鶴女房

細い雨がしとしと降る非番の昼下がりの事だった。
コンビニで菓子を買って屯所に帰ろうとしたところ、空きテナントばかりの古い雑居ビルの横から、人間の声が聞こえた。

断末魔じゃねえかぃ。

興味を引かれた俺は、棒アイスをしゃぶりながら軽はずみ上等でビルの横の路地を覗いてみた。
狭隘な路地の奥が血溜まりになっていた。雨粒がしきりに落ちる血溜まりには人間が倒れていて、その手前に淡い桜色の着物の後ろ姿が見えた。桜色の着物は抜き身の真剣を持っていた。刀身からは雨水と血が滴っていた。

「お姉さん。現行犯でさ」

俺は非番だったから、携帯で山崎あたりを呼ぼうとしたのだが、俺が耳に当てたその携帯を近付いてきたお姉さんがむしり取ったので驚いた。
驚く俺の前でお姉さんは携帯を二つに折って、捨てた。

「何するんですかい」

「お願い」

お姉さんはそう言って、言うなり体を屈め、いきなり俺の口を吸った。
濡れて冷たい唇が柔らかかった。
白粉と香水のいい匂いがした。




*






唇に口紅をべったり付けたまま俺は屯所に帰った。
俺は部屋でひとり、口紅べったりの口で菓子を食いながら、あのお姉さんは何だろうなあ、と考えた。
よくわからねぇが、大きいお姉さんだった。
でも、唇が柔らかくて冷たかった。
あと、いい匂いだった。

見逃してやって良かった。




*






夜になったので、俺は布団に入った。
夢を見た。
姉上が出て来た。
姉上は、

『総ちゃん。これからあなたを訪ねて来る人があるわ。あなたはその人を大切にしなさい。それか、殺してしまいなさい』

と言った。

『姉上、どっちですかい』

俺が聞くと姉上は

『大切に殺しておしまいなさい』

と言った。




*






面倒だから雨戸も立てていない障子が、ホトホトと叩かれる。

「誰でぃ」

障子には、月明かりを切り取った人影が映っていて、俺は誰何しながらもすぐにピンときた。
人影が言った。

「昼間、悪行を見逃して頂いた者でございます」

あのいい匂いを思い出した俺はすぐさま起き上がり、障子を開けた。
そこには、歳の頃でいえば土方くらいの眠そうな目をした男が立っていた。



男は俺の部屋に靴も脱がずに上がり込み、寝間着姿で座る俺の前に立った。
俺は、俺の布団が土足に踏まれるのをぼんやり眺めた。

「おかげで助かった」

「そうですかぃ、そらぁ良かった。あんたは男だったんですねぃ」

「いいや。あっちが本当だ」

「ははあ、そうなんですか。また何で男なんかになって来たんです」

「君に恩返しをするために、俺はこの姿に化けて来たんだよ」

「ますますわかりやせん。それじゃあ恩返しになりやせん。俺ぁ、本当の姿のあんたの方がいいですぜ」

「本当の姿だったら恩返し出来ねえからな」

「そんな事ぁねえでしょう」

「あるね。…あるんだよ、沖田君」

旦那はそう言って、掛け布団を靴の先で捲った。

「寝ろ、ここに」

「…旦那」

立ち塞がる旦那からは、いい匂いなど少しもしない。
俺は俺の布団を踏み付けて命令する旦那に言った。

「俺ぁさっき、夢を見やしてね。死んだ姉上が出て来やした」

「ああ、あのきれいなお姉さん」

「これから俺を訪ねて来る人があるから、その人を大切にしなさいと、姉上は言いやした」

「ふうん」

「それか、殺してしまえ、と」

「ふうん」

「大切にしろと言っといて殺せじゃあ矛盾してやす。だから俺ぁ訊いたんです。どっちだ、と」

「お姉さんは何だって?」

「大切に殺してしまえ、と言いやした」

俺を見下ろす旦那の目がちょっと笑った。

「それは、一体どういう意味なのかな」

旦那は、生徒の話を聞く教師のような喋り方をした。
自分では何も言わず、質問をし、生徒に考えさせて答えを言わせる。たとえ誘導された答えであれ、それは生徒が自ら考えた、生徒のものだ。答えの全責任は生徒にある。
つまり旦那は、会話の中で導き出された答えの全責任を人に負わせる。

旦那はこうやって、人を支配する。

「わかりやせん。姉上の言う事ぁ昔から、言葉は簡単だが難しくて、俺にはよくわからねぇんでさ。でも多分、大切にしてから殺すか、大切な殺し方をするか、どちらかの意味だと俺は思いやす」

旦那は上手いなあ。
スマートに卑怯で、最低だ。
でも俺は、俺もこうなりたいと思う。こういうふうに俺もやりたい。

「沖田君さぁ」

目を笑わせる旦那は言った。

「…俺はわからないんだが。なんで世の中には年上の女の言う事を喜んできく奴らがいるんだ?理解出来ねぇな。女は年下がいい。それもバカがいい。俺の言う事を黙ってきく、俺に口出ししない、出来ねぇくらいのバカがいい」

「女じゃねぇ。姉上でさ」

「姉ちゃんってな、女だろうが」

「女である以前に、姉上でさ」

「でも女だろう。なァ沖田君。気の毒だが、君の姉ちゃんは、姉ちゃん以前に女なんだよ」

「旦那。姉上は男を知らずに死にやした」

「関係あるかよ。うちの神楽だって、ぺったんこだが女だぜ。正直な話、見てて時々ゾッとする」

「旦那。なんで女の格好で来てくれなかったんです」

旦那は薄笑いに細めた目をもっと細くした。
そういう笑い方をする旦那の頬骨の上に出来た不揃いな睫毛の影に、俺は昼間のお姉さんを見付ける。

「どうして、本当の姿で来てくれなかったんです」

「年上の女のどこがいい」

「俺は姉上が大好きでさ。姉上に言われた事は喜んでききまさ。姉上の腕に抱かれて姉上の言うことをなんでもきく、いい子になりてえ」

「沖田君、君はバカだ。俺には理解出来ねぇ。…でもな、」

旦那は、座り込む俺の肩を持ち上げた靴の裏で押した。俺の体は旦那が土足で踏み荒らした布団の上にごろりと転がった。
仰向いた俺の上に旦那が被さってくる。幅の広い肩、俺の頭を囲い込む腕。俺は旦那の影の下で思った。
旦那は男だ。女なんかじゃありゃしねぇ。

「…でもな、沖田君。俺は、女は年下のバカに限ると思ってるんだよ」




*






旦那の掌が熱い。
旦那は男の姿に化けてきて、年上がいいと言う俺の嗜好を嘲笑い、年下のバカがいいと言う自分の嗜好を押し付けた。
俺は思う。
旦那はスマートに卑怯で、最低だ。
でも俺は、旦那のようにやりてぇ。旦那みてぇになりてぇんだ。

そうなるにはどうしたらいい?
夢に出て来た姉上は言った。

大切に殺してしまえ、と。



「旦那、あんたは綺麗だ」

自分の身体の内にこの人の身体が収納されているのを感じ、俺は今にもいきそうだった。

「どこが」

人に答えを言わせる例の喋り方をする旦那は、千切れた呼吸を浅く繰り返しながら、律動する下腹で俺の下腹やはちきれそうな性器を擦る。
熱い。

「顔とか…声とかが。綺麗でさ。姉上みてぇに綺麗でさ」

「わからねぇ奴だな。そんなもんは理解に値しねぇ、ゾッとするもんだって言ったろうが。それを知らねぇのがあんまり哀れだから、こんなむさ苦しい姿で、テメエの前に、現れて、教えて、やろうとしてる、俺の、真心を、台無しに、するのか、よッ!」

「アッ、あァッ!アッ!」

俺はあまりの気持ち良さに有り得ねぇでかい声を出して、叩き付けるように俺にぶつかってくる旦那の腰回りに脚で縋り付いた。

すげぇ。すげぇ感じる。
物凄ぇ乱暴だが、すげぇ感じる。
すげぇ。なりてぇ、俺もこんなふうになりてぇ。
こんなふうに乱暴な、人を人とも思わない、傲慢な人間に俺もなりてぇ。

『総ちゃん。これを大切になさい。そして殺しておしまいなさい』

姉上が俺の耳元で囁く。

俺の上で酷薄な表情を浮かべて動く旦那の頬が真っ赤に上気していて、額から汗の筋が何本も伝っている。
そんな旦那のけだものめいて揺れる上半身を抱き締めるように、清楚な微笑みを湛えた姉上が空中から覆い被さり、病気でやつれた細い首を伸ばして、俺の耳元に囁く。

殺してしまえ。

「ハ、ァ…あ、旦那、綺麗だ。ァッ、すげぇ、綺麗」

「黙れ」

旦那が歪めて引き攣れた唇の間から覗く、透明に近い白い歯を噛み締めた。

俺は、これになるんだ。
だから、俺がこれになるならば、俺はこれを大切に殺すべきだ。

俺は俺を大切にしなきゃならねぇし、そして俺は俺ひとりしか要らない。




*






旦那が布団に付いた膝を使って腰を強く突き上げた。
突き上げられた俺は、身体の深い所で旦那の脈拍を感じ、短い悲鳴を上げた。
目の前に、俺の鼻先まで倒れ込んできた旦那の顔があった。
短いまばらな睫毛。血を上げた薄い皮膚。真っ直ぐな鼻梁。

男に犯されている俺の前には、昼間のお姉さんがいた。

お姉さんは、激しく胸を喘がせ、口を開けて獰猛な呼吸を逃がしている。両腕が俺の頭を挟み込み、その先の手が俺の頭のてっぺんの髪を掴んでいる。
達した俺の中を構わず出入りしている。

見ていたらたまらなくなって、夢中で噛み付いた唇は冷たく濡れていた。
昼間と同じ感触だった。

お姉さんは俺の口の中で呻いた。脚で挟み込んだ胴体が跳ねるように震えた。



『総ちゃん。殺してしまいなさい。大切に、殺しておしまいなさい』

はい。姉上。



俺はすぐそばにある旦那の耳たぶを摘んだ。
そして、そこに囁いた。優しく、この上なく大切に。

「お姉さん。あんたは、世界一綺麗でさ」

お姉さんは、息を詰めた。
動きを止め、一瞬後に俺の中に出した。
俺はお姉さんの体液が俺の中を濡らすのを感じた。

お姉さんの恩返しは、熱くて痺れるみたいだった。



見逃してやって良かった、と俺はまた思った。




*






身体を持ち上げた旦那が、くそったれ、と言った。
俺は笑った。

「昼間の悪行は、上にチクりやす」

「ふざけるな、脳みそカラの淫乱が。十分楽しんだだろうが」

「恩返しはこれだけですかい」

違うだろう。
己の羽を毟って反物を織れ。それを俺に捧げろ。
それが、恩返しの本番だろうが。

そして、俺が反物を自分のものにした後に残る、羽を毟られて哀れなその正体を、俺に見せて下せぇ。



突然、俺の目を旦那の掌が塞いだ。俺は何も見えなくなった。
目の前にいるのが、お姉さんなのか旦那なのか、わからなくなった。

「旦那」

俺が呼ぶと、深く息を吸う音がした。息は、吐かれる時には声になった。



『どうぞ、この中を決して見ないで下さいまし。この醜い姿を見られては、私は生きてゆけません』



声は、そう言った。

それは昼間のお姉さんの声だった。









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