から出ようとする声を不自然に切れ切れにした。

「や、山崎テメ…、なんでこいつの事知って…」

「え?どうしたんですか副長。いや、なんでって、旦那とは昔から仕事で顔を合わせる事が多くて…。ていうか大丈夫ですか。どうしたんですか」

「やまざきくんは色んな方面に顔が広いんだよねえ。ああ、そういえば、やまざきくんが紹介してくれた幼稚園、新八もお気に入りでね、今度は機嫌良く通ってるよ。な、大好きな先生がいるんだよな新八。なんだっけ、てらかど先生だっけ」

男にしがみ付く男の子は、小さく頷くと

「けっこんする」

と言って恥ずかしそうにした。

「しろしろ。あの先生はかわいいからなあ」

「河上理事長はお元気ですか。あの人は大した実業家ですけど、利益一辺倒の人ではないですから教育分野での評価も高いんですよ。園の方針もしっかりしているでしょう。新八君が楽しく通えてるんだったら俺も紹介したかいがありましたよ」

「神楽も入れればいいんだけどなぁ」

「ああ、ならまた会った時にでもちらっと話しときますよ。…あの、ていうか副長、さっきからどうしたんですか。具合悪いんですか」

「…山崎」

凍てついた階段に座り込む土方は、死人のような顔色で山崎を見上げた。
山崎は、土方の顔色と額に噴き出す酷い汗を見て、風邪でも引いたのか、と思った。

「何ですか。ちょっと、ほんとに大丈夫ですか」

これ着ますか、とダウンの上着を脱いで土方に差し出した。
土方は上着を差し出す山崎の手を払いのける。山崎の体温を残す上着が、融けた雪が浸みる階段に落ちた。

「…てめえもこいつと繋がってやがったのか!」

掠れた声で叫ぶ土方に山崎は驚き、うろたえた。土方に払いのけられた手を遣り所なく空中に彷徨わせている。

「繋がってるっていうか…。いや、前から知り合いだったんですけど。何怒ってるんですか」

「俺の居場所を、てめえもこいつにばらしたのか」

「ええ?そんな馬鹿な。局長以外の誰にも言いませんよ俺。だいたい何で俺が旦那にそんな事言うんですか」

「…やまざきくん。話せば長いんだけどね、まあ、端的に言うと、実は俺はひじかたくんとちょっと濃いお付き合いをしていてね」

男が、先程そこの幼稚園児が照れたのと同じような表情をしながら言った。
山崎は男の言葉を聞くと、ハハ、と笑った。

「ああ。ハハハ。なんか知ってました。薄々と」

「知ってた?!」

叫んだのは土方だ。

「そうなんじゃないかなとは思ってましたが、やっぱそうだったんですね」

「そうだったんだよ。やまざきくんのくせに鋭いなあ」

「てめえは黙れ!…山崎、じゃあやっぱりてめえは、俺がてめえとここにいるって事をこいつに漏らしたろう。そこまで知ってるてめえが、俺が逃げてきた事をこいつに知らせねぇ道理はねぇ。そうだろが、あ?!」

「とんでもないです。俺は副長の命令に背くなんて死んでもしません。そりゃ、旦那と何かあったのかな、とは思いましたけど。思っただけで別に」

「ぜ、全部知ってて黙ってたのか、てめえ…」

「俺は、仕事に関わる事ならまだしも、それ以外で副長のプライベートに関わる事を話題にするなんて、そんな失礼な事はしません」

山崎は毅然として断言する。それは自分の行動に確たるポリシーを持つ、自信に満ちた男の態度だった。
土方は、これほどまでに山崎を張り倒したいと思った事はなかった。



山崎の断言を聞いた男が、眉を片方だけ上げた。

「…出来た部下じゃないか、ひじかたくん」

そう言ってしゃがみ、目線を土方と合わせた。
出来た部下を賞賛しながら土方の頭を一度だけ撫でるように動かした次の瞬間、手の指を広げて土方の髪を掴み上げた。

「それであれか。お前は俺から逃げて、このよく出来たジミーくんとこに転がり込んでよろしくやってたってか、ああ?」

掴み上げた土方の頭を無理に仰向かせ、壁に押し付けた。
山崎が息を呑む。

「だ、旦那。乱暴は止めて下さい」

「ふうん。やまざきくん、庇うんだ」

土方の頭蓋骨が固い壁に押し付けられ嫌な音を立てる。苦痛に顔を歪めた土方に、

「ちょっと旦那、ほんとに」

山崎が慌てて駆け寄り土方を責め立てる男の腕を掴もうとした、その時。
男の腕を掴みかけた山崎の親指の付け根に、小さな乳歯が深々と突き刺さった。

「ぎゃああ、し、新八君、止めて」

「ぎんさんに」

「あっ、血、血が。き、君はその噛み付き癖を治さないとまた幼稚園で孤立するよ」

「ぼくのぎんさんにさわるな」

「わ、わかった。ごめん、ごめんなさい」



山崎と幼稚園児が騒ぐのを間に挟み、男は凍てついた暗い目で土方の虚ろな目を抉るように覗き込む。

「…おい土方。俺は潔癖なとこがあってよ。てめえが何を考えてようが俺を愛してなかろうが知ったこっちゃねぇ。だがな、俺ぁよそで別もんを咥え込んでるようなアバズレはお断りなんだよ。子供と俺の教育に悪いからな」

軽く首を傾け土方を覗き込みながら、男はそれだけを言うと、土方の頭を壁に押し付けていた力を突然引き寄せる力に変えた。首がもげるのではないか、という程の力で近付けた土方は口元が脱力して半開きになっている。
男はしばらく土方の顔を眺めると、脱力した土方のそこに大きく口を開けてゆっくりと食らい付いた。肉食獣が弱らせた獲物を悠々と貪るようだった。
動きは緩いが、やり方は苛烈だ。激しい音を立てる唾液が激しい動きに耐え切れず溢れ出て、土方の顎を伝い、首を流れた。



密着する男と土方、その間に挟まれる山崎と山崎の手に噛み付く幼稚園児としゃくりあげる幼児。
一塊のそれを見ながら近藤は、修羅場だ、と思った。
そして俺は修羅場を見守る事しか出来ない無力な第三者だ。幼稚園児に噛まれた指先がじくじく痛む。

ふと、しゃくりあげる幼児と近藤の視線が合った。
近藤と視線が合った途端、幼児は残っていた嗚咽の気配を消した。飴玉のような目を大きく見開く。
そして、発芽したての植物にも似た初々しい小さな指を近藤に向け、

「ごり」

と、足らない舌で言った。

ごり?



吹き込む吹雪が急に激しさを増したかと思うと、俄かに大きな落雷が駅舎全体を震わせた。

同時に、辺りの照明が全て落ちた。




*






暗い。
日の無い天候の下、コンクリートの構造物の中は暗がりに色彩を失っていた。

長く尾を引いた落雷の振動が収まった頃、男はようやく土方の髪を掴む手を緩め、土方の口腔を解放した。
首を捻じ曲げて、肩口にある幼児のフードを被った頭で濡れた唇を粗暴な仕草で拭う。

「…ひじかたくん。どうなの。てめえはうちのベイビーたちと俺の教育に悪い存在なのかな?うちの敷居を跨がせられないような薄汚いアバズレなのかな?」

男は土方の性質を知りつくしている。
土方が自らを貶めるような言など死んでも吐けないと知った上でこのような聞き方をし、目元に浮かぶ嘲笑を隠しもしない。

「どうなんだ。言え」

土方の脳内は、停電するこの駅舎と同じく、複雑に張り巡らされていた配線が今や殆ど断ち切られていた。
唯一生きているのは、土方がこれまでを生き抜く為に無意識に使ってきた、土方のごくごく深部に沈んでいる根幹的な配線だ。

人によってはそれを、反射神経、と呼ぶ。

生き残るための術を単純な0と1とで表すその機能を、焼き切れた土方の思考は選択の余地なく採用した。
今、どうすればこの死地を乗り切る事ができるのか。
理屈や矜持や立て前を後回しに、『今すべき事』だけを明示する原始的な機能を土方は稼働させた。

「…山崎」

「は、はあ」

そうであるから、土方が山崎を呼んだのは何の計算も期待もあっての事ではなかった。

「なんとかしろ」

ただの反射だ。




*






土方が無策であろうと何であろうと、山崎には関係がない。
仕事が与えられた山崎は、ただ遂行するだけだ。それが例え、どのような内容の仕事であれ。

「あの…。旦那には申し訳ないんですが、お察しのとおり副長は俺とステディな関係なんです」

へへ、と山崎は口角が引きつる笑い方をした。
男は山崎を見、それから土方を見る。そして抱えている幼稚園児に

「新八。ステディってなに?知ってる?」

と聞いた。
幼稚園児は「しらないです」と答え、それから「おなかへりました」と個人的な欲求を主張した。

「…山崎。こいつは馬鹿なんだ。できるだけ平易な言葉を使え」

「はぁ…。あの、副長は俺とやってるんです」

俺の周りは馬鹿だらけか、と土方は泣きたくなったが、馬鹿には馬鹿の言葉が通じやすかったようだ。

男は山崎の言葉を聞いてから数秒の間無言でいたが、やがて首にしがみついている幼稚園児を階段の上に下ろして立たせた。それから、もう一方の腕に抱いていた幼児を立っている幼稚園児に渡して抱かせる。最後に腕にかけていた鞄を階段の上に置いた。
片膝に掌を突き、膝を伸ばしながらゆっくりと立ち上がった。
両手を体の横にだらりと落とし、背中を若干曲げた形で、座り込む土方を見下ろす。そして、

「へえ」

と短い声を出した。
それは怒りなのか呆れなのか静かな驚嘆なのか、込められた感情が全く読めない音だった。

土方を見下ろす目は先程のように厳しくない。
それどころか、見ているようで見ていない、何の意思もなくただ映像を映しているといった空虚な目だ。感情が読めないどころか、その奥に感情が存在するのかすら危ぶまれる。

そのような様子で男は

「トシにゃんのバカ」

と、虚ろな声で言った。




*






もうこれ以上驚く事は起きないだろうと思っていた近藤は、その呼称が土方を指している事に気付いた時、己の予測の甘さを知った。

「…ハ、」

突然、トシにゃんが短く笑った。やつれた頬を不敵に歪め、懐から煙草を取り出し火を点ける。

「バカで結構だ」

長く細く煙を吐き出す。何かが突き抜けてしまったのか、今ほどまでの惑乱した様子から一転して妙に平静だった。

「俺はてめえの単調なサディズムにはもう飽きたんだよ。だから俺はてめえから逃げて、こいつと愛欲に溺れる爛れた日々を過ごした。そんなに帰って来てほしきゃ帰ってやるが、俺がてめえをいつも嘲笑ってんだって事をよく覚えとく事だな」

土方が咥えた煙草の端から灰が落ち、男の靴の先を汚した。



土方は昔荒れていた頃、よく街で喧嘩をした。
例えばそういった喧嘩でも、と近藤は思った。

トシはそれまでにどれだけ感情を沸騰させて我を忘れていようとも、一度それが突き抜けてしまえば、途端に平静を取り戻し揺らがなった。
感情のヒューズが飛んでしまうと、目的を達成する為ただ淡々と動く機械になるのだ。

そのような土方は実際負け知らずであった。しかし、傍で見ている近藤などは、冷静になったならそもそもその喧嘩をやめたらどうか、と思わないでもなかった。が、元来の口べたが災いして一度もそうアドバイスできた事がない。

熱いバカが冷静なバカになるだけで、正味のところはバカに向かって突き進んでいる事に変わりはないのだが、近藤はそれをどうしても指摘できない。



「つまり俺は、もうお前のもんじゃねぇって事だ。わかったか、この腐れ天パが」

隈の酷い落ち窪んだ目をぎらぎら光らせて土方は

「こいつに比べたら、てめえなんか皿の隅のパセリだ。カリフラワーの欠片だ」

と、傍に立つ山崎のズボンの端を掴んで引き、自分と男の間に引っ張り込む。



山崎は、悲鳴を上げそうになった。
この万事屋とはそこそこ長い付き合いであるが、それでも、このような表情をしている状態に出くわした事はない。このような、まるで魂を手放してしまったような、真っ白な、そうであるだけに一体次にどのような反応が返ってくるのか予測がつかないような状態になった万事屋には出会った事がなかった。

友好的にはしているが、基本的に万事屋は恐ろしい人間だ、と山崎は思っている。
それが、このような何の色調も帯びない表情で立っている。次の瞬間には、それがどんな色に染まるとも限らない。危険極まりなかった。

「あの…。はは、…なんかすいません」

黙り込む男の前に引き出された山崎は、その優秀な命令遂行能力をしても次に自分がとるべき行動がわからず、とりあえず謝るような形をとってみるしかなかった。
土方が男をカリフラワーのくず扱いした事に対する非礼、そして、土方が男を裏切った事に対する非礼への謝罪だった。
自分が土方を奪った、という形になった事に対しての謝罪は含まれていない。
自分が謝罪しなければならないような事を万事屋に対して行ったなどという事実は認めるわけにはいかなかった。
山崎は土方の命令なら何でもしたが、それは土方の陰で行うから何でも出来るのであって、自分が物事の矢面に立った場合は一切何もしたくない、空気になりたい、と思う人間だ。

決して目線を合わせようとしない山崎の謝罪は男に届いたか。
それは不明であった。
男の目は虚ろなまま、山崎の事など全く見ておらず、それどころか自分の前に突き出された山崎の頭と肩に手をかけ、それが無機質な障害物であるかのように横に退かそうとした。

「ひじかたくん、テメエは何か、きっと病気なんだよ。なんでもいいから早く帰ろう。それで神経内科に行こう」

男が押し退けようとする山崎の頭と肩の反対側に、咄嗟に立ち上がった土方が手をかけた。
そして押し退けようとする男の力に拮抗するだけの力で押し戻す。

「バカかお前は。病気はお前だ。バカという病気だ。早く死ね。死ねば治る」

山崎は体の両側から並み以上の力で圧されて、俺が潰れる、と思った。
こうした場合、先に離した方が本当のお母さんなのだろうが、別にこの二人は山崎にとって全くお母さんではない。と、いうか、あの話では子供を二人が引っ張り合っていた。俺は今、圧し合われている。俺は全く求められていないのだ、そして二人とも俺が潰れても平気なのだろうな、と思うと、これはもう、俺は無機物に徹した方が楽だろうな、という結論に達した。
山崎は変形する頬の肉と肩関節の限界を感じながら、黙って耐えた。

近藤だけは、山崎が潰れる、と心配していた。しかし、下手にあの揉み合いに介入して男に触れでもしたなら、また子供に噛まれるという恐れがあったため、手を出せないでいた。
噛まれた指は痛みが全く引かず、どうやら腫れてきた。多分医者に診せた方がいい。









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