「山崎」

「お疲れ様です」

電話の相手は山崎だった。
近藤は、人の邪魔にならぬよう乗降口に大きな図体を寄せ、ドアに寄りかかって電車の横揺れから身を守る。
客車ほどの防音と防振が施されていない連結部は、騒音も揺れも酷い。ドアに寄りかかるだけでは足りず、傍の手摺に掴まり、携帯を痛いほど耳に押し当て危うい電波に載ってくる声に集中した。

「あと少しで着く。トシは」

「もう駅にいる頃です」

「お前は来ないのか」

「ええ。俺が立ち入るべき話ではないようですから」

近藤は驚いた。

「山崎、トシはお前に何も話していないのか」

電話の向こうで山崎は近藤の言葉をほんの一瞬考えたようだったが、

「いや、俺が聞きませんでした」

と、何でもない風に答えた。

山崎は出奔した土方を数週間にわたって匿っていた。
何らかの実際的な犠牲を払った事は間違いない。なのに、その犠牲を惜しむ事もなく、このようにあっさりと一歩を引いている。

確かに当事者として立ち入って詳しい事情を聞く事は、それだけで土方を傷付けるだろう。
それを察して、あくまでも何も知らない第三者として土方を助けようとしたのか。当然抱くはずの、抱いて然るべきである疑問や不安を、何気なく押し伏せて。

誰にでもできることではない。

近藤は額を手で覆い、下唇を噛んだ。
この男の恩に報いるには一体どうすればいいのだろう。

山崎だけではない。
残してきた沖田の、曇った表情も目の裏に強く焼き付いている。
土方のためを思う人間は、多くいる。土方は一人ではないのだ。一人悩んで、姿を消す事などなかったのだ。

トシ、馬鹿野郎が。

近藤は昂った感情をその中へ封じ込めるように拳を握り、雪景色を透かす窓ガラスを鈍く叩いた。
昂りは土方への怒りによるものではない。土方そして自分を、このような人間達が取り巻いているという事実に対する感動によるものだ。

「副長は、ホームで待っているそうです。それから、副長の携帯はもう繋がります。出会えなかったら連絡を取って下さい」

「わかった。ありがとう」

通話が切れた後も、近藤は電話を耳に当てたまま目を閉じてしばらく俯いていた。窓を叩いた形のままそこに押し付けている拳が、結露に濡れて滑る。
足元を掬うような列車の揺れを感じながら、近藤はこれまでの経緯を回想した。
様子がおかしくなった土方、突然の失踪、沖田の真剣なまなざし、山崎の平坦だが確かな口調。

近藤は一つ大きく息を吸ってから、携帯の短縮ボタンを押した。



「話せるか」

数回のコールの後繋がった電波は、音を載せていなかった。

「……」

土方の無言を電車の騒音が塗りつぶし、握り締める小さな機械の向こうの気配が読めない。近藤は額を外に向かったドアに押し付けて、閉じている目を更にきつく瞑った。押し付けた額を伝って、結露の一滴がきつく閉じた瞼を濡らした。

やがて、携帯の粗末な電波は近藤が待ち望んだ声を届けた。

「近藤さん」

近藤は閉じていた目を開く。
トシ。

「近藤さん、…悪かった」

「何が。何がだトシ。お前が悪い事なんか何にもない。無事なんだろう、だったらいいんだ」

この何週間かでようやく聞いた土方の声は悲痛で、かつてない程弱かった。
何が起ったんだ、お前に。
繰り返していた疑問が本人の声を前に溢れ、そして現実に声を聞けた安堵で近藤の喉は無様に潰れた。

しかし、近藤の感情を思い遣る余裕もない土方の声が、低く口早に問いかける。

「近藤さん、確かめたい。俺の居所、誰にも漏らしてねぇよな」

近藤は、そうだ、と言いかけ、しかしそうだとも言いきることが出来ずに低く唸った。
沖田に伝えるべきではなかったとは、やはり思わない。
しかし形としての約束を違った事に違いはない。

「…総悟にだけ」

電話の向こうの声が、その名を聞いた瞬間、叫びに似たきつい音を上げた。

「そ、総悟だ!?なんてこった、よりによって!近藤さんアンタ、…ああ!」

よりによって、という不穏な言葉と、大きな声など滅多に出さない土方のらしくもない様子に近藤は混乱する。

「トシ、総悟がどうしたっていうんだ。あいつだって、お前をひどく心配して」

「違う。違ぇんだよ。総悟は…」

その時、場違いに長閑なメロディが流れ、もう僅かで列車が終点に到着する旨のアナウンスが流れた。

今はとにかく声が聞きたかったのだ。
話は面と向かってしなければならない。もとより、そのつもりであったのだ。先程の山崎からの電話につい冷静さを失ってしまった。

「トシ、動揺させてすまん。とにかくホームで待ってろ。直接話そう。」

「待て!近藤さんアンタ、」

尾行けられてねぇか。

電車が速度を落とした。
遠心力で近藤の体は大きく傾ぎ、弾みで携帯が耳から離れる。
それは土方が後半の言葉を発したのと同時だった。
近藤はその言葉を聞く事が出来ずに、携帯の通話ボタンを切っていた。




*






「お騒がせして申し訳ありませんでした」

近藤が座席に戻ると、子供連れの男は下車の支度の手を止めてそのように言った。男が抱えている女の子は厚手のコートのフードを深く被せられ、丸々とした様子がますますおもちゃのようだった。

「いえ、何ともありませんでしたよ。それよりも雪の中ですので、どうかお気をつけて」

男は、幼児を抱き抱えた腕に重たい鞄をかけ、反対の手は男の子のミトンを付けた手と繋いでいる。事情はあれども、それでも愛情の感じられる家族の姿に、近藤は彼らの幸福を願わないではいられなかった。願わくばこの親子が、男の言う妻、すなわち子供たちの母親に恙無く出会えるように。すべてがうまくいくように。

祈りは、そのまま近藤自身が抱える事情に対するものでもある。

列車は更に速度を落とし、間もなく終着駅のホームに滑り込んだ。




*






「山崎、山崎ッ」

受話ボタンを押すなり響いてきた割れた音声に、山崎は思わず携帯と耳との距離を取った。
炬燵に温もった足先がほかほかとして丁度良く眠くなってきた頃に、この妨害だ。電話の向こうに聞こえないよう溜息を一つ吐き、それから携帯を当てる耳を変えた。

「なんですか。局長とは会えましたか」

「それどころじゃねぇんだ、テメエ、今すぐ来い!」

「はぁ、どこにですか」

馬鹿野郎、寝ぼけてんじゃねぇ、緊急事態なんだよ、と、土方の取り乱し方は只事ではない。
山崎は炬燵の上に口を開けている菓子の袋から、個別包装された一個を取り出し、ゆっくりと身を剥きながら土方の常ならぬ様子を伺った。

「いや、もう間に合わねぇか…。だったらテメエが来ても無駄か。いやでも」

土方は相当に動揺しているらしく、殆ど独り言のような纏まらない言葉を浮ついた発声で繰り返していた。

「副長、俺はどうすればいいんですか」

俺は副長に言われた通りにやりますよ。

山崎の基本的なスタンスはこれだ。そして、万事が基本に尽きる。
上司である土方が、突然『何も聞かずに匿え』と言ってこのマンスリーマンションに押しかけてきてから、いやそれ以前から、山崎は土方の命令に関して、内容を一切問わずただ黙々と従った。特別、それを苦にするでもなく。
その代わりに山崎は、土方に明確な指示を要求した。或いは、問題の着地点を明確にする事を要求した。
土方の示した目標に物事を近付ける為に実働するのが自分の仕事だ、と山崎は思っているからだ。

そしてそれは、単なる生活の為の仕事の範疇をどうやら超えている。
職務から離れた立場の土方が、山崎の私生活の場であるこの賃貸の狭い玄関の戸の前に立って『匿え』という命令を自分に下し、それに疑問を返すでもなく自分が従った時に、山崎は改めてそう認識した。

この人の存在は俺のライフワークみたいなものなのだろう、と、山崎は別段温度も湿度も伴わず思う。

近藤は、山崎が土方に事情を聞かなかったのは山崎の優しさだ、と理解した。山崎は、まさかそのように理解されたとは想像もしていない。

「うるせぇ!なんでもいいから駅に来い!」

土方の裏返った声がそう怒鳴り散らすなり、通話は一方的に切れた。

「…どうしろっていうんだよ」

しかし、目下すべき事ははっきりしている。すべき事が明確になったなら、山崎は実働するだけだ。

山崎は温もった足先を惜しむでもなく炬燵から抜け出し、上着を取った。




*






土方は、改札に降りる階段を目指して駆けていた。尋常ならざる様子に何人もが振り返ったが、その目を気にする余裕は今の土方にはない。
ホームに入ってきた列車が駆ける土方を後ろから追いかけ、そして追い抜いて行く。
列車に裂かれた空気が体の側面にぶつかり、縺れる足をさらうようだったが、土方は転倒するわけにも立ち止まるわけにもいかなかった。

近藤は、沖田に自分の居場所を知らせた、と言った。

台無しだ。台無しじゃねぇか。培ってきた信頼も、人としての責任感も、何もかもをかなぐり捨ててなりふり構わずこんな所まで逃げてきた、プライドをへし折ってまで取った行動が台無しになった。

惑乱する土方の脳裏で沖田が歪んだ微笑を浮かべる。

『なんですかい。俺だって土方さんが心配なんですぜ。…勿論、心配してるのは俺だけじゃなくて』

土方は、駆ける自分のすぐ後ろに沖田がぴったりくっついているかのような感覚を覚え、走りながら小さくはない声を上げた。人がどう思おうといい。声を上げてでもいないとこの不吉な感覚に飲まれて、この場に崩れ落ちてしまうような気がした。

沖田に自分の居場所がばれているなら、ここに向かう近藤は必ず尾行けられている。
あれは、この絶好の機会をみすみす逃すような奴ではない。

逃げる。
近藤は呼び寄せた山崎に相手をさせる事にして、とりあえず自分はこの場を離れるべきだ。後の事は後で考えればいい。そうするしかもう道はない。

この列車が停車するまでに、どこでもいい、とにかく離れた所へ逃げるのだ。




*






近藤は、駆ける土方を見ていた。

ホームに滑り込んだ列車の出口ドアの前に立って、減速したために遅く深くなった揺れに耐えながら、それでも近藤の目は間違いなく土方を見つけていた。
ほんの一瞬であったが、見誤るはずもない。何年も、それこそ子供の頃から馴れ合った仲間なのだ。
列車はあっと言う間に土方を追い越したが、近藤は首を捻じ曲げてその姿を追った。
表情まではわからないが、まるで何かから逃げるような様子でホームを走る様子は、明らかに普通ではなかった。

トシ?




*






やがて特急は3時間の旅を終え、停車した。




*






近藤が掴んだ土方の二の腕は防寒着の上からも骨張っていた。

列車を飛び降りるなり近藤は駆けた。列車が追い越した土方を方向的に迎える形になったのが幸いして、近藤は土方を逃がさずに済んだのだった。はち合わせた土方はまた方向を変えて走り出そうとしたが、驚きがなかった分だけ近藤の動きが早く、土方はその痩せた腕を呆気なく近藤に掴まれた。

「トシよ」

呼びかける近藤を土方は呆然と見ている。落ち窪んだ目が、近藤の知るそれとはかけ離れている。痛々しさに近藤は顔を歪めた。

「どうしたんだ一体。落ち着け」

そう低く告げてから掴んだ二の腕をゆっくり離すと、土方は支えを失った人形のように体をぐらつかせて半歩ほど下がった。
倒れてしまうのではないか、と恐れた近藤が再び土方の腕を掴もうとするが、今度は土方の方が近藤の肩に手を伸ばした。首を深く倒して顔を俯け、ぐっと指が埋まるほどの力で土方は近藤の肩を掴む。
そして地を這うような声で言った。

「…俺は落ち着いている。落ち着くのはアンタだ」

「何?」

「いいか、落ち着いて聞いてくれ。詳しくは後で話すが、俺は追われている。そして、俺を追っている奴と総悟は繋がっている。…総悟に、アンタが俺と会うって事がばれたという事は、アンタは間違いなくそいつに尾行けられている」

「な、なんだと。総悟が…。それは一体どういう事だ」

驚くべき事実に、近藤の頭はもとより感情がついていかない。半ばぽかんとしてしまった近藤を、顔を上げた土方が焦燥も顕わに吊り上がった目で半ば睨むように見た。

「だから後で話すってんだ!とにかくアンタは尾行られてる、ここにいたら確実に奴に見つかる。早くどっか違う場所に移動しなきゃなんねぇ」

「わ、わかった」

土方の剣幕に近藤は素直に頷くしかなかった。
頷いた頭が上がるのを待たず、近藤の手首は土方に取られ、気が付いた時には近藤は土方に引っ張られホームを駆けていた。
疲れ、やつれた男のものとは思えない力で掴まれた手首が容赦なく引かれて痛みを覚える程だった。余りの力に、離せ、と言い出す事もできない。

土方は今でこそ多少は落ち着いたが、昔からずいぶん悪い事もした男だ。
それだけに、トラブルには慣れていて滅多な事で取り乱したりしない。
それをこんなに恐れさせるとは、一体どれほどの事が起こっているのか。
しかも、それに総悟が関わっているとは。




*






「…ちょっとすいません、すいませんちょっと」

手を引かれるまま改札への階段を駆け下りようとしたその時、近藤はそのような声を聞いた。最初こそ意識に留められなかったが、二度三度と声がかかるとさすがにそれが自分たちを呼び止めるものだと気付いた。
精神的な余裕のない土方には意識できないのか、もしくは敢えて無視しているのか、足を止める気配がない。

勿論、土方の『追われている』という言葉を忘れたわけではない。しかし万が一この声が追っ手のものであるなら、このような間抜けな声かけをするその顔を少し見てやろう、と近藤は思ったのだ。

階段を駆け降りる直前、近藤はほんの少し首を曲げて後ろを振り返った。

「あの、ちょっと」

10メートル程後ろから、自分たちに追いすがりながら声をかけていたのは、先ほどの列車で近藤の向かいに座った男だった。
片手に幼児と鞄、もう片手に幼稚園児を抱え、地味なコートの裾を蹴立てながら不器用に走って来る。

「ちょっと、待」

上がった息で、繰り返し声を上げている。

何か、忘れ物でも届けようとしてくれているのではないか。

近藤は瞬間的にそう思った。
そう思い、自分を引き摺りながら階段を駆け降りる土方の手首を掴んで、引き止めた。

土方は強い反動とともに動きを止められ、足を踏み外しかけながらそれでも立ち止まった。
何だ、と近藤を振り返る。そして、近藤が後ろの何かを見ている事に気付き、自分も倣ってその方向を見た。

土方の顔色が変わった。



「さ…」

さ?
土方が発した苦鳴のような言葉にならない声に、近藤は首を傾げた。

その瞬間、土方は再び駆け出そうとしたが、何もわからない近藤に未だ手首を捕まえられているために、そうできなかった。

「ひじかたくん」

子供二人を抱えた男が、息を切らしながら土方をそんな風に呼んだ。

「ひじかたくん。探したよ。酷いじゃない、黙ってどっか行くなんて」

「…さ、ささささ坂田」

土方は下顎を震わせながら酷い発音をした。
未だ近藤に手首を掴まれたまま、まるで暴漢に囲まれた少女のような怯えた様で後退り、傍の壁に背中を縋らせた。

「おきたくんが教えてくれなかったら俺ら、ほんとにもう二度と会えなかったかもしんないよね。ありえないよね」

「ふ、ふざけんな。てめえら結託しやがって」

「結託?やな言い方やめてくんない。友情って言ってくんない。寂しかった銀さんにひじかたくんを紹介してくれたのもおきたくん、逃げちゃったひじかたくんの居場所を教えてくれたのもおきたくん。つまり友情だよね」



近藤は、わけがわからなかった。

列車で出会った感じのいい子連れの男と土方が、全く関係のないはず両者が、自分を間に置いたまま何か只事ではない会話を始めたのだ。

しかも、沖田がどうとか。

『逃げちゃった土方君の居場所を教えてくれた沖田君』というのはつまり、
『俺を追っている奴と総悟は繋がっている』という事なのだろうか。
トシを追っている人間とはこの男だったのだろうか。

そうなれば、トシが失踪する程の原因はこの男にあるという事になるのか?
この、感じのいい子供想いの男が?

確かトシは、『アンタは間違いなくそいつに尾行けられている』
とも言ったが、それじゃあなにか、俺はあの特急に乗り込んだ時から、この男に尾行されていたのか?

真向かいの席で子供がぎゃあぎゃあ騒ぐ、堂々としすぎて尾行ともいえないような尾行に俺は晒されていたのか?

…いや、それ以前に、この男とトシの間に何があった?
この男とトシの関係は何だ?



「まま」

鈴を振るような、あえかな声だった。
男が抱く幼児が大きな目を開き、両手を上げて土方の方に伸び上がっていた。

まま?

「神楽はひじかたくんが好きだねえ」

「ぎんさん、ぼくも。ぼくもすき」

「そうだよねえ、新八もひじかたくんがすきだよねえ。…ねえ、ひじかたくん、こんなに可愛い子供たちを捨てて、いきなりどっか行っちゃうとかお前な、そんなん母親失格じゃありませんか」

母親?

「は、母親じゃねぇ…」

「何言ってんの。この子達はまだ嘘つけるほど大きくないからね」

「まま」

「よ、呼ぶな…」

「ままぁ」

「…呼ぶなって言ってんだろ!!」

両手で耳を塞ぎ、土方が絞り出すように叫んだ。
子供達は、びくっと目に見えるほど体を震わせた。幼稚園児は男の体にしがみついてその肩口に顔を埋め、幼児の方は『ひぎっ』という音を喉から出したかと思うと、顔を真っ赤にして体を突っ張らせ泣き始めた。

「ああ。酷いな、ひじかたくんは。子供が泣いちゃったじゃねぇか。とんだ虐待だよこれ」

「な、何が虐待だ。虐待されてんのは俺だ!」

「何言ってんの。愛してるんだよ、ひじかたくん」

妻を迎えに、と列車の中で男は旅の目的を語っていた。
つまり、男は妻に出会えたという事なのか。そして、妻というのが実はトシだったと、そういうわけなのか。

なんだそれは。



幼児が動物のように泣き喚く中、蚊帳の外に置かれた近藤を前に、理解のできないドラマは進行していく。

「愛してない、俺は愛してない!」

「…そう。でも俺は愛してるんだ。困ったね。どうしよう」

男は子供を抱いたまま階段をゆっくりと降りて、壁に背中を張り付かせる土方の前に立った。
二人の身長は左程変わらなかったが、膝を曲げた土方の視線は常より低い。自然と男は土方を見下ろす形になっていた。

「ねえ。どうしようか」

ぞっとするような口調だった。
男の両腕は子供で塞がっている。しかし、土方を見る目は極限まで冷たい。その温度に近藤は土方の身に危険を感じた。

「おい、」

男が何をすると思ったわけでもなく、近藤はただ反射的に男を制止しようと、土方の手首を握っていた手を離して男に向けて伸ばした。



次の瞬間、近藤は伸ばした手の人差し指、その第一関節付近に激しい痛みを感じていた。
短く呻き、手を引っ込めようとするがそれもままならない。
何かが近藤の指先に食い込んで離さない。

何事かと伸ばした手の先に視線をやると、男に抱かれた幼稚園児が男の肩越しに顔を出して、近藤の指に齧り付いていた。

人体の中で最も固い部分である歯、しかも大人のものより薄く鋭利な乳歯のエナメル質が、近藤の無骨な指の厚い皮を無理矢理破って深く食い込んでいた。
噛みつかれた部分から指の股に向けて血が、つつ、と流れた。

唖然とする近藤に、男の子は幼稚園児とは思えぬ憎悪を剥き出しにした表情を向ける。

「ぎんさんにきやすくさわるな」



男の子を抱きつかせておいて、男はコートのポケットからハンカチを出した。
そして、近藤の血で汚れた男の子の口を拭ってやりながら、

「ひじかたくん。…帰ってくるんだよねえ」

と優しげな声音で歌うように言った。

「ひじかたくんがいないと、新八はこどもちゃれんじをやらないし神楽のおむつかぶれはひどくなるし、困るんだよ。俺もいろいろ寂しくて、ほんと困るんだよ」

「嫌だ…」

「嫌だって?何で?ていうか、嫌だとか何だとか、そういうのは関係ないんだよねこの雌犬が。グズグズしてんじゃねぇ立て、帰るぞ」

品のいい控えめな印象、というメッキが最早完全に剥げた男は、本来の性質を顕わにした口調と表情で土方の前に立ち塞がる。
帰るぞ、という言葉は、帰宅を促しているわけではなく、単に命令だった。
男は土方に命令しながら、靴の先で土方の靴の側面を軽く蹴った。

ほんのちょっと触れる程度の軽い蹴り方であったが、その動作には、傍で見ているだけの近藤ですら感じる程の威圧感があった。有無を言わせぬような。

命令する事に慣れている人間にしか出せない威圧感だ、と近藤は思った。

「テメエはもう俺なしじゃいられねぇんだよ。って事を、また教えてやるよ。…忘れてるみたいだからね」

吹雪き始めた雪が、ホームに吹き込んでいた。雪を含んだ突風は、改札口に至るこの階段へも流れ込み、狭い空間で対流し渦巻いた。

小さい子供二人を首にぶら下げて立つ男の髪が対流に巻き上げられた。額まで露出した男の表情は薄く笑ったまま、氷結したように微動だにしなかった。









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